紅龍会休憩室。黒い革張りのソファと自販機があるだけのシンプルなそこは、普段から人がいったりきたりする。
  壁際のソファに腰掛けているめぐるを見かけたときは少し元気になっているのだろうかと考えた。
  ココアを買う。めぐるの視線が少し動き、かち合う。
  小さく「よっ」と言うと、めぐるは視線をゆっくりと伏せた。
「久しぶり」
「この前会ったよ」
「そうだっけ?」
  向かいのソファに腰掛けて、あついココアをすする。甘みが脳にしみわたり、苦味が肺をみたすのを感じる。
「四回戦、何見てきた?」
  黒狸が四回戦を終えたことをめぐるは知っていたようだ。何かためになる情報をあげられればと思ったが、何もない。
「なんもなかった。お先真っ暗」
肩をすくめてそうとだけ言った。お先真っ暗だ。
  めぐるは何も言わずにまた肩を落した。落胆しているのはきっと何もヒントがないからだろうと推測した。
「お前はその視野、どうにかしとけよ?」
「? なんのこと」
  黒狸の言葉にめぐるは顔をあげる。その視野じゃあない。だけどどう説明すればいいのかわからない。
  彼と親しいローレンスあたりならいい方法を知っているのかもだが、彼はそういうことをはっきり言うタイプではない。
「見えてるようで見えてない。いやわかってるんだろうけど、見えないところに頼らず生きようとしすぎ。絶対それは見えるようになる」
  めぐるの見渡している世界は広い。視野も子供の割には広い。
  しかし穴があるはずだ。緑内障のように見えていないところがあると感じる。しかも見えるところに頼るあまり、見えないところを意識していない。
  おそらくそれは今回、四回戦のフロアで敵対するものと関係がある……ような気がした。
「踏み込んでいいなら踏み込むけど、お前自分で治したいってガキだもんな」
  結局自分は他人だ。めぐるのことすべてを知っているわけじゃない。踏み込むのには今はあまりに忙しすぎるのも事実だ。突き放すしかない。
「わけわからないこと言ってんなよ、おっさん」
  めぐるはニヤと笑って、憑き物が落ちたような顔をした。自分が何を言ったかなどわからないしわかりたくもないが、何かヒントを得たと思ったようだ。
  大したヒントじゃあないが、たぶん鍵になるのは確かだ。
  めぐるはもう処理しだしている。生意気だと感じる、感情を置き去りにするのはあまりよろしいと言えやしない。
「お前みたいな生意気なガキはとっとと大人になりやがってちょっとはセンチメンタルなおっさんの苦しみ理解しやがりください」
「おっさんこそ、大人になれよ。精神的な部分で」
  反論はすぐにやってくる。黒狸が子供だとでもいいたいのだろうか、大人ではないかもしれないが、子供というにはいささか老けた精神をしている。
「おっさんはおっさんです。大人じゃなくてもおっさんです」
「おっさんは年齢だろ。年齢相応の精神構造しやがれってことだよ」
「めぐるはわかってないな。大人が考えることなんて今夜の夕飯のメニューくらいだぞ。子供の頃のほうが大人っぽい」
「そんなの子供でも考えるだろ。そんなに子供でいたいなら多感な時期に戻るといい。もう無理だろーけど」
  ああ言ったらこう言う。別に大人びたふりをして頭から押さえつける気にはならないが、自分をなんだと思ってるのだろうとは思う。馬鹿だと思われていたらいやだと思うのは子供に馬鹿にされるのが嫌だからじゃあないと感じる。この子に馬鹿だと思われたらそれは自分がこの子のことを見くびったという証なのだから。
「わかっちゃいないと言いたいけれど、俺と同じ年齢のときめぐるが違う大人になればいいよ」
「俺は、おっさんみたいにはならないよ」
  そりゃそうだ。と胸中呟く。あなたと私は違うと。
「おっさんと、俺は歩み方が違う」
  一言、一言区切ってめぐるは確かめるように言う。
「違って当たり前」
  そこまでわかってるなら、なんで踏み出さないのだろう。賢いのに、選ばずに流された過去の自分を見ているような苛立ち。苛々は自分勝手なもので、めぐるに自分と違う選択をしてほしいと思うおもエゴだとわかっている。
「そのとおり。四回戦がんばれよ」
  結局言葉は飲み込んで、エールだけ送った。
  少年は笑って、退屈そうな中年の頭をがしがし撫でると、
「おっさんに言われたかねぇーよ」
  と言った。自分が慰められてるんだなと感じると少し笑えてきた。エールを送られたのは自分のほうだ。

(了)