仕事が終わったのは午前二時を回ったあたりだった。終電が必要ないからといって、これは酷いのではないか、ハードワークすぎるだろうと黒狸は思った。
  物理的に目を通さなきゃいけない資料が多すぎる。数字を追いすぎて目がちかちかしている。狐は圧倒的に人材不足だ。マフィアは頭脳派よりも殺人のほうが得意な連中が多い。それじゃいけないと思いながらも、そういう仕事を彼らに任せてしまっているのは黒狸もわかっていることだった。つまるところ、彼らにできない仕事がこっちに回ってくるのだ。
  仕事用の眼鏡を布で磨き、眼鏡ケースに仕舞ったところで近くに置いておいた携帯が目に止まる。
  最初に考えたのは、ヴィーラのことだった。今、この時間に起きているだろうか。
  この時間にかけたら迷惑かもしれない、は考えなかった。彼女は自宅にいるはずだ。眠っているならば携帯をサイレントモードにするぐらいはしているだろう。構わずかけてみることにした。

 三度、コール。
  そのあとすぐにヴィーラが電話に出た。
「今仕事終わったところなんだけど」
――今? ボスが好きなのはわかるけど仕事しすぎだよ、黒狸。
「俺が好きなのはヴィーラさんよ? 鳳サンはただの上司ですから」
――わかってるよ。それで、今から来るの?
「ヴィーラさんがいいなら」
――この家汚いんだよね。黒狸の家がいい。
「俺の家も汚いよ? 服散らかってるし」
――ホテルは今から予約とれないし、黒狸の家でいいよ。
「かしこまりました。急いで帰るから、玄関で待ってて」

 通話をオフにした。帰宅の準備をして、パソコンの電源を落としたあと、誰もいない仕事部屋をあとにした。
  深夜の異邦人街は普段の活気とは違う雰囲気だ。マフィアだからといって、囲まれればただの一般人に近い戦闘能力の黒狸は、なるべく治安のいい道のりを選んで自分のマンションまで帰った。
  ヴィーラはまだ来ていなかった。鍵を財布の中から探している間に、エレベーターの動く音がして、振り返るとランプがちかちかと移動している。ああ、来たんだなあと思いながら鍵を開けたタイミングで、ヴィーラは白いビニール袋を下げて現れた。
「ビールと煙草買ってたら時間遅くなった」
「今帰ってきたところ。ヴィーラさんを待たせなくてよかったよ」
  鍵を開ければ、当然待っていてくれる人なんているわけもなく、黒狸は電気をつけて流しで手を洗った。ヴィーラは後ろのダイニングテーブルにビールを並べている。
  黒狸はグラスを二つ棚から取り出し、それをヴィーラに渡す。彼女はそれを慣れた動作で注ぎ分けた。
「じゃ、乾杯しますか」
「黒狸、お仕事おつかれさまでした!」
「ヴィーラさん、今日もあなたは最高です!」
  グラスをカチン、と鳴らして傾けた。思えば仕事中珈琲しか飲んでなかった。冷たいのどごしがとても心地よい。
「あれ? ヴィーラさんもしかしてビールを美味しくいれられるの?」
「泡の量で味違うんだよ。美味しい?」
「うん」
  これならあっさり飲めてしまいそうだ。程よい苦味を楽しみながら、喉がごくごくと上下に動いた。しかし二杯目を自分で入れたとき、あまりにさっきのビールと味が違いすぎて驚いた。同じ缶なのに、ここまで味が違うのかと。
  ヴィーラは煙草を吸って、灰皿に灰を落としながらご満悦である。黒狸も煙草を懐から取り出そうとしたが、取り出しかけたところでやめることにした。
「どうしたの? 吸うんじゃなかったの」
「んー。煙草吸っちゃうと満足してがっつけなくなるんだよね」
  ヴィーラは黒狸の言葉には答えず、大きく挑発的な目をうっすらと細めるだけだった。笑うときにだけ、目の端に寄るシワが黒狸は好きだった。
「ヴィーラさんのおっぱいで寝たいなあ」
「いいよ。ベッドいく?」
「吸っていい?」
「なんもでないよ?」
  ヴィーラは何かおかしそうに笑うと、ベッドのほうに歩き出した。黒狸は彼女の吸殻がまだ消え切ってないのを灰皿に押し付けて、そのあとをついていく。
  仰向けになったヴィーラに覆いかぶさるように身体を重ね、やわらかい胸に顎を乗せてみた。最近あったかくなってきたせいか、仄かに肌から汗ばんだ匂いがする。あまり不快な香りではない。
「黒狸甘えん坊だなあ」
「甘えたいよ。長男だもの」
「甘えていいよ。寂しいんでしょ?」
「うん。寂しくて死にそう」
  黒狸の銀髪をヴィーラがやさしく撫でてくれた。目をつむり、鎖骨の下にキスをする。
「ヴィーラさん、好きー」
「あはは、知ってる」
「ヴィーラさんは?」
「好きだよ」
「うん。で、何番目に?」
  一番じゃないのは知っている。ヴィーラの表情は見えないが、胸から立ち上る気配が変わったことから、何人目か数えているのだろうと思った。
「三番目、かな」
「一番でも二番でもなく、三番目ね」
「うん」
「俺はヴィーラさん何番目かわからないや」
「そんな順位下なの? ひどーい」
  違う。どうでもよくないくらい溺れた人が初めてで、何番目か比較する対象が存在しないのだ。
「三番目でもいいよ、ヴィーラさん」
  もう一度鎖骨の下、同じ場所にキスを落とした。
「ごめんね、一番って言ってやれなくて」
「いや、安心した」
「どうして?」
「上に二人しかいないことに。一番は最後追い抜かれるから」
  ヴィーラのシャツのボタンをひとつ外し、黒狸は一度身体を浮かせるとヴィーラの顔を間近で見た。
「ヴィーラさんにとって何番であるかより、俺にとって特別なことのほうがずっと大切だしね」
「よく言うよ」
  疑わしいとまでは思ってなくても、自分がそこまで愛されるとヴィーラは思ってないようだった。
  ヴィーラの唇に唇を重ねた。愛しているという言葉はあまりに薄っぺらくて、だからかわりにキスをした。

 一度、唇を重ね
  二度、唇を重ね直し
  三度目でようやく口の中へと到達した。

 唇を食みながら、彼女のシャツのボタンを外していく。脱がしやすいところまでいったら肩より下にずり下ろした。
  背中に手を回してブラのホックを外し、肌の上をすべるように撫でて胸から腹をやさしく愛撫した。
  重ねた唇からどちらのかもわからぬ涎がこぼれて、ヴィーラの頬をぬらした。頬を汚した唾を左手で掬い取り、濡れた指で乳房を捏ねた。
  か細い息が洩れるのがわかった。喉から鼻にかけて、呼吸と重心の移動でヴィーラが力を抜くのが。
  右手と左手を絡めて重ねて、キスを一度中断すると鎖骨を舐めた。そのあと軽く噛み付く。骨は華奢というよりはしっかりしていた。鎖骨の間にあるくぼみに舌を這わせる。
  ヴィーラの履いているジーンズのホックを左手ではずした。腰を反射的に浮かしたヴィーラにあわせて、それをずり下ろす。
  ショーツに染みができているのを上から触って確認して、本人の顔を見る。
  何も言わなかったが、ヴィーラがこくりと頷くのを承諾の合図ととり、下着を引き下ろした――

 何が虚しいのか。
  行為が終わったあとに満足と喪失と感じるのはいつものことだが、何がこんなに虚しいのか。
  普段から終わってしまうことについては考えないようにしているが、ヴィーラとの関係には終わりがくるような気がした。というよりも、スパイの証拠さえ掴んでしまえば、黒狸はヴィーラを守ることなどできないのだ。
「黒狸って苦悩の数だけ眉間にシワが寄るよね」
  そんなことを考えてる黒狸に隣からヴィーラがそう言った。そんなことを言われたのはたぶん初めてだと思った。
「ヴィーラさんは、笑うと目尻にシワができてね、それはヴィーラって女が笑顔をつくった回数なんだと思った」
「へえ」
「嘘が刻まれたシワだった。だから本気で笑わせたいと思ったよ」
  ヴィーラはおかしそうに笑って、「黒狸といるときはいつも笑ってるよ」と言った。それは本当のことなんだろうと思った。
  だけど彼女には、もっともっと笑ってほしかった。ずっとずっと笑ってほしかった。

(了)