03
◆◇◆◇
西園寺は今日学校に行くのが嫌で嫌でしかたがなかった。
「かぁさん、かぁさん! 僕三十八度も熱があるよ! 喉痛いよ! 鼻で息ができないよ! 頭痛いよ! 胸が張り裂けそうだよ!」
「まぁ、大変。これ持って行きなさい」
マフラーの如く首にネギを巻かれたのを乱暴にはずしながら西園寺は叫ぶ。
「いらないよ! 僕は外に出たくないんだ! 花粉症だから! ほら、かぁさん見てくれ、今日の花粉率九〇%超えているよ!」
そもそも花粉は多いか少ないかで判断されるものであり、パーセンテージで表示されるものではない。母はにじり寄りながらにっこり笑った。
「まぁ、大変。これ持って行きなさい」
ミントの匂いがキツイマスクで口を塞がれて、それを乱暴にはずしながら西園寺は激しく抵抗した。
「かぁさん、外はすごい日差しが強いから倒れる!」
「まぁ、大変。これ持って行きなさい」
レェスのついた日傘の先端で玄関のほうへと追いやられながら西園寺はなおも食い下がる。
「イヤイヤイヤかぁさん! 最近このへん変質者が出るんだ、外は危険だ!」
「まぁ、大変。これ持って行きなさい」
今度は玄関に置いてあった釘バットを渡される。なぜこんなところに釘バットがあるのかという疑問よりも先に西園寺は次の理由を探した。
「かぁさん、実は今日、星座占い最悪なんだ! 今まで渡されたものじゃあ防ぎようもない災難がくるんだ!」
「まぁ、大変。これ持って行きなさい」
近くの神社の安全祈願を渡されたところでドン、と玄関のドアにぶつかった。
西園寺は考えた。ここはもう、男らしく泣き落とすしかない。
「かぁさーん……」
「行って来い、さっさと。チョコはママがゴディバの買ってきてあげるから!」
「ママンの馬鹿ッ!」
ママンのゴディバの味はいい加減に覚えてしまった。
そして西園寺はわぁっと泣きながら勢いあまって自分から外へと飛び出した。
しまった、出てしまった! 慌てて家に入ろうとしたが、内側から鍵をかけられた。
「ぐぅぅ、クソが! 休んでやる、サボってくれる!」
西園寺は近くの公園まで行くとブランコに腰掛けた。
高校生になった自分に子供用のブランコはちょっと位置が低い。
幼稚園のときも、
小学生のときも、
中学生のときも、
この日は、必ずここに座って誰かが自分にチョコをくれるのを待っていたものだ。
だが、結局この席に座っていて、チョコをくれた天使も、話しかけてきてくれるやさしい人も、心配してくれる家族も、誰もいなかった。
ギィ、とブランコを揺らす。
「ねぇねぇ、あっくん、はっぴーばれんたいん! これあげる!」
「ありがとうーミサちゃん!」
「ガルルルルルルル!」
微笑ましい幼稚園児たちのやりとりにも思わず威嚇の声をあげてしまう。
幼児たちは変な人がいると思って逃げていっただけだが、その目は負け犬を見るような目に見えた。
いたたまれず、公園を逃げるようにあとにする。
「……学校へ行こう」
十五分の短い現実逃避をした西園寺は、ずるずると重い体を引きずりながら学校へと向かった。
西園寺は昇降口前で足が止まった。入りたくなかった。開けたくなかった。下駄箱なんて。
立ち止まっているうちに女子たちがキャーキャーいいながら昇降口に近づいてきた。思わず昇降口に向けていた足を中庭のほうに向け、西園寺は走り始める。
「チクショー! バッド、チョコ! バッド、バレンタイン!」
恋人たちの愛の囁きなんて聞きたくはない。
普段から聞くだけで寒気が走るが、今日はもう呼吸さえできないような気がした。
木の幹にしがみついて癒しを求めたが、木の皮が茶色いのでそれがまた、チョコを彷彿とさせて西園寺の気に障った。
もう悲しくなってきてしくしくと泣いていると、廊下から聞きたくない声が聞こえてきた。
「鈴木ー、こんな早くに学校にくる必要ないんじゃねぇ?」
「なんだか胸騒ぎがするんだ。今日もきっと悪いことが起こる。胃が痛い……早くチョコを取りに行かないと」
ばっと身を低くした。
こんな不様に泣いているところなんて見られたら、何を言われるかわかったものじゃあない。
見るな、早くあっちへ行ってくれと強く願った。
「鈴木、それは気にしすぎだ。ストレスだ。そんなんで今日チョコ食べれるの? 代わりに食ってやるよ!」
「どっから血を流そうとも食べるよ」
「『はい、あーんして!』『あーん、美味しい♪』とかやるんだろ? うぅおえぇ!」
「いくらなんでもそれは…」
西園寺は思わず「ブフッ」っと噴いた。
鈴木と冬姫が仲睦まじくチョコの交換をする姿をリアルに想像してしまったからだ。
おぞましいことである。カップルよ、呪われろ。
ふたりの足は一瞬止まったように見えた。しかしまた何事もなかったかのように歩き出し、家庭科室へと消えていった。
「おぉのれぇー、鈴木北斗めぇ〜っ! 桃色ドリーム遊戯なことを吐かしやがって! 死ねよお前、死ね、シネシネシネ! 鈴木北斗がッ!」
頭の中には鈴木と冬姫の甘々な蜜月がぐるぐるとまわっている。こんなに悔しいのは初めてだ。
木の棒でザックザックと地面を掘り起こす。
「鈴木北斗は、実はおんなー」
くだらないデマを穴の中に吹き込んで、ぽんぽんと土をかけた。まったく無意味な行動なんだが何かしていないとだめだ。
何故、出掛けに母親から釘バットを受け取っていなかったのだろう。もし受け取っていたのならばこの怒りを釘バットで表現できたというのに。
「嗚呼。チョコ、欲しい……」
あれだけ全面的に否定していたが、やはり男として欲しかった。
小さく踞(うずくま)って、縮こまった。
「どうせ、僕に好意を持ってくれる女の子なんていないんだ」
頭の中で李樹の言葉がよみがえる。負け犬はバレンタインデーの日も負け組だということを。
悔しいが負けを認めるしかない。
その時である。頭部に固いものがガンガンガン、と落ちてきた。
「ぶっハッ! いたぁ! 刺さった!」
何かの角がぶつかったような痛みに思わず頭を押さえる。何がぶつかってきたのだろうと足元を見ると、プレゼント用の箱と、風呂敷に包まれた何かと、ラッピングの袋だった。
最初は空だと思ったが、落ちてきたときにきた頭の衝撃を考えて、手にとってみると重さがあった。
慌てて上を見上げてみると窓が開いていて、誰かの手が引っ込められるのが見えた。訝しみながらプレゼントの箱を開けてみると、中にはちょっと欠けたケーキとカード。
カードにはこう書いてあった。
《頑張っている貴方へ。ハッピーバレンタイン》
西園寺の手は震えた。
「僕宛にチョコが来た!」
どんどん湧き上がってくる喜び。よかったね、よかったね、勝。この喜びを誰とも共有できないので自分だけで盛り上がる。他のプレゼント箱も同じようなものが入っていた。
「こんなにも、たくさん……」
西園寺は早速チョコやケーキにがっついた。
味ははっきり言って人の食べるようなものじゃあなかったけれど、そんなのどうだってよかった。
美味しいよ、美味しいよと涙を流して食べた。
その時である――
「そこの君――!」
いきなり後ろから声をかけられた。
チョコまみれになりながら振り返ると、キャスケットをかぶってコートを羽織った、探偵風の男子生徒と、忍者かぶれの頭巾をかぶってぶかぶかの制服を着た男子生徒が立っていた。
「君、君が持っているそれはチョコだね?」
探偵風の男が質問してきた。
「いかにも。もらったチョコだが? きさんらは何だ?」
「ふふふ、拙者たちでござるか?拙者の名はハットリ、またはサスケ、またの名は亘裕太(わたりゆうた)! 探偵部所属」
「ハハハ、僕は名探偵立部良郎(たてべよしろう)! 探偵部の看板、探偵部のエリート! 君、クラスと番号と名前!」
なんだろう、この怪しい馬鹿どもは。
西園寺はそう素直に思ったが、なんだか底知れぬ恐怖も感じた。
探偵部といえば、東雲高校の特殊な部活のひとつだ。学校で起きた事件や生徒たちの頼み事を聞く、報酬次第ではなんでもやる部活だ。
メンバーが少ないためにミステリー同好会と便利屋と情報部とスパイクラブとボディーガードクラブを無理矢理合併させた部活である。
そのため、なんなのかよくわからない部活だと聞く。
でも、自分は何も悪いことをしていないのだから、何も怯える必要はない。
西園寺は胸を張って立ち上がった。
「きさんら、誰に向かって口を利いているのだ!? 僕の名前は西園寺勝、一年七組七番生徒会長だ! 僕を知らないなんて、非常識だ。まったくきさんらのおつむレベルがわかるようだ」
立部と亘は顔を見合わせた。亘が首をかしげる。
「知っていたでござるか? ジェームズ。拙者、初耳でござるよ」
「ちょ、ちょっと待って」
ジェームズと呼ばれた立部は懐からメモ帳と虫眼鏡を取り出し、西園寺の名前を探し始めた。そして顔を上げる。
「生徒会議長で、でっ稚。鈴木生徒会長をつけ狙うストーカーとか、オタクとかしか書いてない。怪しいやつだ!」
「悪党でござる!」
「何だ、そのデマ情報! きさんら、そのふざけた面下げてさっさと失せろ! 僕は忙しいんだ」
そう言って西園寺はチョコレートを口に頬張る。
「なんでそなたがチョコを持っているでござるか!?」
「今回チョコが生徒同士の中で行きわたっていないという。つまり、僕の推理が正しければ、チョコを持っている=犯人。君、怪盗バレンタインだな!」
「はぁ? アホだ。僕の目の前にアホがいるよ、ママン」
呆れたように西園寺は呟いた。しかしチョコレートは離さない。
「御用でござる、観念せい!」
亘がロープを出したので慌てて逃げようとしたが、立部とふたりに挟み撃ちにあってあえなく御用となってしまった。
◆◇◆◇
西園寺の告白を聞き、加藤はどう言ってやるか迷った。
まず思うことは可哀想な奴だなということ。そしてなぜ少しも不思議に思わなかったのか。
だがこれは西園寺が悪いわけではない。ある意味被害者のこいつを責めたてるようで悪い気もしたが、色々聞き出す必要がありそうだ。
加藤はややげんなり気味に口を開いた。
「劣……こう言っちゃなんだけど、チョコに執着しすぎだ。貰いたい気持ちはいいとしても、お前の場合、僻んでる。チョコ=好意を持つという考えは捨てろ。たかだかチョコにそんな意味を求めるから苦しいんだ」
「きさんこそ、考えが斜めだ! 大抵の人間はそう考えている。バレンタインは特別な日だ! まごころだ!」
「いや、俺が言いたいのは肩に力入れすぎってこと。お前の顔、すげぇ引きつっている」
「弛(たる)んでいるほうが嫌なんじゃい! ほっといてくれ!」
「劣ー。チョコもらえなかったら負けか? チョコを一度も貰ったことのない人なんていっぱいいるぞ。お前もそいつらもまとめて負けなのか? それこそアホらしい考えだと思うけど?」
「お前がどう考えてようが関係ない! 問題は僕がどう考えているか、だ!」
とうとう終いには泣き始めた西園寺。周りの冷たい視線がこちらを向いている。
どうやら加藤が悪者という認識のようだ。もうチョコの定義はやめておこう、自分は犯人を探しているのだと問題の原点へと立ち戻った。
「で、貰ったチョコはどこから召喚されたんだって?」
「上からだ。僕の頭の上にひらひらと舞い降りた」
話が若干変わっていた。呆れたように加藤は聞き返す。
「天からのお恵み物だとは思っていないよな? 誰が捨てたんだ?」
「捨てただと? 恥ずかしいから、顔が見えないように遠回しに渡したのだ」
「都合のいい解釈だな。つまり顔を見てないんだな?」
ちょっとがっかりしたがまだ何か聞きだせそうだ。何か手がかりがあるはず。
「顔は見てないが、手は、見た」
「手か……どんな手だった?」
「手は、手だ」
「手は手で、手に間違いない。つまりなんか特徴があるかって聞いているんだよ脳みそプリンプリンちゃん」
西園寺はムッとした顔で少し考えるそぶりを見せた。
「今思えば……」
「今思えば?」
「男の手だったかもしれん……うがああああああん!」
発狂した。とうとう認めてしまった。貰ったチョコは捨てられた物だったと。
「男っぽい手だったのか?」
「いや、違う! 袖の部分が男子の制服だったのだ!」
「で、聞きたいんだけど、どこらへんの窓?」
「僕がいたのは中庭だ。たぶん三階の教材準備室だ」
加藤はふうん、と頷きながらあとで見に行こうと思った。
「ああそうだ、貰ったプレゼントのカード。どんなの? まさか、こんなんだった?」
怪盗バレンタインが使っていた名刺カードを差し出すと、西園寺は強く頷く。
「ああ、使われているのは同じ物だった」
おそらく、チョコレートは偶然捨てたのが西園寺の上に落ちてきたのではなく、意図して西園寺に押し付けたのだろう。
なぜ、こいつは毎回碌な目に遭わないのだろうか。
そういう性質というか呼び寄せているのだろう。一番犯人と言われて不自然ではないし。
「まあお前に聞けるのは、これぐらいかな?」
加藤は立ち上がり、その場を離れようとした。その瞬間西園寺は加藤にしがみつく。
「出してくれ! ここから出してくれ! 味方になってくれたんじゃあなかったのか、きさん!」
「ああ、味方だ。でも、西園寺は乙女のスイート食っちゃったんだし、それについての償いは受けたほうがいいんじゃね? だいたい、齧(かじ)られているお菓子を少しは疑えよ」
「ハイヤーッ!」
問答していると、掛け声とともに聴聞室の扉が蹴り開けられた。
扉の向こうには華奈が立っていた。キッと西園寺を見つけたかと思うと、ずんずん近寄ってくる。
「どこッスか!? 俺っちのチョコはどこッスか!?」
「なんだドスコイ女。きさんのチョコなど知らんわ!」
「風呂敷に包まれたトリュフッスよ!」
西園寺はぎくりとした。そういえばそんなのを食べた覚えがある。
「あーあのクソ固い不味いチョコか。あれが一番最悪だった。石食っているみたいだった。変なもん食わせやがって、いじめだ!」
「華奈葉桜連拳上段脚零壱!」
華奈のよくわからない必殺技が華麗に決まる。西園寺はあえなく散った。
「劣は粉々に砕け散った、と」
加藤は短く感想を言った。
そして華奈の使っているその技は本当に空手の技なのかという目でそちらを見る。華奈はすっきりしたのか、ケロっとしている。
「会長には一発で仕留めろと言われているので、これぐらいで勘弁してやるッス!」
床に伏してもう抵抗できない西園寺をがくがく揺らしながら紙っきれを押し付ける少女を見ながら、加藤はほかの容疑者たちの話も聞いた。
◆◇◆◇
鈴木と冬姫はスピーチのあと、報道陣の質問の嵐を適当に答えてくぐりぬけた。
「以上です。これにて記者会見は終了いたします」
時間がきたのですばやく締めに入ろうとするが、沢山のフラッシュと共に、まだまだ質問は飛んでくる。
「待ってください! 西園寺勝くんは犯人なんですか?」
「この騒ぎの犯人の目星は?」
「会長、そこのところどうなのでしょう!」
「生徒会長!」
「現在調査中です。今分かっていることはお話しました」
さえぎるように立ち上がって控え室へと向かった。
生徒会メンバー四人はどっと疲れたようにソファーに腰をおろした。
「お疲れ様です。大変でしたね」
手渡された水を一気に飲み干して鈴木はコップを返した。
「ありがとう、深沢先輩。あなたのアンチョコのおかげでなんとか危機は乗り越えられました。はぁ、それにしても迷惑な話だよ」
「まったくもう。なんなんですの、あれ。まるで私たちがいけないみたいな質問の数々は。こっちは一生懸命善処しているっていうのに」
水緒が憤慨したように言った。疲れきった冬姫が不安を口にする。
「今日はなんとかなったわ。でも事件が次の段階に発展したとき、どう動くかで生徒会の支持率がかわるかもしれません」
支持率の変動があまりにも大きいと、また生徒会選挙が立ち上がるだろう。その時は解散である。
生徒会長になった以上、自分の今期中にやっておきたいこともたくさんある。まだ解散は避けたかった。
鈴木の背中にどっしりと不安と疲労が圧し掛かってきた。
「なんにしたって、焦っちゃだめだ。でもこの話はなんとしても丸くおさめよう。とりあえず生徒会室に戻って作戦を練らないと」
今日は幸せな時間を過ごせると思っていたが、とんだ事件に巻き込まれたものだと冬姫はがっかりしていた。
今日はそれどころじゃあない。あのチョコは当分お預けといったところだろう。
生徒会室に入ると、留守番をしていた李樹と一足先に戻ってきていた剛が迎えてくれた。
「おお、お帰り」
「みなさん、お疲れさまです。どうでした?」
「ええ、最悪でしたわ」
「でもまぁ何とかなったけど……」
やれやれと言いながら各々自分の席につこうとした時である。
冬姫は席に座ろうとして自分の席の異変に気づく。
「無い……」
目立つところに置いてあった自分のチョコレートがないのである。
かわりに、あのカードが置いてあった。
「川島先輩、ここに置いておいたチョコはどうなりましたか?」
「はい? チョコ?」
「ああ! 僕が帰ってきた時には既になかったですよ! 姫様が既に会長にあげたとばかり……」
剛の言葉に李樹が狼狽する。
「ななななな、何の話や!?」
鈴木の顔が引きつる。机の上のカードを手に取った。
「怪盗に盗まれた! 川島先輩、あなた留守番していたんんじゃあないんですか!?」
「ちょっと、ひょっとして李樹、あんたが怪盗バレンタインとかいうオチじゃあないでしょうね?」
鈴木と水緒に問い詰められて、李樹が口ごもる。
「川島先輩、あなたが怪盗だと疑ってはいません。ただ、どちらに行かれていたんですか?」
「待てや! 俺はただトイレにちぃと出かけていただけや!」
「最低ですわ」
「なんやねん! トイレ行っちゃ悪いんか? 伊藤」
李樹を最低と言い切った水緒はさらに続けた。
「あなたはトイレに入る時は鍵をかけますわよね? なのになぜ、生徒会室に鍵をかけなかったんですの? あなたは知っていたはずでしてよ、今学校中で窃盗が相次いでいることを」
「仮にも留守を預かっていたというのに……」
深沢が静かに呟いた。みんなの冷たい視線が集中して李樹は焦った。
「たしかに俺の不注意や。でもな、チョコなんてまた作ればええやん。せやろ?」
その言葉に、冬姫は黙って生徒会専用の木刀を取り出した。
「川島先輩、上着を脱いで、こちらに背中を向けて座りなさい」
「ぎゃー! 折檻だけは! 折檻だけは! ホンマすんません!」
柄になく泣き喚いて許しを請う李樹を見て気の毒に思った剛が怯えながら冬姫を止める。
「やめてくださーい! 許してあげてくださーい!」
「たしかに彼に罰を与えるのは筋違いかもしれない。でも、私は……どれだけ、心を篭めて作ったのか、『また作ればいい』たしかにそうかもしれません。でも私の気持ちはどうなるんですか?」
淡々と呟きながらも木刀を持つ手に力が入る。
「冬姫」
木刀を正眼に構えようそした瞬間、鈴木が冬姫の肩をつかみ、自分のほうを振り向かせた。真剣な眼差しでこう言った。
「俺が捕まえる。絶対に捕まえるから」
冬姫の手に握られている木刀をそっと抜き取り、鈴木はそのまま生徒会室の外へと出て行った。
「やべぇ、会長殺る気や」
「し、死者がでませんように!」
念仏を唱える人まで現れたが、誰も鈴木を止めに行こうとしなかった。
呆然としている冬姫に深沢が声をかける。
「姫、元気出してください。こんな時に言うのもなんですが、私たちは今起きている問題を解決しなくてはいけません」
「そうですわ。私たちもできることをやりましょう!」
「ええ、わかっています。取り乱してすみませんでした。では、生徒会も全面的に捜索を開始しましょう。ちょっと大掛かりにはなりますが、生徒全員の血糖値検査の手続きを至急とってください」
やるからには徹底的に容赦なく。
それがこの学校の今年のスローガンだった。
◆◇◆◇
漆のかかった黒い木刀を片手に爛々とした目で廊下を歩くものだから、すれ違う生徒は誰も鈴木と目を合わせようとせず、そそくさと避けて通った。
鈴木はまっすぐ聴聞室へと向かった。扉をくぐって中に入る。
「すみません、西園寺いますか?」
「西園寺君ならあそこに……」
と、風紀委員が西園寺を指差した。
西園寺は椅子から転げ落ちた。凶器を持った鈴木が歩み寄ってきたからだ。
また殴られると思い、咄嗟に華奈の後ろに隠れた。
「僕じゃあない! 僕じゃあないからな!」
「会長! マジ恐いッス!」
怖気づくふたりの前でぴたりと歩みを止めるとため息をついた。
「劣じゃあないのはわかっている。今さっき、冬姫のチョコが盗まれたから、劣は取調べを受けている最中なんだからもちろん無理だよな?」
「じゃじゃじゃ、なんで木刀持ってここに来るんだ!?」
「いや、劣大丈夫かな? と思ってきたんだけど。ごめん、こんなの持ってきたからびっくりしたんだろ?」
これは単に冬姫に持たせておくと危ないと思って没収しただけなのだが。
木刀を机の上に置きながら、ふと西園寺がぼろぼろなのに気づく。
「劣、お前ボロボロだけどどうした?」
「そこの野生児にやられたんだ。何が一発で仕留めてこいだ!」
「華奈ちゃん、一発殴るのを許したわけで、1ターンで仕留めていいって意味じゃあなかったんだけど」
「すまないッス。だってこいつ、俺ッチのチョコ食って不味いって言ったんですよ!」
チョコレートを食べたという言葉に、鈴木は西園寺を冷ややかな目で見た。
「僕は、ハメられたんだ! 被害者だ!」
「そそ。そいつは押し付けられたんだってさ」
後ろから加藤がやってきた。どうやら全員の話を聞き終わったようだ。
「表出ねぇ? だいたいここらにいる奴らには話聞いたし、今から校内の怪しいとこ探るつもりなんだけど」
「じゃ、加藤から話聞こうかな」
はっきり言って、西園寺の話を聞くのは当てにならない上にひどく疲れる。
加藤にも同じことが言えるが、何事かに関心をもっているときの加藤は真面目にやってくれることが多い。
「劣、早めに出られるように先生と交渉しておいてあげるから。ちゃんと謝るべき人に謝れよ?」
「僕ぁー悪くない!」
「とりあえず俺ッチに謝れ!」
華奈に西園寺が謝るところを見せて、風紀委員の担当の先生と責任者に生徒会の事情を話し、人手不足なので一刻も早く西園寺を仮釈放してもらうように言ったところ、優先して取調べをしてもらうこととなった。
加藤と鈴木は中央館の三階、中庭に面した教材準備室へと向かいながら話した。
「西園寺なんだけど、やっぱり違うな。まだ加藤のほうがやりそうだし」
「うわーやっぱり? 俺も自分を疑いそうだ。でも、今回は違うぞ? 面白そうだけど、やんないってば。だいたい俺、チョコ飽きるほど食べているし」
「数日前の家庭科部での味見のことか?」
「あんなんで今年のバレンタイン終了は勘弁だ。勿論、他の女の子から正式にプレゼントされているし、今日だって母のスペシャルコースの朝食を腹に収めている。そこらの手作りチョコでヘタに口の中汚したくねぇし」
「意外だな。親戚以外でチョコ貰っているんだ。何個貰った?」
学校中の女子に嫌われている加藤にもチョコがくるとは少しびっくりだったが興味本位で聞いてみた。
「うーん、五個? 去年は七個だったな。外国のガールフレンドたちから。『日本にはこんな行事があるんだけど、俺も欲しいな』と言ったらフレンドリィにプレゼントしてくれたぞ?」
「それにまごころはあるのか?」
「別にそんなんどうでもいいっしょ? チョコ食えれば」
正直こんな奴が自分よりも多くプレゼントをもらっていることには、何か不条理さも感じた。が、愛の比率では自分の方が勝っているようだ。いや、そんなことはどうでもいいと鈴木は頭を切り替えた。
「で、怪盗バレンタインなんだけど。なんでわざわざモテない男たちに盗んだチョコをばら撒いているんだ? 義賊ってやつかな?」
「ネズミ小僧ねぇ……でも、鈴木はさぁー、もし自分が義賊だとしてだ、食いかけの、しかも不味いチョコを投げ捨てるか? モラルがねぇな」
「そんなことするぐらいなら、普通に作って渡すよ」
「あんさー鈴木。普通に作って西園寺に渡してみろよ? 投げ返されて、罵られて、泣き叫んで、彼の心に大きな傷ひとつ状態だぞ? 一般的に考えてキモイっつーか余計な御世話? むしろ、死ね」
「そ、そうだな」
家庭科部の鈴木にとってお菓子を作ることにあまり抵抗がない。
普段から誰かにあげたりしているからそこらへんの価値観がちょっとずれているのかもしれない。
「じゃ、やっぱり罪をなすりつけるために? でも、別々の男子にまんべんなく配られているみたいだし、もし罪をなすりつけるんだったら、徹底的に誰かを陥れたほうが……」
そこまで言ってから鈴木は黙った。何を言い始めるのだ、自分は。
「陥れる」この学校にきてどれだけそれが人を不幸にさせるのか、自分が思い切り味わってきたはずなのに。今自分の口から自然と誰かをハメる算段がこぼれたことに驚きを隠せない。
喉の奥にもやもやしたものを感じている鈴木に加藤が言った。
「鈴木、この行動になんか意味があると思う? 撹乱作戦か? 俺は違うと思うけど?」
「悪知恵の働く加藤くんはなんだと思うんだ?」
「そらーやっぱし、ゲームっしょ?」
鈴木は足を止めて鸚鵡返しに聞き返した。
「ゲーム……?」
「だってさ、こーんなカードに大掛かりな大規模盗難、まだまだ無くなり続けるスイート。犯人はいまだ捕まらず、見かけた人もいない。完璧怪盗になりきっている。これはゲームだよ、鈴木。これで犯人は変装でもしていればベリーギューなんだけど?」
「変……ああああ! 変装! 怪しまれない人物に変装しているってことか?」
「そういうこと。鍵あけ、変装、身軽、小洒落た台詞、証拠は残さない、退路の確保、まあこれぐらいそろえばできるんじゃね? 俺でなくても」
鈴木は答えなかった。ゲーム、加藤にとってもこれはゲームなのかもしれない。
楽しそうに前を歩く少年を軽く小突く。
「捕まえるぞ。ゲームをおしまいにしてやる」