12 「君の生きた証は……」

 夜にふと起きたのは、もとから寝つきがよくなかったこと以外にも、窓の外から沈丁花の馨りがしたことも関係してくるだろう。
  そうか、もうこんな季節なんだとビョークは思った。
  ポスカトを離れてどれくらい経ったのだろう。砂漠にいると季節は実感できない。
  隣に眠る女をふと見れば、そちらも目を覚ましていたらしい。暗闇の中で目がかち合う。フレデリカは笑った。
「起こしちまったか?」
「あんたの腕が重くて起きちゃったよ」
  気がつけば、また腕をフレデリカの躯の上に置いていたらしく、慌ててどかした。
「近くにあるものを抱え込んで眠るクセがあるんだね。ポスカトにはクマちゃんのぬいぐるみとかあったり?」
「あー、ないわけじゃあねぇな……剥製だけどさ」
  あの大きなアライグマの剥製を抱いて寝たらさぞかし寝心地が悪いだろうとビョークは思った。
  それにしてもフレデリカの躯はどんどん軽くなっていく。きっと自分の腕も本人にとってはかなり重かったのではないだろうか。
  ビョークは立ち上がった。ふたりとも起きたのならば珈琲を入れようと思ったからだ。ジオのコンデンスミルクをたっぷりいれた珈琲にももう舌が慣れた。
  コンロの火をつけてお湯をかけはじめたあたりでふと寝台のほうを見る。そこには寝乱れることもなく、人形のように横たわる女の姿がある。心配になって呼んでみた。
「フレデリカ」
  反応が返ってこない。もう一度同じように呼んでみたが、やはり返ってこない。駆け寄ってゆすってみればようやく焦点の定まっていない目が生気を帯びて、小さな声で『火は消さなきゃだめだよ』と言うのであった。
「なあ……お前さ、最初の時もそうだけど……なんでそんなに空っぽの目をするんだ?」
「んー、どうやって見ればいいのかわからないのよね」
  寝返りをうって起き上がるとフレデリカは続ける。
「ほら、私けっこう色んな役割やるから。ビョークはどういうのが好き? 女軍人、看護婦、牝奴隷、叔母、義母、小学生、処女、女王様、あとはねぇ……」
「なんだってそんなマニアな……」
  ビョークが呻いた。フレデリカはけらけらと笑いながら言った。
「どうすればいいのかわかんないのよ。好きな人の前ではどんな顔をするの? 女の人ってどんな顔をするのかしら?」
「女になったことねぇから、わかんね」
「でもね、私ちゃんといつもビョークを見ているのよ。あんたはね、いつもすごくぎこちないの。そんなに怖がらなくたって私は壊れない。そんなに弱くはないよ」
  そう言っている肩があまりにも薄い。鍋を火にかけたままのことを思い出し、立ち上がる。
  珈琲を淹れてきてふたりでテーブルに腰掛けた。フレデリカが「あっ」と呟く。
「あとね……女がみんなマリイさんみたいな人だと思わないほうがいいわよ」
「マリイがどうしたって?」
  懐かしい女の名前にカップを傾けたままビョークが聞き返した。
「いくらだって言われたの?」
「マリイの躯だったら金七十四粒で買ったことにしたけど?」
「あんたが幾らだって言われたのよ?」
「…………」
  ビョークは押し黙った。なぜそんなことまでこの女は知っているんだろうか。
「銀三粒って言われた」
「安ッ!」
「まあ多感な少年時代にはキツイ思い出だが、別に気にしちゃいねーよ」
「いや、ぜったい気にしているね。あんた年上の女に自分の身体が銀三粒だって言われてすごくショックだったでしょう。大丈夫よ、あんたはちょっと羽振りがよかったから高い買い物しちゃったの。そしてあっちは金がなかったからあんたを格安で買ったのよ。これ重要よ? チープかリーズナブルかの差って」
「もういい、そこらへん思い出したくない」
  手を振って素直に思い出したくないと言うとフレデリカは乗り出してきた。
「それで、それ以来女と寝るのが怖くてこの年齢までマリイさん以外の女を知らないんでしょう? どこまで私を歓ばせる気なの、あんた」
「よろこぶな! そんなところで歓ぶな変態」
「あらありがとう」
  変態という言葉も誉め言葉ととってしまうらしい。こうして会話しているときの彼女はたしかに存在しているのだ。自分の中にも、その外側にも、ひとつの存在として確立された何かである。

 次の日は少し遠くの病院まででかけた。
  もしジオで一番でかい病院ならば、フレデリカの病気の原因が、せめて痛みを和らげることができるかもしれないと淡い期待をもって。
  最新式のメカポリステクニックを駆使して躯中を分析にかけるがまったく結果はかんばしくなかった。
「まったく通常の人間と違いはありません。本当に苦しいんですか? フレデリカさん」
「本当どうしてでしょうねー、苦しいんですよ。この、胸のあたりがね……ズキズキミシミシメキメキって感じで」
  そんな押し問答が続くのを隣で聞きながら、ここもダメかとビョークはため息をつく。
  道具は最新式である。たとえ月へ行って検査したとしても同じ結果がでるであろう。
  病院を出るとフレデリカは至福の瞬間とばかりに煙草に火をつけた。もうその香りは慣れ親しんだもので、そう違和感もない。
「珈琲でも飲んで帰るか」
  近くに珈琲店を発見してからビョークが提案する。
「私あっちのうきうきバイキングがいい」
「どうせ固形物なんて殆どたべれねーだろうがよ。目がほしがっているだけだっての」
「目が、食べたがっているのよ!」
  押し切られて結局うきうきバイキングに参加することになった。
  なるほど、いつかフレデリカが言っていたように、ジオの肉はほとんどがヤギ肉である。硬くて、やや臭みのある肉はソースで煮込んでもまだ何か名残りがある。
「ほら、やっぱり食べられねーんだろ」
  青菜のスープを口に運ぶだけのフレデリカを眺めながらビョークが呟く。自分自身もそんなに食欲のあるほうではないので、本当にバイキングなんかに参加する意味があったのだろうか。
「あれとかどうだ? ココナッツプリン。あとはその隣のウナギのゼリー寄せ」
「持ってきて、持ってきて!」
  本当に食べられるかどうかわからなかったので、とりあえず一個ずつ持ってきてフレデリカの前に皿を置いた。スプーンを構えて食べようとはするのだが、そこから先、食べられるかと聞けば食べられないようだ。
  手をつけていないようなので、しかたなくビョークが自分の口に運ぶ。
「うー……わたしのプリンが」
「食うか?」
  口に運びかけたココナッツプリンをスプーンに乗せたままそちらに向けると欲しいような欲しくないような顔をしながら「やっぱりいい」と呟くのだった。
  スープを啜るだけのフレデリカを見ながら、本当にここでよかったのだろうかと思いながらも、口に食べ物を運ぶ。すると、近くで声がした。
「あら、フレッド。こんなところに来てたの?」
  その声に顔をあげれば赤い目が見下ろしている。見事なまでのやわらかな金髪と、褐色のジオ民族にはめずらしい白い肌……フロンティアの末裔である。
「アンジェリーナ。あなたこそどうしてここにいるの?」
  この自分よりやや年上の、カエデと同じくらいの年齢の女はアンジェリーナと言うらしい。
  アンジェリーナは勝手に近くの椅子をひっぱってきて自分たちのテーブルに腰掛けると「いやねぇ」と切り出した。
「ここの近くで売人の検挙があってね、それでどこに薬が隠してあるのか探すために呼ばれたのよ」
  ジオの軍部はヘサのようにフロンティア一族に起爆チップを埋め込んだりはしない。みんな自分の意思でその能力を使っているのだ。アンジェリーナは革鞄をぐっと持ち上げた。
「クスリはあげられないけれど、これだったらあげるわよ。いる?」
「何それ?」
「AV。そこのお兄さんとふたりで使ったら?」
「いらねぇ!」
「貰えるものはなんでも貰っておきなさいよ。遠慮しないで」
「察しろよ、いらねぇんだよ!」
  もう既にタメ口になっているあたりが生意気な印象を与えたかもしれない。アンジェリーナは革鞄を下におろすとそれを足でビョークの足元へとぐぐっとやった。何がなんでも押し付けてくるらしい。アンジェリーナもこんな重いものを持って帰るのは面倒なのだろう。
「フレッドはどうしてここにいるの?」
「ちょっと病院に……」
「病気だったんだ?」
「いやぁ、病気かどうかわかんないんだけど、たぶん病気? 心臓バクバククラクラって感じでね……」
  軽く経緯を説明しているフレデリカを見つつ、もう彼女は数週間前に解雇されているのだから問題はないだろうとビョークは聞き流していた。アンジェリーナはうんうん、と頷く。
「そりゃあ大変ね。原因わからないんだ」
「アンジェリーナの眼でも何もわからない?」
「そうねぇ……」
  赤い眼の奥にちらちらと金色の文字が浮かぶ。フレデリカの躯の中に流れる情報をくまなく読み取るようにしてからかぶりを振った。
「だめみたい」
「そう」
  残念、とばかりにフレデリカがため息をつく。
  ふとアンジェリーナは隣に座っているビョークを見て、フレデリカとひそひそと話はじめた。
「どこで買ってきたの?」
「バーゲンセールでね、一体銀三粒で……」
「聞こえているぞお前ら」
  昨日のネタまでそのまま使われて、ビョークが呻いた。
「幾らで貸してくれる?」
「えー、尻撫でるくらいだったら銅一粒」
「貸すな!」
「いいなぁ。若い男の桃尻が銅一粒ってのは」
  身の危険を感じつつ、ビョークが珈琲を注ぎに立ち上がると、アンジェリーナも自分の皿が空だったことを思い出したらしい。いっしょに立ち上がった。
  追い越しざまに声をかけられて、囁かれた内容にビョークはぞっとした。思わずフレデリカを振り返りそうになって、アンジェリーナに背中を押されてやっと気づいた。今振り返るのは不自然だと。

 フレデリカは翌日から、何も食べられなくなった。
  水を飲むのも難しい、しかし砂漠で水を飲まずに生きていられるわけもなく、スポイトのような道具で少しずつ口を湿らせてやるという作業をビョークは根気強くやった。
「ねえ、あんた仕事はどうしたの?」
「は?」
「仕事。あんた仕事の鬼じゃない。本当はポスカトの仕事が気になってるんじゃない?」
  ビョークは鼻で笑った。なんとも自分で嫌な笑い方だと思ったが。
「馬鹿な女」
  その言葉にフレデリカがけらけらと笑う。
「やっぱあんたは憎まれ口叩いてるときが一番可愛いわ」
「なにそれ。キショ」
「あはははは、照れ隠し?」
「フレデリカさん、そろそろ気持ち悪いこと言うのやめてくれません?」
  カラカラにしわがれた声のフレデリカと会話をたくさんした。思い出づくりなんてそんな陳腐なものではなく、彼女をいっぱい刻みこみたくて。
「フレデリカ、しゃべるのきつかったら言えよ?」
「なにそれ。黙ってほしいならギャグボールでも嵌めれば?」
「自虐的なネタやめろよ。本当にきつくなったらやめていいんだからな?」
  そしてたまに真面目になったようにそう言った。
「今日あたりが限界だろうね……」
  フレデリカはそう呟いた。ビョークはなんと答えればいいのかわからなかった。
「俺さ、」
  さようならの変わりに言いたい言葉があった。
「愛しているとか、そんなもの言えねえよ。だって俺は愛とかまだよくわかんねえもん」
「何それ。恥ずかしがり屋がここまで極まると可愛げもなくなるわ!」
  フレデリカの責めるような言葉にビョークは苦笑いしながら、真剣に言った。
「だけど、会えてよかったと思っている。あと、好きになれてよかった」
  ベッドに寝ているフレデリカの髪を撫でた。本当はまだお別れしたくない。ずっといっしょにいたかった。
「ねえ、ビョーク」
  フレデリカが最後にこう呟いた。
「死にたくないよ……」
  このとき、自分がどんな表情をしたのかわからない。ただ、何も答えになるものを持っていなかった。彼女より数年多く生きていたが、彼女の宿命の前に自分は無力すぎた。
「死にたくない……」
  そう呟いて、彼女の身体はちらちらと金色に光り始めた。きっと、これが彼女の最期なのだろうと思ってフレデリカを抱きしめた。
  腕の中で彼女という細胞が全部崩れていくのがわかった。ちらちらとした金色の光は、あっさり消えていった。その光を捕まえてとっておけないかと手を伸ばしたが、手を開けばそこにフレデリカの欠片さえ、残っていなかった。
  空っぽになったベッドを見つめた。
  昔何かの本で、いなくなった愛しい人の匂いをねかぎり嗅いでいる男の話があった。若い頃の自分は「変態だな」と思ったけれども、今ならばその気持ちもわからないでもない。
  ビョークは立ち上がった。未練になるものが何もなくなってしまったこの家に、お別れを言うこともなく出て行った。

 ゴンザレスは自分の執務室に戻ってきてため息をついた。部屋の中の資料という資料がぐしゃぐしゃだからである。
  その真ん中に置いてある机にはビョークがどっかりと腰をおろして……椅子ではない、机に腰を据えて資料に眼を通している。
  口に咥えていた煙草を手近にあった灰皿に擦り付けてビョークは振り返る。
「遅かったな、ゴンザレス准将」
「クリュウ=ポスカトだったかね? たしかポスカトマフィアのボスの。こんなことして、ただで済むと思っているのか?」
「まぁあんたのお説教はあとで聴くよ。ちょっと訊きてぇことがあってここに来たんだ。この資料……」
  ぱん、と指で紙をはじくとビョークが言った。
「これさぁ……フレデリカのことが書いてあるみたいなんだ。フレッドって書いてあるけれど……これの内容について説明してくんない? 俺、ジオ語って得意なんだけど、もしかして間違っているかもしんねーし」
  ジオの言葉はポスカトの言葉に比べれば簡単だ。読み間違えるわけがない。
  アンジェリーナは言った。「フレデリカの脳内に変な信号を出しているチップがある」と。
  そしてここにも同じ記述のされたものがある。
  今から五十年ほど前、ジオで人権問題が確立されてから、時空間を操る魔族への意思束縛のチップを埋め込むことへの反対がでた。
  試験体として当時の魔族……フレッド=エーディンリッヒ、フレデリカの父にあたるそいつの脳には意思束縛のチップは埋め込まれなかった。そのかわりに死刑宣告のように命の時間を刻み続けるチップが組み込まれたのだ。
  時空間を操る魔族はその気になれば相手を一気に風化させることも敵の首をいっせいにはねることもできる危険な能力の使い手である。意思をもった者が、どういう風に行動するかを、監察しなければいけなかった。何か不都合のある行動をとるのであれば殺さなければならない、それが理由だ。ゴンザレスがずっと監視していたのだ。
「驚きだよな。人権問題の兎角煩いジオでこんなことがおこなわれているなんてさ……」
  ビョークが半眼で呟くと資料に重しを置いて立ち上がった。
「フレデリカは昨日死んだよ。後も残らず綺麗に消えちまった……」
「そうか……何か言ってなかったかね?」
「あんたに『お世話になりました』って言っておいてほしいってさ。あんたは監視していただけだってのに、随分慕われたもんじゃねぇか。でもやっとわかったよ、フレデリカがどうしてあんな目で俺を見てきたか」
  時間を刻み続けるチップにはあらかじめ人工的な知能が植え付けられている。何が本当の自分で何がチップの意識なのか、彼女は混同していたのだ。
  人らしささえ奪う、その残酷なシステム。自分の中に広がる虚無も相手の中に広がる虚無も、彼女は無意識のうちに感じていたのだろう。
  ゴンザレスは口を開いた。
「フレッド――フレデリカの父のほうだが、あいつは私にこう言った。『何故道具なんかに意思を持たせたんだ。ただの道具ならば意思などないほうがマシだ』とね。彼女ならばどう答えると思う?」
「『それでも意思がないよりはマシだ』とか答えそうだな」
「ならば実験は成功だ。次からはチップは外すように進言しておく」
  ビョークは目を伏せた。進言したところで、もうフレデリカの血族は途絶えてしまったわけだ。
  ビョークは机を降りて、ゴンザレスの前まで歩いていく。
「なぁ、准将?」
  昏い紫の瞳が大柄なゴンザレスを下から見上げるようにして覗き込んだ。
「あんた、実はこれに反対したんだろう?」
「どうしてそう思ったんだね?」
「反対一票って書いてあるから。あんた潔癖主義っぽそうし」
「……フレッドは友人だった。フレデリカも、娘のようなものだ」
「じゃあお土産だ。形見にでも持っておくんだな」
  手に握らされたものを確かめると、それは昔、フレデリカがアキエから貰ったアルミのシガレットケースだった。中身はもう空っぽになってしまった、ただのシガレットケース。
  ビョークはそのまま執務室の扉に手をかけた。
「部屋片付けといて。じゃあな」
  バタン、と閉まる音とともに、静寂が訪れた。

「ビョーク! 冬に出かけてなんで春になって帰ってくるんですか。一ヶ月ですよ一ヶ月! その間カエデさんが鬼のような形相で全部の仕事を片付けていたんですよ。やくざな商売だろうがなんだろうが、誰かもう一人くらい頭のいい人いないとまわっていきませんよ」
  帰省してまず一番最初にがみがみと怒鳴ったのはエンジュだった。
「どうでしたか、彼女には会えたんですか?」
「会えた。そいつとずっと暮らしてた。毎日少しずつ場所ずらして首筋から足の先までキスしてまわった」
「……あなたの愛しかたはいつでも偏愛ですね。そんなに素敵な女性だったんですか? ゴンザレスさんって」
「ゴンザレスは男だった」
「男の方と愛し合ってきたんですか、ビョーク!?」
「ちっげぇよ! フレデリカっていう女がゴンザレスって偽名使って俺に手紙送っていたんだってーの」
  思い切りたじろいたエンジュにビョークが大声で反論する。エンジュはなんだかほっとしたように胸を撫で下ろして
「でもそんなに気に入った女性だったなら連れて帰ってくればよかったのに。結婚しないまでも、あなたならば愛人の一人や二人養っていくだけの財力はあるじゃあないですか」
「どこかに連れ出してやろうとしたけど帰ってくると無理しているのがわかるからやめた。日に日に食欲がなくなっていって最後は水しか飲まなくなった。『今日消えるだろうから抱きしめといてくれ』と言われてそうしていたら時間がきたとき指から零れ落ちるように風化していった。砂も残らなかった」
「……お願いだからもうすこし同じ次元を生きている女性に恋をしてくださいよ。幽霊みたいです」
  幽霊……そんなものがいるのかどうかは知らないが、あの女はたしかに幽霊のような不確かな存在だった。喉の骨を奪い取るなんて真似はできなかった。
「エンジュ、お前のほうこそ最近女はいるのか?」
「なんですか僕に対する嫌味ですか?いませんよ! いつも彼女には『あたしだけに優しくしてよ』とか無理言われて離れていかれるんです。別に浮気なんかしていなくてもそうなんですよ。女って生き物は普段は冷たくて自分にだけ優しい都合のいい男が好きなんです」
「そりゃあ男だって自分だけに優しい女が理想的って思っているんじゃねーの? そう考えるとカエデはクリュウ以外には鉄の女だな。ああ……」
  思い出したかのようにビョークは口を開いた。
「すっげぇ恥ずかしいから言いたくねーんだけど、十代のときさぁー同じ顔してんのにアキエばっか女いるからどうやったらそうなれるんだって聞いたことあんだよ」
「それは甘酸っぱくも気恥ずかしい思い出ですね」
「そしたら世の中の男が冷たくしている時には優しくして、優しい男が増えたら冷たくするんだとさ。でも最後に言われた言葉は『でもそれは女を確保する方法であって、恋人を見つける方法じゃない』だとさ。じゃあ恋人はどうやって見つけるんだって聞いたらひたすら探せとまったくトンチンカンな答えが返ってきた」
「つまりアキエは恋人がいないときでも、女はいつでもいたと。なんか贅沢な話ですね。なんですかその妙にムカツク説明は。それでいて男にも手を出すってどれだけ見境ないんですかあいつは!」
  憤慨したかのようなエンジュにまぁまぁとビョークが諌める。
「そのうちお前のような人畜無害だけが取り柄のような男を好きだっていう女だって現れるんじゃねーの? いいじゃん別にー、女の趣味に合わせてころころ変わるような軟派な男でなくたって。お前にゃそんな生き方できねーんだし」
「そのうちでなく今すぐほしいですよ。どこにいるか教えてくださいよ」
「ひたすら探せ」
「ああもう! 嫌いだこんな上司。上司からセクハラ受けましたってカエデさんに訴えてやる」
  自室から出て行ったエンジュに後ろから呼びかける。
「ついでだ、カエデからもセクハラ受けてこい」
  一人だけになった部屋でくん、と鼻を鳴らした。どこからともなく煙草の香りがする。それが自分から香っているのだと気づいたのはちょっとしてからだった。
  残り香だけがあの女の存在の証である。
  いずれはこの体に染み付いた残り香も消え去り、指先が覚えた肌の感触も唇の味も、すべて忘れ去ってしまうのだろう。
  ただ「愛している」は「愛していた」には絶対勝てないということを、なんとなく理解した。
  これからも恋をするかもしれないし、結婚もするかもしれないが、生身の女ではきっと架空との狭間にいた女に勝つことはできないだろうと、なんとなくそんなことを思った。
シガレットケースに最後に残った一本を口に咥えて火をつければ、フレデリカとアキエのかおりがした。