止まり木の宿はソールズベリの港の近くにあるヴァルーサ=オーウェンという女性がオーナーの小さな宿である。
フランシスは大家族の長男で、家を追い出されるような形で出て行き、最近ここのオーナーに雇われて店の中で働いていた。
「ふー」
床をモップできれいにしてから金髪の髪の毛をかきあげ、フランシスは満足そうに微笑んだ。会心の出来だ、今日はいいことがありそうな気がする。
カラン……カウベルが音を立てて扉が開いた。
「いらっしゃいま……ひっ!」
フランシスの笑顔は凍りついた。入ってきたのは海賊たちだったからである。
「金は持ってるか? スミス」
「自分、自分の分しか持ってきていません。船長」
「そうか。今日もツケだな。おい、店員。テキーラ持ってこい」
「は、はいぃ……」
フランシスは慌ててカウンターのテキーラをテーブルへと運んだ。
スミスとダンテはテキーラの瓶に口をつけながら話し始める。
「今日もツケっすね。今回もたいした稼ぎはなかったっす」
「俺たちの稼業も儲からねぇもんだな」
「でもあれっすよ。この前の一角鯨との遭遇……あれはよかったっすよ」
「おう。これもんだぜ」
ダンテは腕まくりするとそこには大きな新しい傷があり、それがまたフランシスを震撼とさせた。
カラン……と音を立てて、もうひとりの海賊が入ってきた。
ピンク色の髪の毛に、隆々とした筋肉、そして浅黒く焼けた腕にはZの文字が刻まれていた。その刺青から巷では有名なマッスル・セブンだということが分かる。
ダンテは右手を上げてマッスル・セブンに挨拶をした。
「おう、久しぶりだな」
「ん? お前……」
マッスル・セブンはダンテの顔を睨むようにして見ると聞いた。
「誰だ?」
ダンテはずっこけるように椅子からずり落ちかけると、体勢を立て直して言った。
「なんだよ、忘れちまったのか? ほら、昔同じ船に乗ってたじゃねぇか。ジョージ!」
「ジョージ!? あの有名な……おお、その刺青は!?」
スミスがZの文字を指差して驚いた。
ジョージと呼ばれたマッスル・セブンは少し考えてからぽん、と手を打った。
「おお、久しぶりだな! クリス」
「そうだ。あの、鮫殺しのジョージだ。ジョージはな…三十五にして海賊のトップに上り詰めた男だぞ。ってジョージ、俺はクリスのいとこのダンテだよ」
「ああ、料理長のダンテ。久しぶりだな」
マッスル・セブンに料理長と言われてダンテは首をかしげた。料理番ならやったことがあるんだが……と思いながら。
フランシスはテーブルに足を上げていたダンテに恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……お客様……掃除が大変ですので……」
「あ?」
ダンテはフランシスを睨んだが、ヴァルーサに睨まれて渋々足を床に下ろした。スミスが匙を鳴らしながらフランシスに言った。
「おい、そこの可愛い兄ちゃん。俺さっきからシーフードサラダとパエリヤ頼んでるんだけど」
「おう、俺にはチョコレートパフェ頼むぜ。兄ちゃん」
ダンテたちと同じテーブルについたマッスル・セブンが注文を追加した。フランシスは慌てて調理室の方へと姿を消す。チョコレートパフェの言葉にダンテが目を細めた。
「お前は昔から甘いものが好きだったな。ジョージ……それにしてもお前、五十近いんじゃあねぇか? 髪の毛ピンクに染めやがって」
フランシスがふらふらと両手に料理を持ちながらスミスにシーフードサラダとパエリヤを渡した。にやっと満足そうな笑みを浮かべて酒くさい息をスミスがフランシスの顔にかけた。
それにくらっとして、フランシスはあろうことか、マッスル・セブンとダンテにチョコレートパフェをかけてしまった。
甘ったるいにおいを放ちながら暫しの間沈黙が流れた。
「お前、相当鈍いんじゃねぇ?」
自分も相当鈍いことは棚に上げてスミスが言った。
ふるふると震えるマッスル・セブンに、提督服をチョコレートで汚したままのダンテが恐る恐る声をかける。
「ジョージ、お前が暴れたら……店は半壊ではすまねぇ。店員! 早く新しいパフェを持ってくるんだ!」
「ただのパフェじゃあ許さねぇ! シーパラダイス・ビッグ・パフェだ! もちろんてめぇの奢りだぞ」
「は、はいぃ!」
フランシスは思わず反射的に敬礼をすると、再び調理室へと姿を消した。
ダンテはヴァルーサから布巾を数枚借りると、それで自分の服を拭いて残りをマッスル・セブンへと渡した。
「お前は昔からシーパラダイス・ビッグ・パフェが好きだったからな」
「ああ、あれ以上に美味いものはない。ただ値が張るのが問題だ」
やがて姿を現す巨大なパフェにダンテはみじろきながらも、優男が今度こそパフェを落とさないことを切に願い心の中で応援した。その願いが叶ったのか、否か…フランシスはマッスル・セブンに無事にパフェを届けた。 まばらに他の客からも拍手がもれる。
マッスル・セブンは満足そうに頷くと、
「なかなか見所があるな。俺の子分にしてやろう」
「え……? いや、いいですよ。遠慮しておきます。それよりオーナー、見てましたか? 僕の勇姿………え、クビ?」
ヴァルーサに左中指をおっ立てられながらフランシスはがくりと肩を落とした。その背中をダンテがばん、と叩く。
「まあジョージの子分ならば食うには困らねぇさ。失業してもだ」
フランシスは意を決したように言った。
「マッスル・セブンさん、僕を子分にしてください!」
「よーし、お前は今日からマッスル・エイトだ。砂浜三百週するぞ。日が明ける前にだ」
思いついたら吉日とまでにがたりとマッスル・セブンが立ち上がった。フランシスも頷く。
「はい! 過去の忌まわしい記憶は抹殺して新しい冒険へと出ようと思います」
元気よく外へ飛び出していくふたりを見てからダンテも立ち上がった。スミスを顎でしゃくる。
「俺たちもそろそろ帰るぞ」
「へい」
そうして海賊たちの姿は消え……止まり木の宿に平和が訪れた。
タンタンタン、と階段を下りてくる音がして、ゆるいウェーブのかかった黒髪の女がギターケースを持っておりてきた。
「寝坊しちゃった。あれ……フランシスくんは?」
新人ウェイターの姿がないことを確認して女は聞いた。ヴァルーサは先ほどのことを女に説明する。
「そう。ダンテが来ていたの。駄目ね、私……大事なときにはいつも遅れちゃって。でも反省してるのよ? だから紅茶をちょうだい。ブランデーはいれないで、レモンをたくさんいれて」
そう注文すると女はギターを取り出した。
ポロン、と弦を確認すると、弾きながら歌い始める。甘く、切ないメロディーを。
「私の『本当に愛しい人』は今どこにいるのかしらね? 冷たい波の狭間で、今何を見ているのかしら……」
その甘いヴァニラのような歌声に、惹かれるように蝶番を軋ませた男がいた。
「モニカ……」
モニカと呼ばれて女が手を止め、顔を上げた。
「ダンテ。もうあなたの海へと帰ってしまったと思ったわ」
「ああ。ちょっと、忘れ物をしてな……」
テーブルにかけてあったサーベルを腰のベルトにつけなおして、ダンテは笑う。
モニカはギターをカウンターに立てかけると、ダンテの首へと腕を回した。
「おかえりなさい。ダンテ」
「ん。ただいま。……聞き逃しちまったみたいだな。聞きたかったぜ、お前の歌」
「残念ながら今日はもう終わりなの。私、指をこんなにまでしてギターもうまく弾けなくなっちゃったのよ?」
ベージュのマニキュアを塗った爪を見せてモニカがはにかむ。ダンテもにやっと笑った。
「お前は相変わらずいい女だな」
「あなたは相変わらず口が達者ね。私は相変わらずよ。相変わらず寂しい毎日、相変わらずひとり。……彼には、会わなかった?」
彼、というのがアレンを指しているということがダンテにはすぐわかった。だが、本当のことは言わなかった。
「ひとりで寂しくか……。いや、会ってねぇ。昔の仲間とは、はぐれちまってよ……」
「そう。そうよね、もう……」
諦めの言葉を口にしかけてモニカはかぶりを振ると精一杯明るい笑顔をした。
「今日はゆっくりしていけるの? この止まり木に翼を休めることはできて?」
「俺の仕事は俺の気分次第。姫が望むならその望むままに。……俺は今でも……いや、これはやめておこう」
モニカの額から唇を離してダンテは苦笑いをした。
「私の部屋に来てくれる? 相変わらず暗い、寂しい部屋だけど。お酒に付き合って」
ダンテはモニカの肩を抱いて笑った。
「ああいいだろう。積もる話もあるからな……今日は酒だけにしておいてやる」
「ありがとう」
そうモニカは笑うと、仲良くふたりは二階へとあがって行った。ふたりの足音の重なる先、それは少し昔のここかもしれない。
◆◇◆◇
「サーベルひとつ取りに戻るだけにいつまで待たせる気だい、ダンテの奴」
中々帰ってこないダンテにしびれを切らしてマルガリーテスが呟いた。
「船長ならばモニカって人と仲良くしけこみやがりましたぜ?」
買い物を済ませてきたディランが紙袋を机の上に置きながら言った。マルガリーテスが耳をぴくりと動かした。
「モニカって、あのモニカかい?」
「そのモニカだと思います。昔の仲間がなんたらって話してましたから」
ティル・ナ・ノグの一件でモニカの名前は大人全員が知っていた。クローセルが呆れたようにディランに言った。
「あなたその立ち聞きする癖どうにかならないの?」
「立ち聞きは俺の趣味だ。って違う! たまたま買い物ついでに通りかかっただけだよ、たまたま」
「やっぱり立ち聞きしてたのね。最悪」
クローセルに半眼で見つめられ、ディランはすごすごと調理室へ消えていった。
レーラアがマルガリーテスに聞いた。
「で……今日は欠航するの?」
「お馬鹿言いでないよレーラア。ダンテの奴を今連れ帰ってくるから待っときな!」
どかどかと船内を後にするマルガリーテスを見てクローセルが聞いた。
「リタ、どうしちゃったのかしら?」
「さてね。とられちゃったら困るんじゃあないかしらね?」
何が、とは言わなかったが、レーラアは肩を竦めた。
カラン。
止まり木の宿はもう夜も更けていて、人も少なかった。
かろうじて顔見知りのヴァルーサと、もうひとり、Tシャツにベージュのパンツ姿の女がスツールで酒を飲んでいた。
「あら、いらっしゃい」
振り返った女はマルガリーテスより年上で三十代のはじまりくらいだったが、かなりの美人で、何より声が美しかった。
「ここにダンテって男来てなかったかい?」
「ダンテならばさっき帰ったわ。よかったらいっしょにお酒を飲んでいかない? 私はモニカっていうの」
社交的な性格なのか酒に誘うモニカに、マルガリーテスはせっかくだからご相伴にあずかることにした。隣のスツールに腰掛ける。
「あたしはマルガリーテス。リタでいいよ」
「リタね。ダンテから聞いているわ、右腕なんでしょう?」
「おうよ。あたしがダンテの右腕にしていい仲のリタさ。ヴァルーサ、あたしのハバナクラブまだ残っているかい?」
マルガリーテスがおどけて言うとモニカがくすくすと笑った。
「本当、話に聞いていたとおり、リタって面白い人」
「……ダンテはあたしのことどう言ってたんだい?」
「とても頼りにしているそうよ。あなたがいないとだめだって。アレンも、アレンもあなたがいなかったら探しにいけなかったって」
「アレンは――」
「そう、まだ見つかっていないみたいね」
少し暗い表情でモニカが言った。どうやらダンテはアレンが生きていることを隠しているらしい。その意図がうまく読み取れなかったが、マルガリーテスは話を合わせることにした。
「アレンって男はとんでもない男だね。こんないい女を残して帰ってこないなんて」
「ううん。生きてさえいてくれればいいわ」
カウンタに置かれたふたつのグラスに、ゴールドラムが注がれた。
それを口に運ぶと、マルガリーテスは懐から銀色の指輪を取り出した。ティル・ナ・ノグでリタからもらったアレンの指輪である。
「これは、漁師が網にかけてとったものだよ。裏に『愛しのモニカ』って書いてある。もしかしてこれ……アレンのかもしれないね」
「それは!」
手を伸ばしてきたモニカからぱしっとマルガリーテスは指輪を手の届かないところに離した。
「もしこれを受け取ったら、あんたはアレンが死んだことを受け入れることになるよ? モニカ……それでもいいのかい?」
その言葉に、モニカは暗い表情をしたが、頬笑んだ。
「そうね、リタの言うとおりだわ。アレンはきっとどこかで生きているわよね?」
「生きているさ。どっかで現地妻でもつくってるんじゃあないかね」
「アレンはそんな人じゃあないわ。でもそう、女って……いつでも待つばかりなのよね。いってらっしゃいを言うことしかできないんですもの、リタがうらやましい」
「じゃあ海賊にでもなってみるかい?」
マルガリーテスはふふん、と笑った。モニカもつられて笑う。
「リタ、ダンテをよろしく頼むわね。約束よ?」
「ああ、約束されてやるよ」
ふと、モニカはマルガリーテスの顔を見てにっこりと笑った。
「あなた、誰かに恋をしているみたい」
「なっ!? ……そうかもねえ」
頭の中をしょっちゅう掠めていくダンテの顔を思い浮かべながら、マルガリーテスはため息をついた。
「それってダンテ?」
「お馬鹿お言いでないよ」
「あら、だってさっきいい仲って言ってたじゃあない」
「冗談だから本気にしないでおくれ。あいつとあたしの関係は、あいつが言ったとおり船長と右腕だよ」
言いながらずきりとくるものがあった。マルガリーテスはダンテがモニカに想いを寄せていることを知っている。
指輪をぐーぱーさせながら見せると、それを握り締めて言った。
「これは、あんたがアレンのことを忘れたときにでも、あたしが海にでも放り投げてやるさ」
「忘れることなんてないわ。たとえ、誰かとまた結婚することがあったとしても……私は一生アレンのことを忘れることはないと思うの」
「だろうね。おっと……そろそろ船に戻らないと。ヴァルーサ、ツケにしといておくれ」
マルガリーテスはモニカにひらひらと手を振った。モニカの想い人は今、モニカのことを忘れている。
「おう、遅かったじゃねぇか」
先に船に帰っていたダンテの鳩尾をマルガリーテスは肘撃ちした。なんだかむしゃくしゃしたからだ。
「あんたを迎えに行ってたんだよ、船長。どこをふらふらしていやがったんだい?」
「ぐっ……飲み足りなくてよぉ、ちょっと屋台で飲んでたんだ」
「そういや止まり木の宿でモニカって女に会ったよ」
「お前モニカに会ったのか!?」
「ああ。ダンテ、あんたまだアレンの記憶が戻るなんて思っているんじゃあないだろうね?」
ダンテは答えなかった。マルガリーテスはため息をつく。
「あんたは海賊だろ? 欲しいもんは奪っちまいなよ」
「モニカを物のように言うな。あいつはまだアレンのことを、忘れちゃあいねぇんだ……」
暗い表情になるダンテに何も言えず、マルガリーテスは頭をがしがしと掻いた。
「ぅお!?」
扉が開いて船長室にディランとクローセルがなだれ込むように入ってきた。
「……何やってるんだい? あんたたち」
「ほらディラン、私はディランの立ち聞きを止めようとしただけよ」
「売ったな? 裏切り者クローセル」
つまり今の話を、ふたりは盗み聞きしていたわけだということだけは分かった。ディランは誤魔化すように言った。
「それより船長、次はどこへ行く予定ですか?」
「んー……それが決まってねぇんだよなあ。東の航路はあらかた他の海賊が探し尽くしたし、チビを乗っけていると海賊同士のいさかいもちょっとな」
「過保護すぎるんじゃあないかい?」
噂をすれば影。テンペストとチナが走ってきた。
「船長、変質者がまた来たぞ!」
「ギルが来たんだ。なんだか船長たちに会わせろって言ってる」
ダンテが顔をしかめた。こんな南のほうまでギルバートがやってくるとは何用だろうか。
甲板に出ると、たしかにギルバートはいた。露出の高い服の背中から、可愛い翼が生えている。
「ギル、お前お爺のところで働いているんじゃあなかったのか?」
「だから、その長からの知らせだ。俺は今空飛ぶ郵便屋をやっている。ライバルはヤギ天使だ、あんな可愛い生き物には負けない」
よくわからない対抗心を燃やしているようだ。鞄の中から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ここらへんにあるらしい財宝の地図……と、長は言っていた。欲しいだろ?」
「欲しい!」
スミスが飛びつくようにして羊皮紙を取り上げようとしたが、ギルバートはひょいっと取り上げた。
「ただじゃあやれねぇな。そこの女……マルガリーテスと俺を戦わせてくれたら、やってもいいぜ?」
マルガリーテスは片手で大刀をぶるん、と振ると構えた。ギルバートも空中から槍を出して構える。後ろからレーラアが言った。
「リタ、あいつの獲物は雷鳴の槍だよ。そんなもん、ここの船の上で振るわれたら船ごと私たちは消し飛んじゃうよ?」
「レーラア、要は振るわせなきゃいいんだろ?」
言うや否や、マルガリーテスは俊足でギルバートとの距離を縮めた。
ギルバートが槍を振り下ろそうとするのを下から上へ大刀を振り上げると、金属のぶつかる音がして槍の真ん中からまっぷたつに折れ、矛先は海の中へと落ちた。
あまりにも一瞬でついた勝負に全員がぽかんとしている中、マルガリーテスはギルバートから羊皮紙を取り上げた。
「武器に頼っている男なんて、強いたぁ言えないね」
地図を広げると、それは陸の地図であり、三つ首街道の近くに宝は眠っているらしい。
「陸の盗賊いじめる趣味はないよ。お爺の奴、またガセよこしやがって」
「まあ待てよ、リタ。この前の航海からもうちょっとで金が尽きるんだ。俺はひとりでも行くぜ?」
「勝手におしよ」
マルガリーテスとダンテのやりとりを聞きながら、ギルバートは残っていた柄のほうを海に放り投げた。そして思った、強い奴はここにいた。