蝶が恋するような……という意味で蝶恋(ディエレン)と書く彼女は、蜂に狙われることはあっても、蝶に好かれるような芳しい女性ではなかった。
  蝶恋の母がマフィアの元ボスの愛人だったと彼女に説明しているようだが、その血を引き継いでいる蝶恋は美しいかんばせの持ち主だった。だけど黒狸も雪狐も彼女がそんな、自分の美しい顔と似つかわしくない性格と、どっちを捨てるかと聞かれたら、間違いなく美しい顔と名前を捨てるタイプだということを理解していた。
  雪狐は蝶恋が我を張る少女だった時代から彼女と友達だし、彼女を家に連れてくるようになった頃から黒狸とも知り合いだ。
  黒狸は雪狐がどうして蝶恋とうまくいくのかがわからなかったが、蝶恋と黒狸はどうやってもうまくいかなかった。
  黒狸は嘘つきだったし、蝶恋は嘘を見抜く異能の持ち主だった。黒狸はどうでもいいことが、蝶恋はいちいち気にさわった。黒狸が夢中になったお話は、蝶恋からすると陳腐な物語でしかなかった。黒狸が彼女のことを茶化すと、痛烈な反撃がかえってきた。彼女の機嫌をとろうとすれば、蝶恋は不機嫌になった。
  黒狸は蝶恋が何を望んでいるのか読み取ろうとしたが、今に至るまで彼女の性格のこじれかたは読めやしないし、おそらく彼女自身も自分のことがわかっていない。
  ただ言えることは、黒狸は面倒くさい性格をしているから蝶恋を理解したいと思うのに対して、蝶恋は複雑すぎて精一杯で、黒狸を理解するつもりなどこれっぽっちもなかったという一方通行の気のもみ方からスタートしたということ。そしていつしか、蝶恋は少し社交を学んだのに対し、黒狸は蝶恋にいささか失礼な態度を取るようになったという事実だ。
  蝶恋はわかりづらい子だった。雪狐が神経質なのとは別の意味で、神経を使わなければいけない子だった。
  蝶恋には多くのこだわりがあった。横断歩道は白だけを歩かなければならない、42という数字は不吉、白黒写真はなんだか気持ちが悪い、髪型が決まらない日は珈琲の味もいまいち、雪狐がゲロった日はたいてい飯が不味い、などなど……。
  彼女の儀式ともいうべき細かいルールや縛りが、黒狸からしたらとてもどうでもよく面倒なものだった。だから黒狸は最初は気を使ったが、これでは身がもたないと思ったところで蝶恋に合わせるのを辞めた。
  辞めたのは正解だと思っている。蝶恋にあわせるのを辞めてからのほうが、二人は少しだけうまくいくようになった。
  大人になるまで付き合いがあったのは意外なことだったが、雪狐の狭い人間関係に蝶恋が含まれていることが、黒狸と蝶恋の接点だった。雪狐は可愛い弟だった。蝶恋からすれば、世話のやける友達だった。
  雪狐は色々不適応を起こしていたが、黒狸と蝶恋を愛していた。蝶恋は普通に生きることのできない雪狐に泥を塗るような女だったが、それでも雪狐のことを好きだった。黒狸は弟は自分がいなければ死んでしまうことを知っていた。だから二人は雪狐を守るという意味で協力者だったのだ。
  お互い忙しくなるようになってから、会う回数はだんだん減っていった。
  上司の鳳がオペラを見に行くときでさえ、黒狸は紅龍会のオフィスで仕事をしている。残業で料理を作れないとき、蝶恋に電話をして雪狐を任せる程度だが、蝶恋も最近は連絡しなくてもわかっているようだったから、連絡さえまちまちにしかとっていない。

 黒狸がヴィーラを探すのを諦めたのは、いい加減彼女は見つからないだろうと気づいたときだった。自分と接点がなくなったとて、生きていて欲しいと願ったが、自分と再び接点ができることはないだろうと思った。
  そうして黒狸にとって残ったのは、古い関係だけだった。我侭なボスの鳳、仕事仲間のレノリアたち、弟の雪狐、かつて世話していたネフリータ、幼馴染の蝶恋……。
  たしかに大切なものを失った。だけど失う前に戻っただけとも言えないこともなかった。
  仕事の合間に休憩室で煙草を吸うこともできる、仕事もある、家族は死んでいない、身体を結んでくれる女性がいる、家もある……。別段困ることがあったわけではない。むしろこれでよかったのかもしれないとほっとしている部分もあるくらいだ。だけど何かが黒狸を納得させていない。何かが「これでよかったんだ」と思えていない。理由はわからなかった。

「たぬちゃんはさ、お仕事についてどう思う?」
  執務室に自分を呼んだ鳳はあまり上機嫌とはいえなかった。理由はわかっている。ヴィーラが消えたタイミングとほぼ同じ頃、大切な部下の透龍が消えたこと。ヴィーラといっしょに消えたとは思っていないが、重要な部下を失ったことは鳳にとっては不機嫌になる原因として十分だ。
「君は僕をがっかりさせたりしませんよね?」
  黒狸は「はい」と返事をしながら、もしかしたらヴィーラか透龍のどちらかは鳳に消されたのかもしれないと考えた。考えたが、消す理由も見当たらない。ただ、理由がないからといって殺さない理由にもならない。グレーゾーンはこの社会に入ってから当たり前すぎて、今更追求する気にさえならなかった。
「僕はね、お仕事のできる人間が好きなんです。僕のために働いてくれる働き蟻が好きです。僕のためにお金を運んできてくれる人が好きです。そして弱い部下が嫌いです。弱いというのは、物理的な意味ではなく……」
「メンタルの弱い部下はいらないということですよね」
「ええ。あと暴力で力負けするのも論外ですよ、もちろんね」
  鳳はにっこりと微笑んだ。細い腕で何人かつて殺したのかわからないが、鳳は判断を下すのにも躊躇しなければ、自身が殺すのももちろん躊躇しないのだろう。
「心の優しい部下なんていらないんですよ。わかるでしょう?」
  鳳の言わんとしていることはわかっていた。そして心を殺さないとできない仕事をしていることもわかっていた。
「黒狸、ヴィーラはどうでもよかったと言いなさい」
「ヴィーラはただの標的でした」
「透龍は君とあわなかったと言いなさい」
「透龍は考えが古かったです」
「僕の気に入らないものは君も気に入らない、君は僕の欲しいものを手に入れるためのプロセスでしかない。僕の邪魔なものを消すための道具でしかない。僕の利用したいものを騙してくる詐欺師でしかない。そうですよね?」
「そのとおりです。鳳サンの手足です」
  言いながら引き裂かれるような気持ちになる。自分の中で何かが壊れていくのがわかる。
「僕は優しいですね。未練の残っているたぬちゃんにわざわざ暗示をかけてあげてるのだから」
「鳳サンは優しいです」
「僕のためにまた働いてくれますよね? 黒狸」
「喜んで働きます」
「あなたの上司は誰ですか? 黒狸」
「鳳・Rosso・白明です」
「あなたの敵はなんですか?」
「鳳サンの邪魔をする存在はすべて敵です」
「誓いの証に何をしてくれるのでしょうか」
  鳳はにっこりと微笑んだ。忠誠の証に何を差し出せばいいのか悩んだ。鳳は黒狸が裏切りかけたことを知っていることが予想できる。となると、中途半端なものを引き渡したところで失望して殺されるのは見えている。
「俺の大切なものを渡せばいいのでしょうか」
「そうですね。価値のない弟以外で、何か僕の利益につながるプレゼントはありますかね」
  難しい問いだった。仕事をするのは当然なので、それ以外で利益になるもの――という名の人質だった。
「ヴェラドニア歌劇団の玖蝶恋のことは知っていますよね。鳳サンがあれを気に入ってるならば、引き渡すようにします」
  正直鳳が蝶恋に興味があるように思えなかったが、自分の幼馴染だということは知っているはずだ。そして元ボスの娘にあたるということも。人質にはいい材料だろう。
「困りましたね。パートナーが必要な人間に僕が見えましたか? 欠陥がある証拠じゃないですか」
  鳳は心に大きな欠陥があると思いながら、それでも頭をひねった。
「元ボスの娘を人質にとったところで意味はないと言いたいのはわかります。女に興味がないのもわかってます。あなたにとって価値のある存在で、俺にとって大切なものは今、あの女くらいです。彼女は色々な人間とコネクションがあるし、カモフラージュにも使えるはずです」
「それ以上の価値は見いだせませんね」
「ならば……」
「でもあなたにとって大切な友人を差し出すというのであれば、無能な弟よりは使える女だということは知っています。蝶恋が必要なときは遠慮なく利用しますがいいですか? それがたとえ殺すという利用の仕方だとしても、あなたは僕にあの女を差し出したということはそういうことですよ。いいですね?」
「かまいません」
  黒狸の返事を聞いて鳳はとても上機嫌に笑顔を作り、帰ってもよいと言った。
  廊下を歩いて自分の仕事場に戻る途中、蝶恋のことを考えた。何故蝶恋のことを大切にできないのだろう、と。
  蝶恋に悪いことをしたという思いもあるが、雪狐でなくてよかった、ヴィーラでなくてよかったという思いがないわけではないのだ。蝶恋だけで済んでよかったと思う自分はすごく残酷だと感じた。
  蝶恋がいなくなったところで、雪狐がいなくなったところで、レノリアがいなくなったところで、たとえあれだけ好きだったヴィーラがいなくなったところで、黒狸の生活に訪れる変化のなんと小さなことだっただろう。
  平気で自分は関係が破綻することをできるのだなと再確認した。何が大切なのかもわからないのだと思った。

 誰かがいなくなっても生きていける自分を寂しい奴だと言いたくない。
  自分がいなくても生きていける誰かに、悲しい奴だと言ってやりたい。
  身勝手な思いの中で、誰かが誰かを失う思いに、それがたとえ自分自身の心であることにさえ、蓋を閉じつつあった。