まるで動物小屋だった。
  アパルトメントの隅に寄っている女たちを眺めて、俺はは顎に手をあてた。
「好きなのを選べよ」
  売春宿に売り飛ばすための紅龍会の競売品だ。
  こんなところ普段は来たいと思わない。
  俺の品定めをするような目に怯える女たちに、気まずい気持ちになるが、選びに来たのは事実だ。
「あそこの目の据わった奴がいい」
  こっちを怯える目というより、冷淡とも嫌悪ともとれる目で睨みつけていた女を指さして俺はそう言った。
  それがエルムレスとの出会いだった。


「エルムレス」
  彼女はそう俺に名乗った。
  すぐにその響きからこれは偽名だと直感が告げる。
  着の身着のまま新しい服も下着も与えられてなかったエルムレスは少し獣臭かった。動物のようだと俺は感じる。
  車の中で彼女と俺は無言のまま乗っていた。
  ジュリオが辞めて、ネフリータが俺の家を出ていったあの頃のことだ。

「拾い癖をやめろよ、黒狸」
  当時自分の上司だった男にそう言われた。
  俺がネフリータを拾ったことも、エルムレスを拾ったことも同じような理由だ。
  寂しかったから――。
  俺がミシェルと付き合ったのもライラと付き合ったのも同じ理由だった。
  不幸そうだったから――。
「不幸な女を幸せにすることで充実感を得るんじゃない」
  上司の言葉に反論してやりたいのに、何も返す言葉が見つからない。
  そんなんじゃない、意地悪な言い方をしないでほしいという気持ちと、それが事実だという気持ち。
  ジュリオを正規で雇ってすぐに辞められて、次に雇う人間に困っているくらいならば、いっそのこと紅龍会の奴隷から一人コキ使ってもよさそうなのをもってくればいいと思ったのはほんの思いつきだった。
  どのみち悲惨な運命をたどるであろう彼ら彼女らの中の命を粗末にしたところで、怒る者など紅龍会にはいなかった。
  エルムレスにベッドと冷蔵庫しかない部屋を与えて、ご丁寧に借金を作ってやった。彼女にも値段を定めた。俺が彼女に期待する価値を。
「エルムレス。お前にはこれだけの値段がついている」
  書類を見せたところで、エルムレスは無反応だった。
「ゼロがたくさん並んでるだろ? 俺の下でも、他の下でも、この金を全部支払ったときにお前は自由だ。お前はお前を買うために働いても、一生紅龍会の奴隷として働いてもいい。紅龍会は仕事のできる奴が幸せになれる組織だ、お前がお金を稼ぎさえすればなんでも買ってやる」
「なんでも、ですか」
  欲しいものがあるのだろうかと思ったら、
  エルムレスの口は憎々しげに歪んだ。
「保健所の猫を拾ってきただけのくせに、白々しい」
  ええ、そうですね。
  人も猫もタダで手に入る上に使い方によっては金になる。
  毛並みを整えてペットショップに売り飛ばすか、綺麗に着飾って売春宿に売り飛ばすかだけの差。
  自ら拾ってきた最悪に毛並みの悪い猫は、愛想笑いさえ浮かべない。
  あのままじゃお前、笑いもせずに客足も遠のいてすぐに死んでいたと言うのはあまりに簡単で、だから感謝しろと屈服させるのは簡単で、そう言って得られた偽りの感謝の無意味さと、自分の尊大さの恥ずかしさくらいはもう知っていた。
「働け」
  簡潔にそうとだけエルムレスに言った。


  愛情が最初からあったわけじゃあない。
  驚くほど冷淡な理由で奴隷のエルムレスを狐班の経費で買った。
  エルムレスが気に入ったわけでもなんでもなかった。エルムレスならば俺に感謝しないだろうと思った。
  二十余年生きていて、一人も幸せにしていないどころか、自分さえ幸せなのかわからない。
  他人の不幸をラジオのかわりにする俺を馬鹿にして欲しかった。
  そんな心の醜い俺を非常に醜い心だと言われたほうがいっそすっきりした。
  心が痛まなきゃ読書じゃあないと言った元恋人のミシェルの言葉を借りるならば、俺が俺の心を痛めつけなけりゃ人の不幸を聞く意味などなかった。
  俺はエルムレスの悲壮感をBGMにしたかっただけだ。


  エルムレスがエルムになって、エルムさんになったのにそんなに時間はかからなかった。
  ただの不幸ラジオから人だと感じて愛だと感じるまでにそんなに時間はかからなかった。
  ほら、俺はまだ人を愛せる。
  ほら、俺はまだ腐りきっちゃいない。
  そんなちっぽけな生きている、心が干からびちゃいないと言い聞かせる俺があまりに浅ましくて、エルムに申し訳なささえ感じていた。
  エルムが払い込む金はそのまま口座に貯まっている。彼女がいつか自由になったとき、借金だと思っていたものが貯金だったら喜ぶだろうか。
  そんな自分の金を一切使ってない無駄な善意。

  ほらほら、ほらほら、俺はいつでもそうだ。
  元恋人だったアル中のライラから酒を取り上げたときといっしょ。
「俺を見ろ」
  彼女が自分のこれっぽっちの金で買った酒を取り上げたときと同じ。
  君のためだと言いつつ、これぽっちも君の寂しさなんて見ちゃいなかったね。
  エルムのためだと言いつつ、ちっともエルムのことなんて見ちゃいなかったね。

「不幸な女を幸せにすることで充実感を得るんじゃあない」
  と言った直後、死んだ上司は正しい。
  俺が得られる評価は不満か、せめてよくて感謝だ。
  そんな希薄な価値のために、良い人だと言われたいがために犠牲にしているのもの大きさにそろそろ気づいてもよさそうなものなのに。

「あなたはは私のことを消耗品だと思ってるんでしょう」
  エルムが今日もぶうたれる。
「そんなことはないよ」と笑っている俺は携帯に名前をつけることがあっても、電池のことまで考えたことはない。
  マグカップに自分の名前を書いたことはあっても、紙コップは平気で握りつぶす。
  無神経にならざるをえないよ。
  だって俺はそんなものにまで気持ちがあるなんて考えていたら潰れてしまうから。
  俺は俺の気持ちで自分をいっぱいにしておかないと、誰かの気持ちを本気で考えだしたら潰れてしまうから。
  消耗品のほうがいっそ、消しゴムのカスのほうがいっそ、ずっとずっと自分より善良的なことを知っている。
  事務用品の消しゴムが黒狸を責めたことはない。
  今日食べたツナマヨおにぎりが黒狸を残酷だと責めたことはない。
  エルムが「消耗品だと思っているでしょ」という声に、少しばかりの罪悪感。
  これだけのものを消費している、消費が美徳の俺自身から目をそむけたくなるだけ。

  目に止まるもの全部を救うことなんてできないし、そんな傲慢さも知っている。
  あのとき動物小屋でエルムレスを拾ってきた。
  他の女たちがどうなったかなど、考えた瞬間に思考を捨てた。
  俺は俺を幸せにするので精一杯で人のことがよくわからない。
「俺は俺を幸せにするので忙しいんだよ」
  エルムレスは消耗品に対する俺の返答に不満そうに眉をしかめて「そうですね」と言った。
  もっともっともっともっともっともっと
  幸せになりたい。