13 「fake family」

13fake family

 事務所の中では臭い・ハゲ・おじいちゃんでとおっているクレイ時代からの古株三人組、トキ・スオウ・ヒビキは普段何をやっているかといえば、野蛮な仕事担当である。
  無駄に凶暴な気質が多いポスカトマフィアの幹部だが、その大部分は育ちが上品だったりするものだから、汚れ役は大抵こっちにまわってくるのだ。
  人攫い、殺し、恐喝、私刑……これが主にトキとスオウの担当、集金と密輸密売はヒビキ担当である。
  もっとも、どれも直接手をくだしに行っていたら手が足りないので、大概はビョークが「新人」とひとくくりに呼んでいる、その他大勢に指図するだけだったりするわけだが……それでも彼らの机には常に、殺した証拠写真(確認後焼却)、回収してきた金袋(たまにここからお昼代をパクる)、最新型の銃火器、スオウのカツラ……などが乱雑に散乱(ちらか)っていたりする。
  金はそのうち会計係のほうに回すし、重要書類や政治屋との密約の類はカエデやビョーク担当なのでほとんどは自分たちの目の前を右から左に流れていくだけのベルトコンベアーのような作業なのだが、ベルトコンベアーゆえに、次から次へと片付けても片付けても机の上は散乱っていく。
「おい……俺の机、普段より散乱ってないか?」
  朝、職場に来て、トキがうずたかく積み上げられた山を目の前に呟いた。スオウがそれに応える。
「お前の机はいつでも臭いべ」
「散乱ってないかって聞いたんだよ! 何だよ、お前らいつも人のことを臭い臭いって、俺超気にしているのに!」
「たぶんあれだ。トキは香水で誤魔化そうとするのがいけないんだ。しかも安物の香水だったりするから余計に悪い。制汗剤と口臭予防をして毎日風呂入る時にイオン石鹸でも使って清潔に努めていれば普通は臭いなんてしない」
「でもヒビキ、それでも臭うからトキは凄いっぺ。凄いって字知っているか? ワンダフォーのほうじゃあなくて恐ろしいって意味のほう」
「もういいよ! 俺はこの臭いっていうレッテルの下で生きていくから。お前らも頭に育毛剤をふりかけてブラシで叩いたり妻に黙ってこっそりヒアルロン酸化粧水でもつければいい!」
「俺たちはひっそり努力すればいいけどお前は激しく努力したほうがいいべ。俺たち無害、お前有害」
「お前はともかくとしてヒビキはアカツキには有害だ!」
  びしっとトキに指差されて煙草ふかしているヒビキがにやっと笑った。
「俺のどこがアカツキに有害だって?」
「若さに嫉妬しているところ。アカツキは思考が読めるんだからいつもお前におびえているぞ、可哀想だろ? お前の前でのアカツキはさしずめ猟師におびえる小鹿だ、お前に親鹿を殺されて骸(なきがら)の近くで鳴いている小鹿だ!」
「小鹿はとって食わない。俺無害」
「有害」
「今の比喩を聞いているかんじだと有害だべよ」
  三人しかいないので室内人口の六〇%以上は人類に対して有害な存在らしい。
  ヒビキは今更自分が有害になったところで別段気にはならないらしく煙草の煙を吐くと先ほどの質問に答えた。
「トキの机が散乱っているのはビョークが仕事に手をつけてないからだ」
「ついでに俺とヒビキの机にあるビョークの書類もお前の机に積んでおいた」
「ビョークの机に積み上げておけよ! あれ? あいつジオから帰ってきたよな。どうしてまだ仕事に着手してないんだ? まだあの女のことひきずっているのか?」
「薄着でうろうろしていて風邪ひいたんだよ」
  ジオの気候に慣れた体にポスカトの風は強すぎた。もう春だというのにポスカトは今、大寒波なのである。

◆◇◆◇
  薄っぺらいシルクのガウンなんかで寝ているから風邪をひいたのだろうか。
  そうでもないと思う。いつもこの格好で寝ていて風邪なんてひいたことはなかった。となってくると、やはり急激な環境の変化が原因だろうか。それともちょっと疲れただけだろうか。もしかして若くなくなったからだろうか……そんなことが無駄に頭の中を過ぎっていく。
「おい、煮物しか作れないエンジュ」
  煮物しか作れないエンジュが額のタオルを換えながら返す。
「普通に名前で呼んでください。なんですかその煮物しか作れないって。油使えないで火を通すって言ったら蒸すか煮るしかないじゃあないですか」
「じゃあ珈琲つくって」
「こんな時に風邪ひくビョークに怒り狂ったカエデさんから珈琲禁止令がでています。せめて仕事終えてから風邪ひけばいいのに」
「ベッドで仕事するから、頼むから珈琲!」
「そんな必死にならないでください。こんなに熱出ているってのに仕事なんてできるわけないじゃあないですか。喉が渇いたのならたまご酒つくります」
「酒なんてアリーかカエデにやっとけよ!」
  どうしても珈琲は出してくれないらしい。押しの弱いエンジュがめずらしいことだ。
  風邪をひいてからもう二日目になる。その間一杯も珈琲を飲んでいないのでそろそろ禁断症状がでるかもしれない。
「しかしこう、寝るのと食うのしかしてないとうまいモノ食いたいよなー。煮物じゃあなくてさ」
「煮るのと蒸すのだけで何作れって言うんですか?」
「トマトのライスサラダ詰め、温製レタスのスープ、キュウリのシャーベット、柚子のコンポート、グレープフルーツのマリネ、海老のカナッペ、湯葉の……」
「え、ちょっちょ……なんでそんなに片っ端から浮かんでくるんですか? しかもどれもこれもどこのシェフが作ったんだっていうメニューばかり」
「昔俺が病気になるとアキエが作ってくれたから」
「……食べたくて病気したんじゃあないですよね? 体が弱かったんですか?」
「不精がたたって栄養失調で体壊していた、それだけだ」
  考えてみれば舌が贅沢になったものだ。
  アキエが来る前の一人暮らしの頃はパンと卵と珈琲、これがほとんどだったことを思い出す。
  食べられればいいと思っていたビョークに食の文化を植え付けたのは間違いなくアキエである。食べることを楽しいと思えなかったらここまで健康が回復しなかったかもしれない。
  エンジュがぬるくなった水の入ったバケツを持ち上げて立ち上がった。
「じゃあ僕もアキエに負けないようなものをつくる努力をします」
「よし、とりあえずヒラメのカルパッチョに挑戦しろ。上にナッツふりかけて包むサラダ菜の用意を忘れるな」
「ヒラメ……カレイとヒラメはどっちに目がついているんでしたっけ?」
「俺食べるだけだから、しらね」
  ヒラメのカルパッチョでなくてもいいからとりあえず煮物以外が食べたかったのだ。

 エンジュが去ったあと、しばらくして扉をノックされた。そのまま扉が開くとトキとスオウが顔を覗かせる。
「あー本当だ。風邪ひいてるな」
「な? 言ったべよ」
「ビョークも風邪ひくことなんてあるんだな」
「殺しても死なないだろうってのにな」
  面白がるように二人が近寄ってくるとベッドを挟み込むようにして座った。
「煮物の味はどうだ? ビョーク」
「見事に煮物しかつくれないべ。しかも全部醤油ベース」
  本当にそのとおりだった。しかも味つけが濃いのである。醤油味というより醤油で煮たというくらい。このままでは成人病で死んでしまうかもしれない。
「今アキエを模範とするように言ったところだ」
「あーアキエ、あいつどうしているかな……」
「ヘサでもピンピンしているだろうさ。場合によっちゃビンビ……」
「……死んだ」
  ビョークがさえぎって言った。
  隠しておく必要もないことだし、いずれはわかることだろう。
  トキが「確かか?」と聞き返してくる。 ビョークは頷いた。
「ジオのフレデリカっていう軍人から聞いた」
「アキエが死ぬなんてことあるんだな」
「殺しても死なないだろうってのにな」
  まるで先ほどのビョークが風邪をひくことなんてあるんだなと同じ口ぶりであっさり二人は流した。
  ここの人間はみんな少しずれている。ずれているというか歪んでいるのだ。
  毎日毎日鼻をかんだ紙のように命が消えていくのを見ていると感慨もなくなるというのも頷けなくはない。
  こうしてクリュウが死んだ時も何事もなかったかのように誕生日を祝福する幹部たちに恵まれてクリュウは本当に幸せだったのだろうか。いや、ここの二人においては父親のクレイの代からマフィアなわけだから、これは父親にも言えることだった。
  トキとスオウは立ち上がった。
「じゃあ俺たち業務に戻るんで」
「ああそうそう、これ……おみやげだ」
  そう言ってどさ、と重量のあるものが腹の上に落ちてきて、ビョークは少しだけ顔を歪めた。見れば紙がベッドに散乱している。
「仕事、ベッドでやるんだろう?」
「珈琲飲めるといいな、ビョーク」
「てめぇら給料棒引きされたくなかったら今すぐ仕事に戻りやがれ!」
  ビョークに怒鳴られて二人は一目散にドアを開けっ放しのまま逃げ出していった。
「おい、ドア……」
  もう誰もいない。冷たい風が吹き込むのが紅潮した頬にあたった。
  しかたないのでエンジュが帰ってくるのを待っているとドアの前をアリーがちょこちょこと歩いているではないか。
「アリー、ドア閉めてくれ」
「閉めるとなんかあたし得するの?」
「閉めないと俺が肺炎になって死ぬかも」
「死ねよ」
「そうか。お前にはびた一文遺産は残さないからな」
  心にも隙間風の吹くような会話を交わしたあとに、アリーが部屋の中に入ってきた。
  なんだろう、とビョークが目だけを動かしてその姿を追うと、アリーはにやっと笑って窓に手をかけた。開け放った瞬間突風が吹き込み、紙が部屋中に舞い散る。彼女は先ほどの二人同様、一目散にビョークの前から姿を消した。
「てめぇ! クソガキ……書類がなくなったらお前のせいだからな!」
  重い躯を引きずり起こして、窓を閉めにいこうとしたところを、今度は天使のような来訪客がやってきて閉めてくれた。
  アカツキである。
「ビョーク、アリーここに来た?」
「……部屋の中に北風小僧がやってきた。アカツキが追いかけているってことはまた勉強さぼっているのか」
「ちょっと余所見している間にいなくなっちゃって」
  周りに散らばった紙を集めようとアカツキが身をかがめたのでビョークは言った。
「いや、エンジュに片付けさせる。とりあえずアリーを追いかけろ、そしてこう伝えておけ。アカツキの家庭教師が嫌ならば専属の数学教師を雇ってついでにピアノのお稽古に通わせてやるって」
「どうせピアノに行くふりして買い物に行っちゃうだけだよ」
  あまり効果的ではないが、嫌がらせくらいにはなるだろう。小走りに部屋から出て行こうとするアカツキにビョークは聞いた。
「アカツキ……アキエからの手紙がきたのはいつが最後だ?」
「先月。今月はまだきてないみたい」
「……そうか。よし、もう行っていいぞ」
  今度はちゃんと扉が閉まる音がした。
  フレデリカと暮らしていた一ヶ月の間、夜に例の最悪の恋愛小説のページをめくりつつ、手紙を書いているフレデリカの姿を見て、「他にも誰か同じような電波を送りつけていたのか」と聞いたところ、彼女は「これはアカツキに送る最期の手紙だ」と答えたのだ。
毎月律儀にアカツキに送られてくるアキエの手紙はフレデリカが筆跡を真似て書いたものだった。
  なるほど、ビョークでさえ、それがアキエの手紙であると疑わなかったのだから、フレデリカの頭のブチ切れ具合も相当なものである。きっとフレデリカの脳内を見てもアカツキは卒倒するだろう。
  もうアキエはいない、アキエのふりをしてくれる者もいない。
  今月手紙が来ないくらいだったらアカツキも忙しいのだろうくらいにしか思わないだろうが、その先ずっと来なくなったならばいずれは気づくとビョークは予想した。
  自分でさえ父親が隠していた真実に感づいたのだ。脳内の読めるアカツキにとって自分が何か隠していることなんてすぐにわかるだろう。それこそ時間の問題である。
  重い気持ちになってビョークはベッドに転がった。泥沼のような睡魔が体を襲ってくる。

 次に意識が覚醒したのは夕方のことだった。
  薄っすらと開いた目に紫煙が見える。それはフレデリカやアキエとは違う香りがした。
  隣を見るとそこにはヒビキが座って煙草をくゆらせている。
「……ここで何やってんだ?」
「随分な挨拶だね。エンジュが買い物に出かけている間、世話のやけるボスの子守りを頼まれたんです。書類は束ねてサド女のところに持って行きましたんで安心して寝ておいてくださいな」
  この幹部最年長の男の微妙にはすっぱで、慇懃無礼な言葉の遣い方がビョークは不思議だった。
「……俺今うなされてなかった?」
「夢見が悪そうな顔はしていましたね。あと汗かいてました。スオウかと思ったくらいです」
「孤閨(こけい)の淋しさからか知んねーけどすさまじい夢見た」
「どんな内容を?」
  あまり聞くのは好きじゃあないような、そんな口ぶりのヒビキに話しはじめる。
「まずセーレ大陸に渡った。首都の蛍の街について、それから女の名前で宿の予約をとったあと、アリーくらいの年齢の家出少女と二十代後半のベージュ巻き毛の売春婦を金で買う。売春婦にそのままチェックインの手続きをとってもらって部屋に入ったあとにその二人を撲って気絶させたあと絞殺。ベッドに川の字に陳べて家族ごっこを楽しんだあとに何事もなかったかのように部屋をあとにして帰ってくる夢」
「そのベージュ巻き毛の女ってビョークの好きな女に似ていましたかい?」
「髪型だけね。顔は覚えていない」
「つまり最愛の細君と娘の代用品ってことですか。それにしても夢の中でまで用意周到なもんだねぇ、あらかじめ予約をとっておいて女がチェックインするものだから誰も怪しまない普通の家族だ。自分の名前でとったわけじゃあないから目立ちさえしなければ誰かに発見されるまで安心だし、女達はその日に買ったものだからお前と直接は関係ない。お前の腕だったら女二人を抵抗されずに殺すのなんて簡単だし、絞殺ならば血はつかない。そして大陸が違うから帰ってきたら足もつかない……まぁ場所の選び方は微妙ですがね。人口の多いアルカロイドにするか、人口は少ないけれど目が悪い上にメカポリステクニックがまだ浸透しきってない蛍の街にするか……そこらへんは殺人鬼のお好みに合わせてその時々に選ぶって感じか」
  ヒビキの最後のくだりはまたビョークが淋しくなったら出かけていって同じことを繰り返すといった口ぶりだった。
「どのみち帰ってきた俺は何事もなかったかのようにアリーに接するんだな。病んでいる」
「今にはじまったことじゃあない。質のいい睡眠がとれないんだったら俺がちょっくら街で家出少女と女を買ってきてやりましょうか。さすがにここで殺されると足がつくんで困りますが、殺さないんだったら妙な性癖の持ち主だってことで女どもも納得しますよ。どうします?」
「……うっかり殺すといけねぇからやめておく」
  そのうっかりが昔から自分には多すぎるのである。
  ヒビキは口から煙を吐いた。
「ビョークは女や子供を殺したことはないみたいですね。怖いんですか?」
「……殺すのがか?」
  はたして自分にそんな倫理観が残っているのだろうか。
「女子供そのものがですよ。おそらくビョークの中では女は自分の母親、子供は自分に見えるんだ。だからどう接すればいいのかわからなくて困っている。女に近づくと傷つく、子供は女に傷つけられた自分……そうやってきっと投影しているから女々しいもんだね。どっちも慣れれば楽しいもんですよ」
「ヒビキには扱い方がわかってるってか?」
「いやいや、そんなご大層なもんじゃあない。細君も娘も愛しているってだけです。それだけで反応はちゃんと帰ってくる」
「細君を愛しているんだったらとりあえずお前は偽の給料明細渡すのやめたらどうだ?」
「愛するのとお金は関係ありませんから」
「お前の愛そのものに虚偽が満ち溢れているような気がしてなんねぇ。だいたいお前が結婚した時さー、細君が事務所に怒鳴り込んできたじゃん、結婚詐欺だって。あれ解決したんだろうな?」
「しているから娘も生まれたんじゃあないですか」
「子供も虚偽じゃあないだろうな?」
「血が繋がっていようがいまいが娘は俺の子供ですよ。アルストロメリアがビョークの子供のように。それに俺は自分に正直なだけで他人に正直者だと思われなくたって別段痛くも痒くもありませんしね。でもここには自分に嘘をついている連中が多すぎます。特にお前とかカエデとかエンジュなんかね」
  短くなった煙草を硝子で押しつぶして、窓を少し開けてから吸殻を棄てた。新しい煙草を咥えてライターを探しながらヒビキは続ける。
「まずビョーク、先ほどの夢でもわかるように常に家族の代用品を探している。でも代用品は代用品でしかないことに気づいていて、なおかつ本物は手に入らないことを知っている。だけど充たされない気持ちを認めたくないがために代用品で満足したふりをしている。自分は誰も愛せないし愛されないと思い込もうとしているがそのくせにすごく愛されたいし愛すべき家族を必要としている」
  ライターを見つけたらしくカチカチ、と火花を散らして煙草に火をつけた。
「次にカエデ、言うまでもないがクリュウが殺されたことに納得していない。普通の女みたいに哭いて喚いて発散すりゃあいいってのに燻ったまま保留にしているね。クリュウは死んでいない、ただちょっと出張しているだけだとか言い聞かせているかもしれないし、もうちょっと思いつめていたら最初から愛してなどいなかったと思いこもうとしているかもしれない。だけどどう自分の中で割り切ろうが不燃焼なのは変わらない」
  ライターをポケットに仕舞いなおすと、煙草を吸って目を細めた……今度は次の話に入るまで少し長い間が空く。煙を吐き出して続けた。
「そしてエンジュ、こっちはクリュウが殺されたことに納得していない自分というのを信じているようだが実は逆です。もう既にクリュウがいないことにあいつは慣れてしまった。でもクリュウと暮らした二十年以上がお前と暮らした十年そこそこと天秤にかけられているなんて思いたくないものだから、ああした態度だ。でもあと数年もすれば今度は『自分はクリュウに尽くしたし、クリュウも納得しているはずだ』と思うようになるね」
  普段はまったく目立たないくせに、この男は一度話し始めるととたんに雄弁である。そしてそれは時としてビョークのロジックなんかよりよほど陰惨なものを見せつけてくる。
人間の皮を引っぺがしたらきっと赤い筋肉の隙間からこういった隠していたものが出てくるんじゃあないかと思わされるのだ。
「クリュウは自分の気に入ったものを手にいれるためにはなんでもしたし、アキエは器用に立ち回れるくせに本当に大事なものには馬鹿正直に正面からぶつかる。こっちのほうが俺の感覚に近い。お前たちの考え方はどちらかっていうとクレイ寄りだ。最初のクリュウの母親は死んだってぇのに次の女も、その次の女も愛せなかった。愛せないのに欲しがる。クリュウのかわりにビョークを愛してみようと試みても冷め切った自分の心に気づくだけで良心が痛むんだとさ。自分はクリュウと奥さんに拒まれたものだから、代用品としてエンジュを送りつける。自分はビョークを愛せないものだから、代用品としてアキエをお前に送りつける。代用品、代用品、代用品、お前らの人生って嘘に嘘を塗り重ねすぎて何が本当に欲しているものなのかわからなくなって手当たり次第に手にいれたり、手当たり次第に壊してみたり、まったくもって憫れだね」
  はん、とヒビキは冷笑した。伏せた目は深淵のように暗い。
「もっと自分に正直になったらどうですか? だいたい自分の直結の家族を考えてみたまえ。父親のクレイは最愛の妻を差し置いて不倫した女を孕ませて最愛の妻を亡くす、兄貴のクリュウはカエデにちょっかい出した男を全部水面下で部下に殺させている、双子のようなもんのアキエは男だろうが女だろうがとりあえず抱きたいものは全部抱いてきた、本当に”とりあえず“ね。お前の血筋なんて最初からそんなものなんだから、お前が死体陳べて寝てようが人妻と子供こさえようが少なくとも家族の中で咎められる奴は誰もいやしない。お高くとまんなさんな、虫唾(むしず)が走るんです」
「お前本当に正直な奴だな。なんかそこまで調子いいともうちょっと言ってほしい気がするね、ぞくぞくする」
「そらきっと風邪の悪寒ですよ。ほらタオルもぬるくなってきましたしね」
  そう言ってヒビキは下のバケツから新しいタオルを絞って、取換える。煙草のフィルタを噛みながら最後にこう言った。
「まぁそんなマゾなボスでも親友の残した忘れ形見と思えば可愛いもんですがね」
  これだけぼろくそに言っておきながらさらりとクレイのことを親友と呼ぶあたりがこの男の悪辣さを物語っている。実際に仲はよかったのだろう、クリュウとロウコが対立した際にこっそりこちらに協力してくれたわけだから。
  ノックが聞こえて扉が開いた。紙袋を抱えたエンジュのお帰りである。
「ヒビキさん、残業させてすみませんね。夕飯食べていきますか?」
「煮物しかない男だけの夕食なんて味気ないものです。家に帰らせてもらいますよ、細君のために」
  ヒビキが部屋をあとにしたのを目礼だけで見送ってエンジュは振り返った。
「結局カルパッチョは魚が新鮮じゃなかったので煮魚にしました」
「あっそう……」
  また煮物だ、とビョークはがっかりしたように呟いた。
「でも帰る途中でアリーとアカツキに遭遇しました。二人で買い物に行っていたみたいです」
「おい今何時だよ? この時間にあの二人だけで歩かせるなんて危ないんじゃね?」
「人通りの多いところでしたし、いざとなったらアリーが守ってくれますよ。今ではだいたい一発で仕留められるスナイパーと化しています。未来の殺人鬼ですね。その殺人鬼から贈り物です」
  決してアカツキがアリーを守るわけではないあたりが泣けてくる。それでまったく問題がないと思ってしまうのだから彼のこの組織での立ち位置なんてそんなものなのだろう。
  エンジュが紙袋をごそごそとさぐって、近くのテーブルに食べ物を並べていく。
「わらび餅、おからクッキー、水羊羹、黒糖カステラ、白胡麻プリン……どれも栄養価の高い油を使ってないお菓子です。お菓子だからきっと考えたのはアカツキでなくアリーのほうでしょうね。アカツキからは赤ワインをいただきました。学生の買うものだからそんなに高いものじゃあありませんが、ホットワイン用らしいので問題はありません。あとこれは二人から……」
  コン、と寸胴な瓶が最後にでてきた。
「店に並んでいた中で一番高かったそうですが…インスタントコーヒーです。せっかくのいただきものだし、カエデさんには悪いけどこっそり飲みますか?」
  ビョークは大きく頷いたのでエンジュは瓶を持って一階へと下りていった。
  テーブルに陳べられたお菓子の数々を見ながらヒビキの「愛している、それだけで反応はちゃんと返ってくる」という言葉がよぎった。

◆◇◆◇
「ビョーク! 起きて、死なないで。起きてよ!!」
  これがアリーの声だったりしたのならば幸せな最期なのかもしれない、しかし残念ながら呼びかけているのはアカツキである。
  ビョークは高熱にうなされていた。原因は早朝にアリーが全部の窓とドアを開けていったことによる“冷え”である。
「うー……うー……アリー…」
「死の間際に娘の名前よんでいるな」
「ビョークも人の子だったんだべな」
「おふたりにはこの低く唸るような声で『コロス』と呪詛のように呟いているのだけ聞こえていないんですか?」
  正確には「うー、コロス……うー、コロス……アリー、コロス」と続くのである。
  カエデは部屋の中を物色している。
「ないないないないない! 遺言書がどこにもないじゃない。また大騒動になるのなんて私いやなんだけど。おら、何うすらぼけっと寝ているんだビョーク! 今すぐ遺言書いてから死ね。書くまで死ぬな。死ぬ気で生き残れ。そして遠慮なく死ね」
「カエデさん強く揺さぶらないでください。言っていることも無茶苦茶ですよ」
「カエデ怒らないで! せめて笑顔で看取ってあげて!」
  もう既にアカツキにまで死ぬ設定にされている。幹部大集合でビョークの死に水をとるつもりでいる。
  そこに暴れるアリーを肩に担いだヒビキが開けっ放しのドアから入ってくる。
「アルストロメリア捕獲してきました」
「ヒビキー、ちょこまか逃げられないように脚の一本も関節はずしておこうか? 多少靭帯に傷はつくだろうけど」
「ビョークが生還した時にトキが真っ先に殺されていいなら止めないがな」
「ヒビキおつかれさん。アリー、ビョークが三途の川の向こうから呼んでいるべ」
  もう渡っていることになっている。向こうからこちらに向かって呼びかけてきていることになっていた。
  ビョークの側にヒビキがアリーを下ろす。先ほどの呪詛をずっと唱え続けている父親のもとにだ。アリーは額に乗っていたタオルを顔に広げてかけた。
「気が早すぎだよアリー!」
「ビョークはまだ死んでませんよ!」
「まだ死なれたら困るのよ!」
  アカツキとエンジュとカエデが同時に猛抗議した。アリーはなんとも面倒くさそうな顔をして
「なんだよ、ちょっと熱があるだけじゃあないか。冷やせばいいんでしょ、冷やせばさー」
  そう言って近くにあったバケツを手にとる。もう何をするか全員わかったが止める前にアリーは氷水をぶちまけた。
  近くにいたアカツキまでびしょ濡れである。
  アリーはまたすごいフェイントとフットワークでスオウとトキの間を縫って走り抜けていった。
  先ほどまで、本当に死ぬと思っていたのは体内の情報がわかるアカツキだけだったが、今皆の目でそれがよりリアルになった。
「……本当に肺炎になるんじゃないですか?」
「その前に高熱で細胞が死ぬんじゃないかしら」
「おふたりさん、その水びたしのタオルをどかさないと呼吸できないで死ぬんじゃあないですかね?」
  顎から水を滴らせ、猫毛がぺたんこになったアカツキが無言で立ち上がり、とぼとぼと服を着替えに部屋をあとにした。
「呪われているんだ……ビョークの家系はきっと猫でも殺して祟られているんだ」
  実際には猫どころか人もいっぱい殺しているわけだが、因果応報の法則によってかつてクリュウを殺してボスになった男はその半年後に娘の手にかかって死にかけている。

 そんなことがあってから一週間が経過したのだが……
  運がよかったのか、生への執着かそれとも復讐に燃える執念なのか、ビョークは何事もなかったかのように回復の兆しを見せている。今は事務所にはいないにしても、自室で書類に目を通していた。
  その頃になるとビョークの耳にも不思議な噂が飛び込んでくるようになる。
「クリュウの幽霊を見ただぁー?」
  珈琲禁止令も解かれてマンダリンを飲むビョークにカエデが頷いた。
「新人が雨の中、墓場の近くに立っている黒髪紫の目の男を見たんですって。ぼーっとしている感じじゃあなかったらしいから『クリュウが甦った』って」
「懺悔する。この前クリュウの好きな酒を墓石にかけにいったけれど、あれは実は水でした。酒くらいで化けんなや、相変わらず粘着質な男」
「これが一人だったりしたら『そらあんた、そうなればいいねって話でしょう』ということで終わりなんですけど、複数いたんですよ。ビョーク、仕留めそこなったんじゃあないですか?」
「けっこうあんたずさんなところあるからね。ウォルターさんだって銃で撃たれて生きているんだし、ビョークが投げたナイフ、的中り所が悪かったんじゃあない?」
  的中り所が悪かったとは普通仕留められた時に使う言葉であるということは誰もツッコまない。
  ビョークは顔の前で手を振った。
「お前ら骨になるまで焼いたの忘れているだろう。だいたいウォルターおじちゃんはもう人間じゃねぇよ。メカポリス人ありえねぇ、もう人間にカテゴライズできないよくわからない何かだ」
  ウォルターの躯のパーツの半分くらいはサイボーグだった。
  リジーがいなくなったあとに、クリュウの死体とウォールの死体を移動させるとき、アカツキが死亡確認をしたところ微弱どころか普通に生命反応があった。
よくわからない合金でできた頭蓋骨カバーに弾がめり込んでいるのを、頭皮をはがして発見した時にはびっくりした。
  ウォールの言ったとおり、楽勝プランとは言い難かったが、本当に無理なプランかと言われればそうでもない。最悪の結果を捨てるならばそれなりのリスクも背負わなければならないからだ。
  リジーに言いにいこうとした新人の一人をアカツキが止めた。
  脳にダメージがいきすぎていたために廃人になっている可能性があったからだ。
  結果から言えば、記憶喪失という極めて軽い後遺症だけに終わって、今は呑気に絵を描いているだけだが。
「せっかくクリュウが生きかえったんだったら、もとの鞘に落ち着いてもらってこの鬼のような仕事を軽量してぇな」
「またまた、自分で刺しておいて何事もなかったかのように」
「やー、でもなカエデ、これはチャンスだ。俺たちの兄貴と恋人と主人が戻ってくるんだぞ? こんなありえない奇跡が本当に起きるんだったら狐に抓まれたと思って納得したほうが得だって。あれだ、クリュウは生きている、ちょっと出張に行っていただけと思うことにしよう」
  ヒビキの詭弁をそのまま流用したところカエデとエンジュが変な顔をした。
  奇跡は信じない、それはクリュウ哲学のひとつであり、三人とも同じくそう思っているからだ。
「冗談はさておき、とりあえず真相を突き止める必要はあるな。別人だったら問題なし、本人だったらなぜ戻ってこないのか知るべきだ。幽霊だったら三人で墓場の前で酒盛りして酒の飲めないクリュウを悔しがらせる」
「ビョークはまだ完治してないから動き回らないでください」
「ビョークはまだ仕事が山積みされているから動かないで」
  二人に釘を刺されてビョークはつまらなさそうに珈琲を口に運んだ。
「じゃあエンジュ、お前が行け。お前ならばクリュウを見間違わないだろうし、女のカエデを夜の墓場でひとりうろちょろさせるわけにはいかねぇしな。夜のあそこらへんは殺人鬼予備軍の宝庫だ。このままカエデにまで死なれたら俺は誰と仕事を分担すればいいんだ?」
「つまり死んでも支障のないこの僕に行ってこいと言いたいわけですね?」
「そうそう、そういうこと」
「わかったらとっとと行ってこい」
  二人にしっし、と手を振られてエンジュは肩を落とすとビョークの部屋から去った。
  昔もこんな風に真相の解明に出かけてアキエとビョークに監禁されたのだ。今度は何も起きなければいいのだけど……と思いながら。

◆◇◆◇
  思えばその後姿が最後にエンジュを見た時だった。
  消えて三日後くらいに、ようやくスオウが気づいた。
「最近エンジュの『辞めてやる!』ってフレーズが聞こえねぇべ? ついに辞めたのか?」
「辞めたんだとしたら荷物持って『お前らざまーみろ』とかここに挨拶しにくるだろう。まだいなくなってから三日だ。きっとサド女になにか言われて動いているんだろうさ」
「ヒビキは気づいてたべか?」
「俺もうパパになってから日々移ろいゆく日常を観察するのが趣味みたいなもんだから。すぐ気づいた」
  ヒビキは小さな変化でも見逃さない目聡い男だ。だからずぼらすぎるトキとスオウに穴だらけの集金なんてさせないし、きっちりアルミ粒のひとつまで回収してくる。
トキが呟いた。
「あーそういやどこにもいねぇな。どうしたんだ? あいつ」
「……実はビョークに隠しておくように言われたんだが、金庫にある白金粒の袋を横領して失踪したらしい」
「マジでか? そういやお歳暮泥棒もあいつだったよな」
「嘘だ。なんだお前ら全然エンジュの心配なんてしてないんじゃあないか」
「あいつ熟れ熟れの三十代だぞ。そんな男が立った三日失踪したってだけで普通心配なんてするか? あれがガキ二人組やカエデさんだったら心配だけど」
「小鹿ちゃんと違ってあいつは雪男(サスカッチ)みたいなもんだ。猟師に遇ったって丸太で戦うべさ」
  たしかにそうだとヒビキは思った。
  この幹部の中でビョークを除いて次に腕っ節の強い人間を決めるとするならばエンジュだ。
  トキやスオウだってそんなに弱くはないが、エンジュほどではない。ヒビキは若さと体力で負ける。ウォルターは化け物なので除外である。
  ビョークの身長は一七五……カエデと同じか少し小さいくらいだ。
  黒髪黒目、ややつり目で彫りの深い顔、黄色人種、長身。これがポスカト系民族の特色である。
  ビョークやアキエは平均よりすこし小さいほうだ。小柄な分だけ小回りが利く上に人間離れした瞬発力で確実に仕留める癖がついている。
  双子、とヒビキは呼んでいるが、あの双子に比べればエンジュはまだ人間味のある動きをするが、あんなにガタイが大きいのに、素早く動ける人間はそうそういない。
  戦闘のずぶの素人が相手に出来るのは二人が限界だと聞いたことはあるが、殺しのプロフェッショナルだって三人の相手が規則性なく攻撃してくるのだとしたら勝つのは難しい。
殺しのプロは殺しが上手なだけであって、喧嘩に強いわけじゃあないからだ。
  だがエンジュはクリュウの護衛をずっとやっていたため殺しは適度に、喧嘩に強く、という成長のしかたをしていた。
  トキやスオウがエンジュに勝てない理由はそこにある。専門分野が違うのだ。
  だから大抵のことがあってもエンジュは無事だろう、そうは思うのだがスオウの喩えを聞いて思ったのだ。
「雪男でも弾丸には負けるんじゃあないか?」
「エンジュはアリーに銃で撃たれても避けてたじゃねぇか」
「違うよ。純粋な力比べで勝てるかって話だべ? ヒビキ」
  めずらしく飲み込みの早いスオウにヒビキは肯いた。エンジュと真っ向から勝負して勝てる人間なんて、ビョークを除けばアキエくらいしか思いつかなかったが。
  と、部屋の中にアカツキが入ってきた。
「あの……おじゃまします」
「おお小鹿ちゃん、例のもんだろ? 届いているよ」
「小鹿ちゃん?」
  スオウによくわからない代名詞で呼ばれてアカツキが複雑そうな顔をした。
  トキが自分の机をごそごそと漁ってひとつの白い便箋を取り出した。
「アキエからの今月のキモメールだ」
「ありがとう」
「毎月毎月なんてあいつも律儀な奴だよな。俺カエデさんに愛の手紙書いたことあったけど一回で飽きた。読まずに捨てられるんだぜ?」
「捨てられたのはお前が柄にもなく照れてエンジュの名前騙ったからだべ」
「たしかに恥ずかしかった。この年齢で恋文ってあたりが」
「あの文章最悪だったさな。文法はわざと間違えているし誤字脱字はあたりまえ、歴代の愛の詩人の名言を羅列しただけの薄い内容」
「言っとくけど『僕とこうかん日記してください』に濁点つけて『僕とごうかん日記してください』に改造したのはそこの老け面だからな」
「あれ秀作だったのにな。なんでカエデさん見てくれなかったんだべさ」
  およそ四十代の男たちがやるようなことではない内容に呆れながらも、アカツキはアキエの手紙をあけた。
  中から出てきたのはメモ帳の切れ端だった。
「……よくわからないことが書いてある」
「いつものことだろう」
「いつもははちゃめちゃな内容だけどいちおう文章になっているんだ。だけどこれは箇条書き。字もなんか普段よりさらに汚い。暗号なのかな?」
「どれ……見せてみろ」
  アカツキに渡されたメモ帳を見てみる。どこにでもある普通のメモ用紙だ。
  語学堪能だったアキエにはめずらしく所々誤字がある。何も知らないで見たら暗号に見えるかもしれない。
「……トキ、サド女は今執務室と秘書室どっちにいる?」
「この時間だったら秘書室のほうじゃねぇかな」
「確かめたいことがあるから呼んで来い」
「『お前がこいよ』って言われて終わりだと思うけど?」
「もし渋るようだったらエンジュの居場所がだいたいわかったかもしれないと伝えろ」
「マジで?」
「今度は本当だ」
  ヒビキは自分の予想が適中(あた)っているかどうかを確かめるために今度は封筒を見た。
癖のある、何かのロゴのように跳ねたりのびたりしている字体で綴られている住所をメモ用紙と比べてみれば、まず別人が書いたものだということがわかった。そしてこの手紙の消印はポスカト市内になっているのだ。
  アキエが帰ってきている。

◆◇◆◇
  外ではざあざあという激しい豪雨の音が聞こえる。
「……マズ」
  インスタントコーヒーをずずっと飲みながらビョークは呟いた。
  なんとなく一杯きりで捨てるのは勿体無くて飲んでみたが、やはり珈琲はドリップに限る。
  居間で飲んで、二階の自分の部屋に戻ろうとした時だった。かん高いヒールの音が事務所に続く廊下のほうから聞こえてくる。後ろから続く雑踏の音も聞こえた。随分と急いで歩いてきている。
「ビョーク! ちょっとこれ見てちょうだい」
  息もつかずに顔を出すと同時にカエデが叫んだ。二階にいるつもりで叫んだのだろう、きーんと耳の奥が痺れた。
  無言でカエデが持っている紙切れを毟り取ってビョークは見た。
  一度見たものを忘れるのは小さい頃から苦手だった。
  そこには自分が若い頃、エンジュを人質にとった際にカエデに渡したあのメモとほぼ同じ内容がエンジュの字で書かれているのである。
「アカツキに送られてきたアキエの手紙の中に入っていたらしいの。ヒビキが見てくれてよかったわ」
  腹の底から煮え滾(たぎ)るような思いがした。
  このメモ用紙の内容を直接知っているのは、今はカエデとエンジュとビョーク、そして死んでいるはずのアキエ……この四人だけである。
  そしてこれが何に使われたのかを知っているのはエンジュを抜かした三人だけだ。
「俺がロウコとの訴訟で渡した資料と内容が一致するのと、これがエンジュの字で、今アキエといっしょにいるというところまではわかったんだが、これが何なのかまではわからない」
  と後ろから歩いてきたヒビキが言った。ビョークが通訳した。
「これにはこういう意味が含まれているんだよ『エンジュの命は預かった。無事に返してほしければ言うことを聞け』ってな!」
  あきらかにボルテージが跳ね上がったビョークが乱暴にその紙をカエデに突き返すと踵を返して玄関に向かった。
  クリュウの幽霊の正体はアキエだ。墓場でエンジュは捕まったのだろう。
  カエデが大股でビョークの前に立ち塞がった。
「ビョーク、あんた病み上がりでこの雨の中どこに行く気?」
「嘗めた真似しやがったアキエに会いに行く」
「アキエがどこにいるかもわからないのにポスカト中を歩くつもりなの?」
「歩いていればここにいるよりあいつに近づける」
「ビョーク、ちょっと落ち着きなさい。アキエがエンジュを殺すはずがないでしょう」
「お前は俺にクリュウを殺されたのを覚えてないのか? カエデ。その時も同じことを考えていたんだろう」
  言われて言葉が詰まったカエデにビョークは続けた。
「つくづくお前らはおめでてぇ連中だよ。友情とか仲間とか、そんなのがあると思っているんだからな。アキエのことは俺が一番知っている。あいつは俺のためならなんでもするんだよ、恋人だって殺すだろうさ。その気になればアカツキ以外は全員殺される、俺も含めてだ」
  昔大学の筆記の日に登校するたび、必ず自分に付き纏ってくる女がいた。
  ビョークの正体に気づいて面白がって話しかけてきた。
  ある日ぱったりと姿をあらわさなくなったので「あのうぜぇ女いなくなった」と言ったら「良かったな」と返ってきた。
  あとになって死体が川からあがったそうだ。
アキエに何を言ったかは知らないが、アキエにはめずらしくスマートな切り口一発で殺されていた。たぶん何かにカッとして衝動的に殺したのだろう。
  他にも自分に関わっていた人間が、珈琲豆の店主以外、ある日ぱったり姿を見せなくなるのを繰り返せば、自然と周りとの交流を絶とうという気になるものだ。
  クリュウやカエデをはじめとする幹部が殺されなかったのは絶対にビョークをアキエから取り上げる脅威にはならないだろうと踏んでいたからだ。アリーの存在を知れば殺すかもしれない。
  アキエにとってのセスは身内だが、ビョークにとってのアリーがなんであるかなんて、アキエには関係ないことだから。
「あいつが俺に会いたいってこんなもんまで寄越しやがった。外野にはわからない、特定の人間にしか意味をもたない巫山戯たもので! これはカエデ宛じゃなくて俺宛だ。 俺の都合であいつに会いに行かなかったら次はエンジュの指が一本一本送られてくるだけだろうよ。たしかにエンジュは死なない、だが刻まれ続ける、利用価値がなくなるまで。そして次の獲物を探すだけだ。エンジュがアリーのことを話していたら今学校に行っているアリーが次の獲物なんじゃねぇの? 攫っておけば殺すのは後でもできるしな」
  自分で言っていても自虐的だと思った。こみあがってきた感情に頬を涙がこぼれ落ちて声は嗄れた。
「お前らがいつもどおりおめでたくいられるならば、俺は自分の首にリボンだって首輪だってつけてやるさ」
  しまいには泣きはじめたビョークに、事情がわからなくて説明を求めにきたトキとスオウとアカツキが途惑っている。
  そこまでひたすら吐露し続けた結果、急激に訪れた沈黙の中で重厚な口を開いたのは最年長のヒビキだった。
「………お前が人を好きになるのを怖がっていたのはそれが理由だったわけか。ようやっと伏線の答えが見えてきたわけですね。思わぬ伏兵がいたもんだな、コックがスパイだったって映画そっくりじゃあないですかい」
「あんたが絶対クリュウに懐かなかったのもあいつが怖かったからで、クリュウを殺したのはあんたがそれでも好きになりそうだったからね」
「いくらマゾだからって首輪つけるこたぁねぇべよ。トキ、アリー迎えに行け。まだ間に合うかもしんねぇし、十人は連れていけ。十人でアキエが止められるかわかんねぇけど、逃げるのには十分だろ」

◆◇◆◇
  十人の命でアリーの命を買う、そういう計算である。トキの命を含めれば十一人か。
  相変わらずここでの命の計算はあまりにも歪んでいるとアカツキは感じた
  トキが廊下の向こうにすぐ消えて、ビョークはカエデに渡されたハンカチで目元をぬぐいながら言った。
「カエデ、俺が熱出していた時に頭上で遺言書を残せとか言ってたよな? 今口頭で残すから他の奴は証人になれ。俺が死んだら現金化できる財産は均等に新人も含めた部下全員に分配、あとはヒビキが運営しろ、カエデは管理のサポート。アリーは誰かに預けてもいいしこの家で勝手に暮らしてもどっちでもいい。アカツキ……」
  いつもの燦爛とした紫色が自分のほうを向いた。
「今話しているのはすべて俺が死んだことが前提だ。もし俺がアキエを殺すことに成功して死んだならばお前はすべてにおいて自由だが、もし失敗して死んでいたら制限された自由を選択しなきゃあならない。他の誰も好きにならない自信があったらアキエと一緒にいるほうが不自由しない、アキエはいい奴だ」
  こんな時でさえビョークはアキエを”いい奴“と言う。その言葉に嘘偽りがないものだから不思議に感じる。
「だが少しでも誰か好きになると思うんだったらお前は世界中を逃げ回る羽目になる。生活の自由度は一気に低くなるが誰を好きになってもそれは自由。俺はこっちを薦めるけどね、お前は若いから恋のひとつやふたつするだろうし、それにアキエにつかまるのは簡単。拒み続けるよりどっかで受け入れるほうが幾分か楽なんだよ。どうせだから十年くらい遊びまわってそれからでもいいんじゃね?」
「……それってビョークが死ねば遅かれ早かれアキエに捕まるってこと?」
「お前は呑み込みが早くて助かるわ」
  五年前に軍部に捕まってもマフィアに捕まっても、その先の運命は同じように見えて抵抗することも諦めたアカツキは言った。
「そんなの嫌だ」
「妙なところで呑み込みわりぃ奴だねぇ、アカツキ。いいか、アキエは……」
「ビョークが死ぬってことが嫌なんだ! エンジュが死ぬのもアキエが死ぬのもトキが死ぬのも他の誰が死んだって嫌だ! なんだってビョークたちはいつも素直に人の死を受け入れるの? 心臓が止まって脈拍がおそくなるにつれて身体機能が少しずつ低下していきやがて細胞が動かなくなる……そんな現象をここに来てから数えきれないくらい視てきた。僕は何度それがきても慣れないのに、みんなは人間がいつか死ぬのは当たり前くらいにしか思っていない。なんで人が死ぬのか疑わなければ自分の体内で日常的に繰り返される無限の奇跡にも耳を傾けない。僕はたまに気が狂いそうになる、こんな眼じゃあなくたってここにいたらおかしくなるし、むしろこの眼に救われているんだ。目に映る人たちの規則的な心音とときどき流れるパルスの音楽だけが僕を安心させてくれるんだ。だから誰かが死ぬのは嫌だ、死ぬなんて言わないで」
  息つく暇もなく喋りつくして涙腺から涙の一滴も出てこないことを呪った。ここの住人は自分も含めて泣くのが苦手すぎる。
  ヒビキが手を挙げた。
「煙草吸ってもいいですか?」
「間抜けな質問する奴には罰として吸わせねぇ。何が言いたいのか勿体付けずに言ってみろよ?」
「言ったら吸ってもいいですか?」
「好きなだけ吸えば?」
  呆れたようにカエデが呟くとヒビキは少し言葉を選ぶ間をおいてから話しはじめた。
「いやねぇ、アカツキみたいに特殊な眼があるわけじゃあないんでこれはごく一般的な黒い眼の持ち主から見た話だと思ってくださいな。ぶっちゃけここだけの話、細君と娘と今後の生活が保障された今、誰が死ぬかとかビョークとアカツキのどっちが愛玩対象になるかなんて俺にとってはどうでもいいんです」
「ヒビキ、お前正直すぎるっぺ。もうちょっと時と場を選んで話さないと俺がお前を殺すぞ?」
  今度はスオウが呆れて呻いた。
「たしかにこの先アキエを黙らせることができるのはきっとビョークだけ……だから決着をつけにいく、まぁいいでしょう。娘が危ないから迎えに行く、まぁ父親としては普通の反応です。ビョークとアキエは癒着しすぎて二つの魂(ココロ)と器(カラダ)が繋がっちゃっているようなので血が出ようが膿になろうが接合部分を切り離すことには賛成です。だけど殺すと言いながらも、ビョークはアキエのちょっと歪んだ愛も欲しがっているじゃあないですか。この際だから、切り離して、尚且つ手に入れたらどうです? ちょっと何人かの愛を手に入れ損ねてしまったがために全部いらないなんてストイックなことはよしましょうよ。お前は快楽殺人者なんだから快楽を追求する姿こそが本来在るべき姿なのです。俺は人体のメカニズムの神秘なんかよりももっと身近なドラマが見たい。ですが奇跡が日常的に起こるという思想はなかなか素晴らしい。どうせですから重力や量子力学に基づくことなく、愛の力で地球(テール)を回し月を引っ張るぐらいのことをしてみてくださいよ。若者が欲しいものに手を拱(こまね)いてに我慢している姿はなんとも陳腐で女々しい。さぁわかったらとっとと殺し合いなさい。殺しは究極の自己肯定で殺しを避けるのは無感動のしるしです。若者よ、存分に殺しあえ」
  いつでもこの男の話を聞いているとポスカトマフィアは新しい収入源としてこいつを教祖に仕立て上げ、新興宗教でも立ち上げれば儲かるんじゃあないかという気持ちになる。
  そこまで話すとヒビキは煙草を取り出してライターで火をつけた。最後にこう付け加えて。
「策はあります。ですが……ぶっちゃければ俺は退屈なんだ」
  アカツキの目に男の中の電気信号が伝わってくる。
「長い間、死の浅瀬で遊んでいるとちょっとやそっとのホームドラマじゃあ面白くないんです。愛の模造品も模倣品も市場にあふれかえりすぎていてうんざりだ」

◆◇◆◇
  まだ午後の四時くらいだというのに空は昏く、雨は横からいて粒のように躯にあたる。こんな日にはさすがに殺人鬼予備軍も姿をあらわさないらしく、人気はない。
  ビョークは細身のジーンズとシャツといういつもの殺しの格好でクリュウの墓にやってきた。
  暴風雨で近くの木が右へ左へと乱暴に頭を振っている。
  しゃがみ込むと薄くてひらべったい石碑の上の文字を指でなぞる。暗くてよく読めないが、そこにはビョーク=ポスカトと書いてあるのを本人が知っていた。
  ポケットからカエデが買っていたクリュウの好きな酒の小瓶を取り出し、あけると少しだけ中身を呷って、残りは墓にふりかけた。
  風で横に流されるのを見ながら最後になるかもしれない墓参りをした。
  うっかり拍手(かしわで)を打ってからこれは神様にお祈りするときであって、仏様にすることじゃあないことを思い出す。
  うっかりが多すぎるのだ。
「まぁいいや。とりあえず見ておきな、墓場の亡霊ども」
  突如後ろのほうから気配が近づいてきたのに反応して、躯を捩りざまに仕込み杖を繰り出した。杖の先っぽから鋭い切っ先が飛び出したのを蹴り上げられて杖が宙を飛ぶ、気にせず躯を捻り続け片方しかない軸足ほうめがけて腕を薙いだ。相手は避けもせずそれどころか軸足にヒットした腕がじん、とするだけだった。
  先ほど振り上げられたほうの脚が自分の腕を挟みこみ、そのまま腕ごと躯を捩じ伏せられる。腱が伸びたらしく動かない利き手は放っておき、躯のバネだけで上半身を起こすと隣のまだ体勢の崩れた男に肘を振り下ろした。
  今度は背中に右腕の一撃が入り蹲った男に跨がって動く右腕だけでそいつの右腕を伸ばしてやった。
「……左手のおかえしか? ビョーク」
  信じられないほど声が若い。まるで別れたあの日で時が止まったかのようなアキエにビョークは言った。
「俺は左利きだがお前は両利きじゃねーか。もう一本捻らせろよ」
「お前何食ったらたった五年でこんなに強くなるんだよ? 夜な夜な女の生き血でも啜って歩いているんじゃねーだろうな?」
「何かかわったものを飲んだとしたらインスタントコーヒーだ。あれにそんな効果があったなんてな」
「それってうまい?」
「最悪に不味――」
  喋っている最中に頭の中に電撃のようなものが走る。
  一瞬だけぐらっと傾いた世界の中で本当に薙ぎ倒されて、クリュウの墓の真上に仰向けに組み伏されるような状態になった。
  アキエは腕はのびても動く右手首から先だけでビョークの左手を押さえて左手に握った酒瓶を遠くへと放り投げた。
「この眺め! この体勢! いやぁ思い出すねー、毎日の全力での取っ組み合いと毎日の俺の完全勝利。屈服させたあとの黒ギネスが美味い! 今日は俺の腕伸ばしたってことで及第点やるよ。手塩にかけて育てた甲斐あったなー……あれ、よく見ればお前ちょっと老けたんじゃねぇの? 若白髪発見」
  ぷちっと髪の毛を一本引っこ抜かれた。
  左のこめかみのあたりが不自然にひんやりする。きっと雨に濡れているからだけではなく、血にも濡れているのだろう。相変わらず手加減のない一撃だった。
  ずきずきする頭の中でこんな展開になったことが飽きるほど何回もあったことを思い出す。
  ここにもう勝ち負けの構造が決まっていた。
  アキエは勝とうと意識せずとも勝つことができたし、ビョークは何が何でも一回は勝ってやると思っていたからだ。
  その一回なんてアキエにとってはくれてやってもいいどうでもいい存在だ。
  いっそのことくれてやって奪うほうが楽しいとも考えていそうだ。
  だがこれはアキエにとってはいつものゲームでしかないが、ビョークにとっては取り引きそのものだった。
  別に普段の喧嘩じゃあない、今やることは“殺す”という単純なことだ。殺しのプロフェッショナルになるのに喧嘩のエッセンスなんて不要である。頭を切り替えなければならない。
  いつもアキエは言っていた。「お前は俺に“勝とう”としている。それじゃあいつかは俺に殺されるぜ」と。
  勝つことでなく殺すことだけ考えればいい、生き残ることではなく殺すことだけを考えればいい。
  自分に有利になる条件を全て捨て去り相手に不利になる条件をすべて陳べていけば殺す方法がまったくないはずはないのである。
  燦然としているビョークの眼を見てアキエが面白そうに眼を細めた。
「今日はちゃんと俺を殺そうと思っているみたいじゃねぇか。そうだよ殺す気でかかってこい。俺は人を殺そうとしている瞬間のお前が一番好き。その瞬間の脳内の電気信号がとても奇麗なんだ」
  同じフロンティアの眼の継承者でも美的感覚はまったく違うものだとビョークは思った。
「お望みならばお前自身の中も殺し一色にしてやろうか?」
「なかなか刺激的な試みだな。やってみろよ?」
  まずアキエの普段のペースを崩さなければいけない。自分のペースにもっていけるかどうかはわからないにしても、冷静さを欠いてもらわなくては。
  アキエの理性を奪うなんてことは容易なことだった。だが、素面(しらふ)では失敗した時が怖くてできなかったかもしれない。酒を飲んでおいて正解だ。
「じゃあ俺と賭けをしろ。今から俺が幾つかの事実を言って、それによってお前が俺を殺したいと思ったら俺の言うとおりの順序で殺せ。まず両足の動きを封じる。次にキスする。お前の好みの形状の指から順に全部噛み千切ってみっちりと俺の口に詰め込んで声を奪ったら喉を潰して骨を奪い取る。あとは放置しておけばいいさ、てきとうに時間が経てば死ぬんじゃね? 骨はおみやげにやるから記念にピアスにでも加工するんだな」
「お前の指って何本? いつか足の指とあわせて二十本って言ってたけど足の指まで詰めるのってお前のお口じゃあ小さすぎるんじゃあねぇの?」
「じゃあ手の指から詰めてみて、あまってたら足の指ってことで。全部根元から食いちぎれよ?」
「お前の条件はわかった。俺が怒らなかった場合にお前は何してくれるんだ?」
「俺が今の方法でエンジュを殺すのを生で見せてやるよ。エンジュは今どこにいるんだ?」
「あっちの街燈にふんじばってある」
  ちょっと離れたほうをしゃくったのでそちらに少しだけ視線を動かした。
  エンジュを殺すなんて考えるだけでもぞっとする。
  言ってしまった以上失敗したらクリュウに引き続き、エンジュまで自分の手にかけることになる。
  やっと乗り気になったアキエを見てとりあえず第一関門は突破だとビョークはため息をついた。
「まず……エンジュはお前のいなかった間、一番俺に近いところにいた男だ。だからエンジュが捕まっていることを知ったとき、俺は何がなんでも無事に取り返すつもりでここにやってきた」
「じゃあ殺す時が楽しみだな」
  あまり効果的ではなかった。エンジュは嫉妬を煽るのには役立たない。
「次にカエデにプロポーズしたことがある。あいつが俺の一番近くにいる女だ。近くにいるのに、近くにいすぎてよく見えなくなる。カエデにもっとこっちを向いていてほしくてクリュウを殺した」
「おいおい、カエデがほしかったわけじゃあなくてお前は自分の独占欲でクリュウを殺したんだろ? ほしかったのはカエデじゃあない、クリュウのほうだ」
  カエデは役に立たなかったがクリュウには少し針が触れたようだった。死んだ兄が今エンジュを助けるのに一役買っている。せっかくだからもうちょっといじってみようか。
「クリュウは俺が何をしても本気で怒らなかった。だったらクリュウのすべてを貰っても怒らないよな? 恋人と、部下と、財産と、クリュウ自身……俺は自分の誕生日プレゼントにクリュウの死体を用意した。もう三十歳の誕生日は忘れられないだろうさ」
「俺も呼んで欲しかったなー。まぁ死んだ奴のことはゆるしてやるよ。次は?」
「こんな年齢になってやっと女を愛せるようになった。ジオのフレデリカって女だ。彼女が死ぬまでの一ヶ月間ずっと一緒に暮らして毎日場所をずらして全身にキスしてまわった。殺して否定するか殺して手に入れることしかできなかった俺が傷つけることさえできなかった。それぐらい愛した。アキエにかわってセスに手紙を送りつづけていたってことはお前とも接触があったんだろう?」
「ああ、五年前に会ったよ。脳内がいつもアグレッシブな躍動で濫れたちょっとブチキレたフレッドって女に。これ言っちゃいけないんだっけ? しかしあの売女(ばいた)がお前とそんな関係になるってわかっていたならきっちり殺してくるべきだったかもなぁ。俺もあいつに一回だけキスしたから五年越しの間接キスってか?」
「フレデリカの味しか覚えてねぇよ。お前の味はしなかったし、もう忘れた」
「……思い出させてやろうか?」
  唇にやわらかい感触が去来して懐かしい女と同じ脂(やに)の香りがした。あまり長い間ではなく、すぐにはなされる。アキエが不機嫌そうに眉根を寄せた。
「…お前の唇からフレッドの味がしやがるな」
「短期間でお前との記録を突破する勢いでキスしまくったからじゃねーの?」
  ビョークは笑った。実際は残っていた煙草を吸うあたりから少しずつ煙草を喫(の)むようになっただけという裏事情もあったりするわけだが、とりあえずフレデリカは成功だと思っていい。アキエは不機嫌だ。次あたりでトドメを刺したいところだが……
「俺の娘がいる」
  アキエの目の色が変わる。
「フレッドは会って一ヶ月で死んだってことは、他の女もいやがったのか」
「女のほうは誰でもいい。名前ももうマリイだったかマリエだったかさえいい加減だし……ただし娘のほうはちゃんと、愛している。お前よりも、だ。お前の居場所は俺の中ではすべてじゃあないんだ。もし俺の全部を自分に向けてもらいたいんだったら、もう俺を殺すしかねぇよ。その瞬間だけはお前の所有物(モノ)にもどってやる」
「……お前、殺したいじゃあなくて殺されたいみたいだな。もう自分じゃあ俺のモノに戻れないもんだから」
  ビョークの背中にアキエが手を差し入れた。がさがさと探ってジーンズとの間にはさんでいた銃を抜き取られる。適度に体温のうつった銃を片手でもてあそびながらアキエはにやついた。
「こういうところがあざといって言うんだよ。お前が殺意を持っているならば武器のひとつくらい隠し持っていたっておかしくねぇことくらいわかるっての。まぁここまで俺を怒らせたのは誉めてやるよ。五年間で色々賢(さか)しくなりやがって……」
  指が引き金にかかってパン、という乾いた銃声が聞こえた。
  太腿を貫く熱に躯が灼かれるようだった。
「ご褒美に片脚だけはそうしておいてやる。残念だけど俺はエンジュを殺して傷つくお前を見てからもう一方に穴あけるでも悪くないと思っているわけ。よし今度は俺の提案、エンジュを殺したらこっちに穴をあけて、そんでカエデを殺したらこっちの腕に穴をあける。お前の娘を殺して四つ目をあけたら、俺だけのビョークが完成だ。安心しておけ、甲斐甲斐しく世話してやるから。飯も食べさせてやるし服もかえてやるしシモの世話だってしてやるよ」
  もう言い出しそうなことでここまでは想像がついていた。それは予定通りというよりも、最悪のシナリオとして描いていたものだったが。
  切り札を用意しておいてよかった。
「最後にひとつ……まだ言ってないことがある」
「言ってみ?」
「セスを殺した」
  今度は目の色どころか顔色そのものががらっと変わったようにも見えた。その様子を見つめながら口元に陰惨な笑みを浮かべたままビョークは語った。
「お前が俺から奪いつづけてきたもんだから、たまには奪ってやろうと思ってさ、さっき手紙を確認したあとに殺したんだ。ついでにカエデと帰ってきたアリーも殺しておいた。奇麗に射殺してベッドに陳べて眺めてみたんだけど、なかなか幸せそうな家族だったな。お前に奪われたと思うくらいだったら俺のくだらないきまぐれの犠牲にしたって思ったほうが楽だもん。ああ、なんて顔しているんだよ? これで俺もお前も帰る場所なんてどこにもなくなったんだ。さぁエンジュを殺せば終わりだよ、さっさと殺しに――」
  アキエの銃が火を吹いて逆の脚のほうにも激痛が走った。だがこれはやがて去るものだ。失った瞬間だけ辛いが喉因を過ぎれば熱さはしのげる。
  脚がある間は走ればいい、一脚になったら跳ねればいい、両方なくなれば飛べばいい!
  なんとも愉快な気分になってビョークはけたたましく笑った。「痛てぇ痛てぇ」とひたすら笑いつづけるビョークの脳内は、あまりにも奇麗な電気信号を奏でていた。
  まったく乱れのない、嘘の欠片も存在しない旋律だ。
  セスは死んでいる。
  急に体温が下がっていってすぅ、と気分がクリアーになっていった。アキエは笑わずに言った。
「望みどおりに殺してやるよ。最期の接吻のあとに」
  傍らに銃を置いた左手でビョークの胸倉を掴み上げると、アキエが唇を重ねてくる……その瞬間にビョークは顎を少しひいて思い切り頭突きをかました。少しだけのけ反ったアキエの顔に手の甲を叩きつけて鼻梁を折った。銃を拾い上げると左右の脚と自分を掴んでいる腕を撃(ぶ)ち抜いて、そこまでできっちり計算どおり、弾があとひとつだけ残った。
  正直利き手ではなかったので成功するかどうかはやや危なかったが、案外左利きとは右手も上手に使いこなせるものなのだ。
  片腕も動かなければ両足も動かないので、そっちに向かって倒れるだけでアキエの上に圧し掛かる。クリュウを殺した時と同じ脳天に銃をぴたっとくっつけるとビョークは言った。
「あばよ、アキエ。お前も愛してた」
  既に過去完了になっている言葉のあとに銃口が火を吹いて、アキエが静かになった。
  ざあざあという雨の中でビョークはひとりになった。
  脚が動かなくてエンジュを探しにいけない。
  アリーもカエデもアキエもフレデリカもクリュウも、みんな死んだ。
  今日の殺しのすべてはエンジュを助けるだけのためにやったことなのだから、自分の命の価値基準は狂っている。
「つまり死んでも支障のないこの僕に行ってこいと言いたいわけですね?」
  そう言ったエンジュを送り出したのがつい三日前の話なのだから。
  必要なものと大切なものを全部犠牲にして、なぜ自分はがらくたに固執するのだろうか。
  理由を探しても納得できるようなものは何一つとして見つからない。代替できるものがないからだ。そこでやっとわかったことがあった。
「……代用品がないからだ。エンジュの代用品だけは見つからないからだ」
「お前はいつもおもしろい答えに飛びつく奴だね、ビョーク」
  すべてをすぐ隣で傍観していたトレンチコートのヒビキが言った。ビョークは寝転がったまま顔だけ上げた。
「まだいたのか? お前……」
「ここまでいっしょに歩いてきたじゃあないですかい。俺の仕込杖(フェザースタッフ)を奪ってアキエに投げつけたり、存分に色々暴露して、殺し合って……この俺が地味な存在だからってここまで無視するってそいつぁちょいと酷いんじゃあないですかね?」
「目立つ気配がないからな」
「地味な男が特徴なものですから」
「思う存分殺したい奴全部殺せって言ったからほぼ皆殺しじゃあねぇか。それより明日には全員が生き返るって本当だろうな?」
「この弾はメカポリス最新式のびっくり道具です。痛みや死までリアルに演出してくれますが人体には無害な物質で構成されていて体内に吸収される……まぁ趣味の悪い嫌がらせですね。それでもお前は自虐的だからこれぐらいしないと自分にとって何がかけがえもないものなのかなんてわからないんでしょう。まったく迷惑な話だよ、この死体を回収するのは誰の仕事だと思っているんでしょうね」
「汚れ役がお前たちの仕事だろ? 給料分きっちり働けよ。臭いのとハゲはどこへ行った?」
「エンジュを探しています。アキエの発言からここのどこかにいるのは確かですし、そう広くないから見つかるんじゃあないでしょうかね? さて、そろそろ仕上げといきましょうや」
  わかっているかのようにビョークが空になった銃を投げ渡せば、ヒビキは片手でそれを受け取って、もう片方の手でひとつ弾を取り出すと、リボルバーに装填した。
  しゃがみ込むとそれをビョークの胸にあてがう。
「質のいい睡眠がとれてないでしょう」
「どの安眠剤より効果ありそうだな」
「全てにカタつけておきますので、安心して死んでください」
  安全装置を外す音がして、目をつぶるとふいに額にあたたかい感触がした。
「おやすみのキスです。アキエのいやらしいやつじゃあなくて、親が子供に対してするのと同じね。では」
  パン、と音がしてビョークが死んだ。

◆◇◆◇
  死に顔だけ見ていれば生きている時なんかよりもずっと奇麗で、安らかである。
  こいつにもこんな顔ができるんだなと思いながら、ふと目に止まったのはビョークの足許の石碑だった。
「『ビョーク=ポスカト やすらかに』。いいね、このフレーズ。眠るも死ぬもないのがいい。ただやすらかに」
  スオウがやってきて「エンジュが見つかった」と言った。

 翌日の夕方には頭痛を抱えながらもカエデが仕事をはじめている。
  カエデは自分に対しても厳しいが、アカツキとアリーは普通に学校と大学を欠席した。
あれだけのことがあってもまた何事もなかったかのように次の日がくる。
  しかし困ったことがあった。
  雨の中、長時間野ざらしにされていたエンジュと、病み上がりで雨にうたれたビョークがまた風邪をひいたのだ。
「……ヒビキさん、どうして僕たちはベッドでなくて茣蓙に三人陳べて寝させられているんですか?」
  もっともな問いをエンジュがした。
  左からエンジュ・ビョーク・アキエの順番で陳べられて寝ている三人は、ベッドではなく床に転がされている。ヒビキは答えた。
「ここの入り口は狭くてダブルベッドをふたつ並べることができないんだ」
「普通に別々の部屋に寝ましょうよ。子供じゃあないんだから」
「真ん中のボスが最近孤閨の淋しさから本人曰くとんでもない夢をみるらしいんで、とりあえず淋しくないように陳べてみたわけです」
「こけい……どんな字書くんですか?」
「閨(ねや)に孤独と書いてそう読むんだ。閨ってのは一般的には女の寝所を差していて、孤閨ってのは女が旦那のいない部屋でひとり寝ることを言うんだよ。筆記試験の鬼が会話で使わないような書き言葉を選び間違えるわけがねぇからたぶんこの文章全体が隠喩になっているんだろう。こいつ相当今女々しくなってんだろうな。あんだよー、なんで俺はこんな時に全身怪我だらけなんだよ」
  舌打ちするアキエの躯は鼻がへし折られて、三箇所撃ち抜かれていて、一箇所が伸びている。
  ヒビキは、明日は三人家族を二人に減らす計画を考えた。
  アキエは明日から右手以外動かせるだろうが、風邪をひいたビョークとエンジュは動きが鈍い上にビョークにいたっては利き手が不自由なのである。
  せめて風邪が治るまでは引き離しておかないと、バケツを取り替えに行っている間に何が起こるかわからない。
  でも別に何が起きてもどうでもいいような気もしないでもないから、それもいい加減なものだ。
  そこにアリーとアカツキがやってきた。アカツキは何だかアリーをとめようとしているように見える。
「アリーそれはちょっと無理だよ」
「見て見て! あたしビョークの好物、キュウリのシャーベットつくった」
  アリーがぶんぶん振り回しているそれはどう考えたって巨大な野菜をそのまま冷凍しただけの凶器だった。アキエが呻く。
「おい、どこの放射性物質を浴びたキュウリだそれは」
「ヘチマだよ。学校に生っているやつ無断で毟り取って来たんだって」
  アカツキが説明する。よく冷凍庫に入ったものだ。
「アリーとか言ったか? キュウリのシャーベットは摩り下ろしたものに甘味料を加えてソルベにしてだな……」
「苦労して作ったんだから食べるよね!」
  ビョークの小さな口は無理矢理こじ開けられてヘチマが突き刺さった。アリーは満足げに去っていく。アカツキはそのあとを追いかけていった。
  エンジュがその姿を見ながら呟いた。
「いつもながら前衛的かつ、シュールな盛り付けですね」
「これ盛り付けなんだ。俺はなんかの羞恥プレイかと思った」
「どちらかといえば屈辱プレイです」
「どっちのほうがビョークは好きなわけ?」
「知りませんよ。あなたのほうがそこらへんは知っているでしょう」
「いやどっちだろうな、俺は断然屈辱的なほうが好き。俺がされるんじゃなくてするほうだけど。あ、真ん中とって恥辱プレイにしておこうぜ」
「……そういう人ですよね、アキエは」
  三日間寒い墓場の柱に縛り付けて、アカツキについて細かく聞いている時のアキエは本当に親身になって心配している身内なのに、それ以外にはどうしてこうも容赦なく欲望の対象にできるんだろうと思う。
  昔ヒビキから聞いた、内向的で本が好きだっただけの少年はこのアキエによって少しずつ歪められてこんな大人になってしまった。
自分とアキエが逆の配置でついていたならば、この真ん中に寝ている最年少の運命も性格も変わっていたかもしれないのに。
  クリュウだったらまず精神的に屈さないだろうから、そんなに強く影響されたりしない。相手と自分をまったく別個の存在と割り切っているから、共鳴したりもしない。
  アキエもそのままだし、クリュウもそのままで、自分とビョークだけの性格がかわっただろう。
  ただし本の中に閉じこもった少年の心を無理矢理力業で抉じ開けて誘い出し、引き回して足腰鍛えて規則正しい生活から不道徳な生活まで全部逐一教え込むなんて真似は自分にはできなかっただろう。これはもう躾というより調教の域だ。エンジュは無害だが、影響力も皆無なのだから。
「もうなんかあのクソガキに俺とビョークの十年以上の懇意が負けたって考えるとすっげぇ悔しい」
「うっかり殺すなよ?」
「殺さない殺さない」
  ヒビキの釘刺しにアキエが動く首だけを振って笑った。
「俺昨日はじめてこいつから『愛してる』って言われた。もうそんだけで十分幸せ」
「ビョークがそんなこと言うことあるんですか? 絶対本人には言わない人だと思っていました。相当愛されてますね、それか酔っていたんでしょう。たまには僕も『感謝しているよ』くらい言われたいものです」
  エンジュが不服を漏らすと、アキエが笑った。
「ちゃんと感謝しているさ。あいつがずっとほしがっていたものがここに全部あんだろ?」
「なんですかそれ。珈琲ですか?」
「殺しじゃあないですかね」
  ヒビキはビョークには不可欠なものをあげてみた。
「あと形だけじゃあない家族。ちょっと歪みすぎているけどな」
  アキエの言葉にエンジュがため息をついた。
「歪(いびつ)どころかパズルのパーツを無理矢理違うところにはめ込んだみたいな形していますよ。これって形とすら形容できないオブジェです」
「家族がいて珈琲があって殺しができるってビョークにとってこれ以上の好条件はありませんやね。見てくださいよこの充ち足りた貌を。さすがのビョークだってあれだけの昂揚感と喪失感と独占欲と快楽を同時に満たすことなんて今までなかった経験でしょうに。こりゃあ癖になりますね、あと何度か殺されてやってくださいよ、お二方」
「嫌だね。俺にとってのこいつは食べずに棚にとっておいている芋羊羹みたいなもんだし。俺は何時喰ってもいいけど羊羹に俺が食われちゃあなー」
「アキエという羊羹だってたまには誰かに食われることがあったほうがいいんですよ」
  ふとふたりは、真ん中の女々しい快楽殺人鬼を見た。
「なんだか唇が紫色になっていませんか?」
「冷凍ヘチマによる凍傷じゃねぇのか?」
  ずっと看病というより見ていただけの、いつも見ているだけの、ただ見殺しにするヒビキはヘチマをぐっと引っ張って抜いた。歯型がついたヘチマを放り投げると重い音がして地面に転がる。
  ヒビキは何事もなかったかのように繰り返される会話の中に「もしも」と考えることがある。
  クリュウはたとえばという話が嫌いだったがクレイとはよく話したものだ。
  もしかしたら、虚偽が真実を産みだすことだってあるのかもしれない。
  もしかしたら、日常的に繰り返される無限の奇跡があるのかもしれない。
  もし半年前にあの弾丸が開発されていれば、クリュウだって何事もなかったかのように生きかえったかもしれない。
  そんなことを考えながら日々起こる日常をただ眺めて夢想に耽るのである。
「そういえば細君に煮物を作らせたのですが、食べますか?」
「食べます」
「腹減った」
  バン!
  扉が開いて今度はトキが入ってきた。
「アキエー!」
  第一声はそれだった。ずかずかと茣蓙に寝かされているアキエの隣までやってくるとしゃがみ込んで抱き起こす。
「俺とキスしろ」
「いやだ」
  即答だった。だがトキは食い下がる。
「ここの幹部全員にアンケートをとった結果、アキエにキスされてないのは俺だけらしい。お前が俺にキスしてくれないと俺は口臭の激しい男というレッテルで一生誰もキスしてくれなくなる! お覚悟!」
  抵抗する間もなく唇を奪われたアキエの横でエンジュが「うわっ」と顔を歪めた。ヒビキは声を殺して笑っている。
  アキエをまた茣蓙に転がして、何事もなかったかのように去っていくトキを見送ったあと、すごく苦々しい顔をしているアキエが呟いた。
「もう今までのすべてを忘れるようなすさまじい味がした。これからキスする味もすべてあいつの口臭に消されるんじゃあないかってくらい、すさまじい味が。俺今無性に醤油の味が恋しい。カミさんの煮物早く寄越せ!」
「細君は薄味なのでトキのあとじゃあ味がわからないかもしれませんね。温めてきます」

◆◇◆◇
  ヒビキが出て行ったあとに部屋に取り残された三人。
  確実にヒビキの姿が消えたのを確認してからアキエは聞いてきた。
「セスはあいつが怖いんじゃあないか?」
「え? ヒビキさんが怖いって、どうしてそう思うんですか?」
「普通に会話していた今のあいつの脳内を俺風に翻訳するとだ、『うちのボスの肌はきめ細かくてきれいだなぁ。こいつ本当に三十路に突入したのかよ? ありえんくらいしっとりしたベビースキン、あー吸いつきてぇ。吸い付いて若さを吸い取りつくしたい』……こんな感じだ。あとお前の引き締まった躯と俺の若さにも嫉妬している」
「意訳しすぎですよ。でもアカツキを近づけると危険ですね。僕たちより若くて肌がきれいで体型もいいし」
「俺があいつにつけたあだ名は視姦魔。俺やセスのような目を有っていなくてもあいつには色んなもんが見えるのさ。あれはここの組合のジョーカーみたいな存在だなぁおい」
「僕はなんだかジョーカーだけでフォーカードができるポーカーをやっている気分です」
  あまりにもこのゲームにはジョーカーが多すぎるのだ。
  エンジュはため息をついてふと気になったことを聞いた。
「アキエはどうしてそんなにビョークに執着するんですか?」
  聞いたらまずいことだったのだろうか。少しだけ顔が曇ったような気がするアキエは階段のほうから誰も上がってこないことを確認した。
「ビョークはちゃんと眠っているだろうな?」
「眠ってます。ちょっとやそっとしゃべったくらいじゃあ起きませんよ」
「じゃあいいや。ヒビキや他の誰かが入ってきたら中断するからな。アキエ=ポスカトでなくソレイユ=フロンティアの話だ」
  そうしてアキエは話しはじめた。
「ソレイユはヘサマフィアに小せぇ頃に売られてそれからずっと麻薬漬けの日々だった。麻薬で心と体の自由を奪いマフィアに服従させるためだ。クスリのためならなんでもやる少年だった。飼っていた猫を殺せと言われれば縛って井戸に沈めたし、老いぼれたホームレスを私刑(リンチ)してこいと言われればそうした。麻薬を売ってこいと言われれば売ってきたし、躯を要求されればそのとおりにした。麻薬は三回人を殺す。まず心を殺すんだ。その中でも順序があって、最初に無気力にさせる。これが抵抗させないための手段だ。次に思いやりと優しさを奪う。そしてそうなった少年が頭の中で考えていることは『いつ使おう、どこで手に入れよう、どうやって手に入れよう』これだけだ。心が死んだあとは肉体の死、これは目に見える結論で、一番わかりやすい。最後は魂の死だ。麻薬中毒者の骨は脆くて崩れやすい。燃やすと遺骨が残らないんだ」
  エンジュはアカツキの紅い目を昔見せてもらったことがあった。透明度の高い紅玉(ルビー)か上気したツツジのような澄んだ鮮やかな色だ。アキエがコンタクトを外しているところを見たこともある。それが赤とは思えないほど暗く澱んでいて果てしなく黒に近かった。
「ソレイユがあまりにもいい子なもんだからマフィアの連中はそいつでよく遊んでいた。唯一違ったのがそいつの世話係兼クスリ係だ。見かねたらしく、内緒でソレイユにクスリを飲ませるのを止めたんだ。それはマフィアにとっての背任行為だったけどそいつはそれでも『クスリは止めろ』と言った。だが愛の力で麻薬は癒せない。頬を強くひっぱたいて『馬鹿野郎!』と叫んだところで届かない、抱きしめて『お前のことを大切に思っている』と言っても無駄だ。ソレイユは他の奴から麻薬を手に入れ続け、やがて背任行為がバレたそいつは処刑された。だが少年は悲しいとさえ思わなかった。そいつは誰にも悲しまれず死んでいった」
  悲しいと思う心さえ忘れてしまったのだ。アキエは続ける。
「やがて次のクスリ係が決まった。そいつが最初に少年にやらせたことは、なんと少年そっくりの金髪で、あー……目は赤くなかったな、メカポリス人特有の碧眼を有ったきれいな少年だ。どこからか攫ってきたらしいそいつと、武器を渡してこう言った、『さぁ殺してみろ』さんざん嬲(なぶ)られて陵辱された形跡のあるその少年がクスリでぼろぼろの自分と重なって……気づいたら命令した男を殺していた。初めての殺人だ。少年はその時殺しの味をしめた。『俺は戦える!』そう思った。何と戦うつもりだったのかは知らねぇが、少なくともクスリと戦うつもりじゃあなかったみたいだな。手に入れた武器で何人か殺しつつクスリを強奪してヘサを飛び出した。路銀は足りなくなれば人を殺して手に入れたが、クスリだけはそうもいかない……ポスカトで麻薬が底をついて、ソレイユは発狂しかけたところをクレイ=ポスカト、当時のポスカトマフィアにつかまったんだ」
  一階から醤油の匂いがする。もうすぐヒビキがあがってくるだろう。
「ポスカトマフィアはヘサマフィアと仲が悪い。せっかく手に入れた便利な能力をみすみす返すわけがねぇだろ? ヘサマフィアにばれないようにこっそり飼うことにしたんだ。まずソレイユの顔を歳の近かったクレイの息子そっくりに整形して、その息子の部下につけた。クレイは『自分は行けないが、息子はきっと無茶苦茶な生活をしている。世話をしてやって何かあったら連絡しろ。クスリは好きなだけやる』と言った。ていのいい家政婦兼監視係を言い付かったわけだ。クスリが欲しかったソレイユはあっさり承諾した。そしてひとつ年下の小生意気な奴に会うことになる」
  ビョークである。隣に寝ている男が自分の話題になったことに気づいたのかはわからないが、寝返りをうった。こっちも起きそうである。それを見ながら話は続いた。
「その小生意気な少年がある日ソレイユのクスリを隠しやがった。家中をフロンティアの眼で探しても見つからない、だけど禁断症状はでなかった。そいつがこっそりソレイユの食事にクスリを混ぜていたからだ。少しずつ量を減らし、回数を減らしていきソレイユは麻薬の鎖を断ち切ることができた。こいつは愛の力でなく医学の力を借りたんだ。当時麻薬の研究はスノースタリン大陸ではあまりされていなかった。こいつは引きこもりで学校にも行ってないような奴だったが、本だけは好きで、月語からエレセレナ語から古代の言葉まで全部読めるんだ。山のように世界中の麻薬の専門書を積み上げて日夜研究してやがった。ソレイユのすべてだったクスリを取り上げたその少年が、それからのそいつのすべてだ。アキエ=ポスカトの誕生だよ。思い出話はここまでだ」
「なんだか壮絶な人生を歩まれたのですね。僕はその頃クリュウといっしょに毎日学校へ行って、帰ってきただけでした」
「あのヘサにだけはもう戻りたくねぇって思っていたんだ。次にあの世界から俺を救ってくれたのはフレッド……こいつにはフレデリカって名乗ったらしいが、そいつが俺をいるべき場所へ帰してくれた」
「フレデリカさんってどことなくあなたに似ていたらしいですよ?」
「心外だなぁ。あの脳内がヘビィメタルかパンクミュージックみたいな音楽流れっぱなしの空間にミラーボールがフル回転している状態でゴキゲンみたいな女といっしょにされちゃ……ああ、でもちょっとときめいちゃった部分はあった。『たとえ傷つけあうだけだとしても私はそれだけで救われているの』ってあの台詞、俺たちも傷つけあうだけだとしたってひとりよりふたりを選んだ」
「なんだか強烈な女性みたいですね。好きだったんですか?」
「俺が好きだったなんて言ったら隣のこいつが嫉(や)くだろ? 気になっただけだよ、ちょっとだけな。あー……フレッドの話してたら煙草吸いたくなった。ヒビキの煙草は年寄りしか吸わないやつだしなぁ」
「ビョークが最近煙草吸ってますから、それがあるんじゃあないでしょうか。でも煙草は沈黙の殺し屋ですよ? 麻薬よりはマシですが」
「太陽(ソレイユ)なんて名前だがソレイユの生きてきた世界は夜の世界だ。お前がセスに暁(アカツキ)って名前がついたって教えてくれたときはほんとうに陽のあたる世界で生きてほしいと喜んだもんだ。明慧(アキエ)って名前が指す字の意味はビョークが教えてくれた。”明(アキ)“は明星(あかぼし)……赤い星とも書くことがあるが、明けの明星(みょうじょう)の古語にあたる。明けの明星ってのは東の空にのぼる夜明けの金星だ。”慧(エ)“はふたつの意味と読みがある。慧眼(けいがん)と読ませて、物事の本質を見抜く鋭い眼力、鋭い洞察力、それをもつこと。慧眼(えげん)と読ませて、これは宗教的用語で菩薩や仏が持つといわれている真理を暁(さと)る能力をもつ目のことをいう。最高の名前じゃあねぇか。猿鷲(エンジュ)なんて猿(さる)と鷲(わし)なのにな」
「なんだかすごく不公平ですね。クレイさん不公平ですよ」
  なんだか不満だとばかりにエンジュが呟いた。だが自分がアキエなんて名前をもらったとしても、名前負けして終わるだけだとわかっている。
「でもこれでどうしてポスカトマフィアが麻薬から手を退いたかわかりました。知っていますか? 五年前、あなたがいなくなってからビョークが金にがめついと有名なクリュウと金に汚いと有名なヒビキさん相手に何時間も粘って勝ち取った結果です。あなたへのプレゼントですよ、あなたが戻ってくる日のためのプレゼントです」
  アキエは何度か目をぱちぱちとさせ、黙った。照れてるのか、何か言いたそうだったが、すぐ話題を変えた。
「まあ帰ってきた日に噂をたしかめに墓場に行ったら、本当にビョークの墓があった時には泣いたな。泣いたの何年ぶりだろうってくらい。なんで俺より先に死んじまったんだろうって」
「意外なところで女々しいですね、あなたも。ビョークはあなたが死んだとフレデリカさんに聞かされた時には泣きもしなかったらしいですよ」
「あいつと俺の約束だ。あいつが死んだら俺は泣いて、俺が死んだら墓標に『キス魔よ永遠に』と書くってな。それにこいつ泣くのは苦手なんだ、すっげードライアイで目にゴミ入るととれないで俺のところにくんの。俺に眼球舐められてすっげぇ悲鳴あげるんだって」
「舐めないでふつうにとってあげてくださいよ。でもこの人というか、ここにいる人たちは本当に泣いたり怒ったりするのが苦手みたいですね。不条理なことに対して代わりに僕が怒ったりあなたが泣いたりしないとこの人自分じゃあ何もできないで我慢してしまうんです。ほうっておけませんね」
「うー、お前らうるせぇ……人の横で何かぺらぺら喋りやがって。頭ガンガンしているってのに」
  寝苦しそうにもう一度ビョークが寝返りをうった。
「あまりの寝苦しさのためか知んねーけど、すさまじい夢見た」
「どんな夢だったんですか?」
「アリー特製、キュウリのシャーベットを喰わされる夢。すんげーカタくて歯がたたない、味がしない、冷たくて歯が痛い。なんでだろう……夢の中で食ったはずなのに本当に歯が痛てぇんだけど……」
「あのガキが本当にキュウリのシャーベットを寝ているお前に喰わせたからだ。あそこに転がっているヘチマがそれだ」
「アリー! クソガキ、どこへいきやがった! 今日という今日は許さねぇ!」
  腹筋だけで勢いよく起き上がるとビョークが叫んだ。
  ヒビキが温めた煮物を運んできた。
  ポスカトマフィアというよりもうそれは既にファミリーである。やっとこの男が手にいれた家族なのだ。

 殺人鬼のレシピ(完)