久しぶりに雪狐の兄と会った。本当にどうでもいい理由で。

「どうしたの?」
  蝶恋が雨で濡れ鼠になっている黒狸を部屋に入れて、ひとまずそう聞くと、黒狸はタオルを受け取る暇もなくこう聞いた。
「青い髪の女を捜している」
  蝶恋は思わず眉をしかめたのがわかった。お前の女のことなど知るかと思った。
「知らないわ。というより、知るか」
「知らないとは思うけれども知ってるかもしれないと思って有名人様を訪ねたんだろ。ヴィーラという女だ。昔金持ちに愛玩用人魚として飼われていたからお前もどこかで会ったことがあるんじゃねえのか?」
「知ってたとしてもいちいち覚えてると思うの?」
  蝶恋は腰に手をあてると、黒狸の顔をうかがった。とても真剣にその女性を探している様子は雨の日に探していることで明らかだったが、蝶恋としてはそんな女の居場所を知るはずもないのだ。ヴィーラという名前も今聞いたばかりである。
「いいじゃない。女くらい、他にもいるんでしょ」
「あいつは特別なんだ。俺の女神なんだ」
「あんたの悪魔でなく?」
「悪魔でもいい。ともかく特別なんだよ」
  蝶恋は、はあ、とため息をついた。この男が女に必死になることはよくあることだったが、今回はけっこう冷静さを欠いてるなと思った。
「で、どうして探してるの? いなくなった理由があるんじゃあないの」
「知らない。今日会いに行ったら、部屋はそのまま彼女だけ消えていた。死体もあがってないし、誰にも連絡を取らずに突然消えたみたいな感じだった」
「ふうん」
  シエル・ロアは危険な首都だからそういうこともあるかもしれない。死体が上がってないだけで死んでいる可能性なんて十分ある。
「死ぬ理由、心当たりないの?」
「あるから探してる。守るために」
「いなくなってから何日経ってるの?」
「わからない」
「あんたは何日探してるの?」
「二日」
「はい、死んでる」
  蝶恋はきっぱりとそう言った。黒狸が怒らなかったのは、うすうす彼が認められない事実を突きつけたからだ。
「死んでないとしたら、なんかあんたに告げられない理由があるかなんかで逃げた。もしくは、あんたが嫌いで離れたのどっちか」
  黒狸は静かにまぶたを伏せた。彼の銀色の髪から雨の雫がぽたり、ぽたりと落ちて床に池をつくる。いつまで落ちてるのかわからなかったが……
「泣いてるの?」
「雨の雫だよ」
「いつまで落ち続けてんの、その雨」
「うるせえな!」
  逆切れか。うぜえ、と感じながら蝶恋は耳を手でふさいだ。
「はっきり言っていい? あんたのせいで死んだのよ」
「なんで俺のせいなんだよ」
「あんた死ぬ理由がわかってるって言ったもの。あんたがそばに置いておきたいとかいうエゴ捨てて、シエル・ロアから、場合によってはヴェラドニア国から逃がしてやればその女は死ぬことなんてなかった。違うの?」
「死んだと決まったわけじゃあない」
「知るか。一番高い可能性を消去したとしても、その女が忽然と姿を消したのには変わりはないんだよ。気づけ、ばかもんが」
  一喝してやっても黒狸は口を結ぶだけだった。
「もういいから、帰って」
「俺が悪かったのは認める。エゴだった」
「そうだよ。帰れ」
「どうすりゃよかったんだよ。好きだったんだ」
「知るかよ。帰れ」
「蝶恋、本当にお前、知らないか?」
「知ってて見つけてどうすんの? 生きてりゃ消えた理由はあんたに見つかったらやばいってことでしょ。あんたの組織に狙われてるか、もしくはあんたに愛想が尽きたのか。どっちにしろ未練がましく探したところでまずいことになるだけじゃない」
「そうだけど……」
  煮えきらず呟く黒狸に、蝶恋は「だけど、なんだ?」と苛立ちが募った。
「黒狸」
  言うべき言葉は、好きだったのね、愛してたのね、それくらい大切だったのに裏切られてショックなのね。そういう言葉なのかもしれない。
「あたしのハイヒール折れたのよね。直してくれる?」
「自分で直せ。靴屋に行ったら直るだろ」
「軸からぼきって折れて無理だってさ」
「待て。どうして軸から折れるんだよ? 普通に転んだら根元から折れるだろ」
「むかつくことがあって冷蔵庫蹴ったのよ。あそこの凹みが蹴った跡」
  今度は黒狸が呆れる番だった。
「靴屋に直せないもの俺が直せると思うか? 大切な靴だったなら大切に扱えよ」
「そういうことよ。あんたが壊したもん私が直せると思わないで。あんたが失ったもの私が補えると思わないで。あんたが知らないこと私が知ってるとばかりは限らないし、たいてい知らない。あとあんたが大切に思ってた女なら、大切にするべきだったのよ。そうでしょ?」
  黒狸は言い返すべき言葉も思い当たらず、もう一度沈黙した。
「俺が悪かったんだな」
「気づけ。最初からそう言ってるんだから」
  認めろよ、素直に。と、思わず悪態をついてしまった。
  黒狸はよろりとソファに腰掛けて、うなだれた。女――ヴィーラが消えた理由は蝶恋にはわからなかったし、どうなったかなどもっとわからなかった。わかったことは、女が消えたということと、黒狸の女関係が破綻したということだけだ。
「大切だったの?」
「うん」
「大切にすべきだったわね」
「大切にしたつもりだった」
「つもりだったのよ。失ってわかった?」
「失ったこと自体が久しぶりだ」
「贅沢ね。私は付き合う男がDV男にコンバートされるなんてしょっちゅうよ」
「おい、DVコンバーターは絶対お前が悪い。明らかに先にいつもお前が殴ってるだろ」
「あんた以外の男を殴る理由ってあるの?」
  次は優しい男を選ぼうと思ったら優しいだけじゃあなかった。次は真面目な男を選ぼうと思ったら蝶恋を管理しようとした。次は夢を追いかける男をと思ったら働かなかった。次は仕事を持っている男でいいと思ったのにまた失業した。そしてすべて蝶恋が理解しないことへ腹を立てて、最後は殴ってくるのだ。何が悪いのか蝶恋にはわからない。
「みんなね、『俺は優しいのに相手がひどいんだ、お前が理解してくれないんだ』って言うのよ。何言ってんの? 当たり前でしょ。理解できないことして共感得られるわけないでしょ。優しいことの代償は利用されることよ。自分が支払うことのリスクを私に押し付けて、私が笑顔でいるわけないでしょ。どうなの?」
「お前はどうしたんだよ?」
「私、何も悪いことしてないわよ。男がだいたい悪かった。フォローできないレベルだもの」
「そうか。大変だったな。でも……」
「『俺は悪くない』って言うなら、また同じ理由で女失えばいいじゃない。あんたが悪いんだよ、うぜえ、帰れ」
「なんだよ、さっきから帰れ帰れって」
「あたしに弁解する必要どこにあんのよ。あんたが悪くないって理由を私が聞く必要どこにあんの? あんたが私に発散したいのは私の男たちが私にしたことと同じなんじゃない? 『あなたは悪くない』って言って欲しいなら別の女のところへ行け。お前を待ってる女はごまんといるんだろ、なんで私のところに来るのヴォケ。結局どうでもいい女しかいないから、大切なときに私のところに来るんでしょ。どうでもよくない女を大切にできないから、私に泣きつくんでしょ。どうでもいい女に本音を打ち明けられないから私のところに来るんでしょ。どうでもよくない女を維持できないのはあんたの魅力が不足してたんでなく、あんたの欠陥が致命的だからよ。あんたは私への扱いがぞんざいすぎるの。どうでもよくない女の扱いこそぞんざいすぎるの。あんたのやってることは私で感情を処理してるんじゃあない。私を負の感情のゴミ箱にしているの。ふざけんな、あたしを掃除機か掃き溜めだと思うなら勘違いだ。死ね」
  蝶恋がまくしたてるように黒狸の出来ていないところをまくしたてると、黒狸はようやく理解したようで「悪かった」と言った。
「大切だった……」
「失って初めてわかるありがたみなんて知ったこっちゃないわ。あんたが経験すべきは失うことの本質だったと思う。どうでもよくないものを失ってどうだったの?」
「つらかったよ」
「よかったじゃない。つらかったって感じられて」
  久しぶりなんじゃあないのか? この男がつらいと感じたのは。古い知り合いだが、ほとんどのことをどうでもいいと処理するタイプの男だ。感情の処理が追いつかない問題はほとんどないはず。
  そうなると、よほど好きだったのだろう。そして物理的な問題以外で自分の中に不協和音が生じたのも久しぶりそうだった。
「失ってよかったとは思えない」
「それが大切だったってことよ」
「失いたくなかった」
「でもまずったわ」
「どうするべきだったんだと思う?」
「自分で考えろ。さっき言ったと思うけれど死ぬほどの理由があって、死なせたくなかったなら逃がすべき。それ以外の理由はあんたらのこと観察してたわけじゃあないし、わかんない」
「……。失いたくなかった」
「認めろ、失ったんだ」
「苦しい」
「当たり前でしょ。でもみんな当然のように生きている。だから何? 愛していた人を失って、苦しくない人なんているわけないでしょ。物理的な障壁抱えてストレスや葛藤がないわけないでしょ。紅龍会の人間だって私の知り合いだって、あんたと敵対している軍だって私の敵対している嫌な客だってね……誰ひとり失ったものがない奴なんていないのよ。あんたは失うのが遅すぎて、今更ショック受けてるかもしれないけど、心を処理する時間なんて存在せずに次々襲い掛かってくる災難なんてみんな当たり前なのよ。ばっかじゃないの? 誰かが処理を手伝ってくれると思うなよ。誰かが埋めてくれるわけないだろ。時間がかかっても正しい答えを出せるのは自分だけでしょ。自分が格好悪いと感じたときしか考えは改まらないでしょ。今のあんたが格好悪いことを認めろよ、そして首くくる覚悟で改めろよ。死ねと思うけど、死ぬほど恥ずかしい奴が死んだら、もう豚でしかないから改めろ」
  とりあえず落ち込むだけ落ち込んで、早く立ち上がればいい。蝶恋は思いつくだけこてんぱんにする言葉を言った。立ち直るか腐るかは黒狸しだいだ。
「馬鹿だろ……今頃になって、父親が失ったことのない奴はいないって言葉の意味がわかったかもしれないんだ。何かを必ず怖れてる、何かを必ず愛してる、何かを必ず失ってる、何かを必ず信じてる……俺の埋められなかった感情を味わえば、何か変わるかもしれないと思っていた。みんなみたいに失えば、俺は共有できるんじゃあないかと思ってたんだ」
「すっげ馬鹿」
  きっぱり言い捨てた。不幸自慢を共有する意味がわからない。何がしたいんだ? と素直に疑問だった。
「失うってことはね、馬鹿だった格好悪い自分を知るってことよ。恥ずかしかったから改めようって思うだけ。格好いいとか、自分のロストしたものを話せば誰かとわかりあえるとか、本当陳腐な幻想。やっと三十越えて知ったあんたは相当格好悪いけれど、そっからしかはじめられないんだから、とっとと認めて、とっとと方法探して、とっとと失敗して、とっととまた認めて、繰り返して少しマシになれ。わかる?」
  相当わかりやすく噛み砕いて黒狸に言うと、相当自分が悪かったと思っているらしく、やっと素直にうなずいた。蝶恋は納得した黒狸に、女物の傘を渡した。
「私、あんたの情けない面見てるの飽きたわ。あとは勝手に家帰ってめそめそしろ。じゃあね」
「蝶恋。俺本当に助かったわ」
「私はあんたのことなんて考えてない。あんたのために言う言葉なんて、私の理想どおりのあんたになれって言ってるようなもんだわ。だから気に入らないところ言っただけよ、じゃあね」
  家から追い出して、玄関の扉を閉める。窓から見れば、自分の傘を差して街頭の下を歩いていく黒狸が見えた。ひとまず追い返したと思ったところで、蝶恋はソファに腰掛ける。黒狸の座っていたところが湿っていた。
  言ってもよかったんじゃあないだろうか。失ったものがひとつでよかったね、と。
  蝶恋はうまくいかないことだらけだ。ピアノを弾く右手から、髪型から、歌う地声に至るまで、思い通りにいったものなどひとつもありやしない。そしてどうでもいいなんて思えない。
  なぜ黒狸がうまくいってると思っているのかがわからない。あんなに損なってて、自分が失ってないと言われると、当て付けられているように感じるくらいだ。
  思い通りになんてなるわけがない。だって自分と同じように、全員が意思と心と、傷を持っているのだ。誰一人とてまったく同じ問題で悩んでいることはないのだ。
  なぜそんな当たり前のことに気づけないのか、なぜそんなうじうじしているのか、蝶恋には理解不能だった。そして黒狸の恋にも当然興味はなかったが、黒狸にとってどうでもよいことは蝶恋にとってはどうでもいいことではなく、蝶恋にとってどうでもいいことは黒狸の大切なことなのかもしれないが、そんなことは蝶恋の知ったことではなかった。
「もう相手したくないな」
  蝶恋は本音を呟く。叱るのも嫌いになるのも、怒るのも同情するのも、全部エネルギーがいるのだ。黒狸は省エネすぎるから感情がわかなかっただけで、自分のように全力で生きればどうでもいいことなどほとんどないと気づくに違いない。
  少しは格好よくなればいいのに。そうしたら口くらいは利いてやってもいいぞと蝶恋は身勝手な気持ちで黒狸が少しだけ変わろうと思えるかを案じた。

(了)