海賊ヴァッフェンロース号

風見鶏の来襲

 航海に出て約半年が経った頃である。
 ディランは見張り台の上で遠くを見ていた。すると聞いたことのない女の声が聞こえてきた。
 最初は人魚かセイレーンだと思い、目を凝らしてみるが、そんな姿はどこにもない。
 じゃあどこから聞こえてくるのだろうと思った瞬間、風がぶわっ……と吹き、船が半ばなぎ倒されそうな角度で方向転換した。
「おわっ」
  危うく海へと投げ出されそうになりながら、見張り台にしがみつくような形で一安心する。
  そして改めて海に視線をやったとき、その女はそこにいた。
  岩場ともいえないような小さな岩の上でドレスを着て日傘を持った、長いディープブルーの髪の女である。
「船長ー。面舵の方向に変な女が立って歌ってるぜ?」
  下で舵をとっていた船長――ダンテに声をかけた。
  ダンテは双眼鏡を取り出すと、その姿を確認する。その瞬間、ダンテの顔色が変わった。
「リター、リタ!」
「なんだい船長。そんな大声で呼ばなくても近くにいるよ」
  甲板の掃除をしていたマルガリーテスが耳の穴を塞ぎながら言った。
  ダンテは無言でマルガリーテスに双眼鏡を渡すと、歌う女の方向を見ろと指差した。
  怪訝に思いながらもマルガリーテスが女の姿を確認すると同じく顔色を変えた。
「面舵いっぱい。“貴婦人”を発見!」
「やっぱ貴婦人か! 面舵了解」
  がらら、と舵を面の方角へと切った。
  見張り台から降りてきたディランがふたりに聞いた。
「なんだ? その貴婦人って」
「海の貴婦人って言ったらミストラルだろ!知らねぇのかディラン」
「ミストラル……?」
  暴風を意味する単語を言われてもディランにはピンとこない。
  にわかに騒がしくなった甲板にひょっこりと姿を現したクローセルがその単語を聞いて顔をひきつらせた。
「魔女ミストラル……。あの船をどんどん沈没させていく歌って踊る、通称“貴婦人”ね。彼女の手にかかればローレライもセイレーンも溺れるって話よ」
  マルガリーテスが続ける。
「あたしが子供のときに人魚の砦にも貴婦人は現われたんだよ。何隻ものの船が沈められて、とうとうあたしの親父の番が来た。うちの親父はジェントルマンで、あのクソ親父スケベ心出しやがって……」
「ジェントルマンは?」
「それ以来帰ってこないんだ。ってうるさいよ、ディラン」
  ジェントルマンについての疑問符は浮いたが、マルガリーテスに睨まれてディランはすごすごと引き下がった。ダンテがし切り直す。
「ともかく、貴婦人は機嫌を損ねないかぎり目的地につくまで風をつかさどる魔女だ。丁重に船でおもてなしをするぞ。風の噂じゃ最後に豪華客船のスープが熱すぎて船を沈めたそうだ。ディラン、お前の双肩にこの船の命運がかかっている」
  ダンテの言葉にディランの肩がげんなりと下がる。彼は小さく「はは……」っと笑った。
  風に乗って、ヴァッフェンロース号は磁石のように貴婦人へと引き寄せられていった――

「まあ、レトロな船ね。素敵」
  ヴァッフェンロース号は相当旧式らしく、ミストラルは入ってきたと同時に内装を眺めて嬉しそうに言った。
「貴婦人、今回はどのようなご用事で海の中に立っていらしたんですか?」
「あら船長さん、私もう娘のような年齢じゃなくてよ。こう見えても……あら、いくつだったかしらね。まあいいわ、わたくしこう見えても結婚してますの。ですから“奥様”とでも呼んでくださらない?」
  見た目はまだ二十代のはじまりといった、この船の平均年齢とさほど差はないこのミストラルが、本当は何歳なのかは誰にも予想がつかず、とりあえずみんなで笑って流した。 ダンテいわく、笑えばとりあえず機嫌がとれるらしい。
「では奥様、今回はどのようなご用事で?」
  ダンテが改めて聞きなおすと、ミストラルは顔を少し赤らめた。
「実はお恥ずかしいことに、主人とその……喧嘩をしてしまいましたの。それで、ほらよく言うじゃあありませんの? 妻は主人と喧嘩すると実家に帰るって。ということで、実家に久々に帰ってみようと思いましたの」
「ははは、つまり……その、実家と言いますと本家ですよね? やはりみなさん、風に強いんですか?」
「まあ船長さん、我が家系の女はずっと海の風をつかさどる踊り手として舞を覚えますのよ? わたくしだけ特別なわけではありませんわ」
  やっぱりそうか。これから行くのは魔の巣窟だ。ダンテは笑いながら胸中平穏ではなかった。
  と、その時である。
  ミストラルが口元を押さえてよろけた。
「うっ……」
「!? どうなされましたか、奥様?」
「わたくし、妊娠していますの。久しぶりの船の揺れがこたえたみたいで」
「クローセル、安全運転だ! ディランはレモネードをお持ちしろ」
「「イエッサー船長!」」
  クローセルが帆の確認に走り、ディランはキッチンへと向かった。マルガリーテスがため息をつく。この船は、沈没するのだろうか。

「長男の名前はカタストロフと言いますの。生まれてきた赤子の顔を見て、この子はすぐに悲劇的戯曲の天才になると確信しましたわ」
  そんな家庭事情を隣で聞いているのはマルガリーテスとダンテである。ミストラルは楽しそうに続ける。
「でも踊りの才能はまったくですの。あと泳ぎもさっぱり。ほら、わたくし生まれたときから海の中で育ちましたから、ためしにこの子を海に突き落としてみましたの。そしたら泣いちゃって……普通泳ぎますよね?」
「あ、ああ。そうだ……なあ、リタ?」
「あたしも三歳くらいから泳ぎの練習したのを今も覚えていますよ。奥様」
  二人で顔を見合わせながら笑った。普通の子供はきっと泣くだろう。
「二番目の息子はペールギュントと言いますの。これはきっと女たらしのていたらく的音楽家になると思って」
  たしかに音楽のペールギュントのようになりそうな名前だと思ったが、これも碌な命名とはいえない。
「この子にヴァイオリンを渡したら、どこかでヘビメタのウニ頭のお友達を作ったみたいで、歌いながらヴァイオリンをいくつも壊しますの。困ったのでリュートを与えてみたのよ。今度はきっと壊さないと思いません?」
「ええ、そう思います」
  はは、とダンテが笑いながら愛想をふった。
  ミストラルはふいに顔を曇らせ、その顔がダンテの笑顔を凍りつかせた。
  もしや笑ってはいけないところだったのだろうか。
「でも、上ふたりは男の子でしたの。わたくしは風の踊り手として歌と踊りを次の女の子に教えなくてはいけないのに……」
  いやな間が空いた。
「で、でも! 次男のペールギュントくんは歌も上手いんでしょう?」
  マルガリーテスが無理やり繋いだ。するとミストラルはふるる、と哀しそうに頭を左右に振る。
「激しくシャウトしすぎまして、声がガラガラになっちゃって……あれじゃあ吟遊詩人になれませんわ」
「そんな、そんなことはないよ。なあ船長?」
「お、おう」
「でも、今度生まれてくる三人目の子こそ、きっと女の子ですわ! 風に愛されるように風を意味するヴァンという名前にしようと考えていますの」
「それは男の子の名前じゃ……いやいや、いい名前です」
  この際つっこんではいけない。笑って、笑って流すのだ。
「きっとこの子ならば生まれたと同時にヨットなんてヨッとひっくり返せるよっと」
  今度は誰も笑わなかった。笑顔が凍りついたまま、我慢だ、ここは笑うところではないとアイコンタクトをとる。
  ミストラルが不思議そうに聞いてきた。
「みなさん笑いませんの? 会心の出来でしたのに」
  みんな笑え。
  マルガリーテスがダンテの頬をひっぱりながらわはは、と豪快に笑った。ダンテもひっぱられながら引きつり笑いをした。
  ミストラルはレモネードを啜りきって、少しため息をついた。
「でも……ダーリンと喧嘩したのもこれが原因ですの。わたくしは踊りに執着しすぎだって。次の子も普通に育てばいいって。わたくしは、わたくしはただ風をつかさどる者として……。でも、くだらない意地なのかもしれないわ。そう考えているとダーリンに会いたくなりましたわ!」
  ミストラルは立ち上がるといきなり指をぱちんと鳴らした。反応するように、暴風が吹いたようで、窓から見えたクローセルがマストにしがみついていた。
  マルガリーテスが必死に叫ぶ。
「奥様、どうか心をお鎮めになってください!」
「だって、だって実家だなんて言ってられませんわ。今すぐわたくしはダーリンの元へ帰らなければ」
「帰るってどこに!?」
「ソールズベリですわ」
「ソールズベリぃ!?」
  それは東の航路よりはるか南のほうにある港である。風がぐんぐんと航路から引き離していくのがわかった。
  机を押さえながらダンテも叫ぶ。
「奥様、ここからソールズベリは直角方向です。お腹の御子様のためにもどうか安全運転を!」
「何を言ってるの、ヴァンはそんなやわな子じゃないわ。ばんばん行きましょう。ばん、ばん、ヴァーン♪」
  もう絶対にヴァンなんて名前の奴は船に乗っけない。そうマルガリーテスは誓った。
  楽しそうに歌いはじめるミストラルに、船内のシャンデリアが傾く。クローセルももう外にはいられないと思ったらしく、中に入ってきて、ディランは手で持ってきたスープをこぼしてそれで足を滑らせた。
「奥様!」
「奥様!」
  交互にみんなが口々に「奥様」と呼んだ。 船が揺れること約三十分。ソールズベリでもなんでもない、どこか分からない島へと流れ着いて、船は止まった。
  船が止まったと同時にディランは甲板に向かって飛び出していった。きっと吐くのだとみんな思った。
  生まれたときから船育ちのマルガリーテスにもこの航海は堪えた。よろよろとよろめきながら、近くにあった椅子を机に直す。
「奥様、ここは?」
「さあ、どこでしょう。そろそろこの船にも飽きてきまして、他の船に乗り換えようと思いまして寄りましたの」
  ありがたい。四人は一気に胸を撫で下ろした。これで貴婦人から解放される。
  最後にダンテが言った。
「奥様、次の船では安全運航をお願いします。お腹の御子様のために」
  なんだっていいじゃないか。とりあえず彼女がこの船から降りてくれて、ここから無事に逃げ出せれば。マルガリーテスがダンテにそういう視線を投げてきた。
  するとミストラルははっと気づいたような顔をした。
「今思い出しましたわ。ダーリンと喧嘩したのって、子供が生まれて、男の子だったからでしたわ! その子に無理矢理ダンスを教えようとしたら怒りましたの。ヴァンは今十二歳ですわ」
  どうりでお腹がぺったんこで元気すぎると思った。
  それにしてもヴァンが十二歳になるということは、何年この貴婦人は家族のもとを離れているのだろう。
「わたくしはそんなことも忘れていたなんて! こうしちゃいられませんわ。早いところ次の船を見つけてヴァンに踊りを教えなきゃ」
「え、でも男の子なんでしょう?」
「この際どっちでもいいですわ! 子供の頃はとりあえずボーイソプラノですもの」
  変声期が来たときが大変である。ヴァンという息子の命運を祈った。
  どうかこんなわがままな貴婦人のような性格にはならないように、と。
  ばたばたと日傘を持って長いディープブルーの髪の毛を揺らすと、貴婦人は港のほうへと消えていった。
「予想よりも激しい方だったわね。貴婦人って」
  ミストラルが去ったあとに気絶していたクローセルが復活して呟いた。
「あたしゃ言ったはずだよ。親父は帰ってこなかったって。どっかで暮らしてるんならいいけれど、なんせあたしらだって今どこにいるか分からない。沈まなかったことが奇跡なんだ」
「俺は一回若い見習いの頃沈められたことがあるがな、浅瀬で助かった。乗せて五分と保たなかった。俺は直接関わってないがあの時の暴風雨は忘れない。従兄弟のジョージは今頃どうしているんだろう、アレンとは運良くあの時は再会できたんだが……」
  どうやらダンテはアレンとはずっと昔からの仲のようである。
「あの時はアレンが言った『そこのおばさん、邪魔』の一言が気に入らなかったと聞いている」
「とんでもない奴だなアレンって」
「うるさいよディラン。とんでもないのはアレンでなくあのババアのほうなんだから!」
「リタ、まだ近くにいるかもしれないわ。ババアなんて言っちゃだめよ!」
  方々が一気にまくし立てた。とりあえずここに長居する理由はないので早く出航しようということでまとまった。
  だが……
「あれ」
  ダンテが舵をとりに外へ出て、呟いた。
「予想外だ。座礁している」
「さいあくー」
  マルガリーテスが悪態をつく。
「いいじゃねぇか。さっきの貴婦人のせいで食料尽きかけてるんだ。とりあえずここがどこか確かめてから出航でも遅くないだろ?」
「あんだけ振り回されてまだ分かんないのかい、ダンテ」
「じゃあこのまま出航してみろ、次は海の上で遭難……そして餓死だ」
  ダンテはマルガリーテスに言った。
「欠航だ。とりあえず小さいが港はある、なんとかなるかもしれない」
「海賊船に協力してくれるかねぇ?」
  もう定着してきた船長vs右腕の争いも、今日は静かだった。