11 「心をかよわせて」

「ジオの珈琲でなくジオで珈琲が飲みたくなった」
  やっと冬の終わり頃になった雪解けの季節……珈琲にミルクを入れながらビョークが呟いた。
  エンジュがおぼんを抱えたまま半眼で見下ろして
「それ、ギリギリになって言ったけど実はずっと考えていたことだったりするでしょう」
「よくわかってるじゃねーの」
  笑って手紙をエンジュに渡す。そこには女の文字でゴンザレスと書かれていた。
「組合にゴンザレスさんなんていましたっけ?」
「いや、俺の最近の文通相手。ちょい読んでみー、笑えるんだそれ」
  人の手紙を読むのは正直どうだろうと思ったが、本人がいいと言うのだからとりあえず読んでみることにした。

 愛しのクリュウへ。
  突然ですが告白します。
  狂おしいほど、あなたに夢中です。
  よく似た後ろ姿をみるたびに、あなたじゃないかと思ってしまうのです。
  気づかない振りをするのはもう止めて。
  きっと、アイム・ジャスト・フォーリン・ラブ
  それでは失礼します。
  ゴンザレスより。

「なんですか、これは……」
  すっかりテンションの下がったエンジュがうめくように聞いた。
「アキエが同じ本を使って俺に気持ち悪い手紙を書いたことがある。てきとうに開いたページにある言葉を繋いだんだろ。すんげー寒い恋愛小説があるんだよ」
「よく似た後ろ姿って、この方とお会いしたことはあるんですか?」
「ない。同じ本を使って返事を書こうと思ったけどそれじゃあつまんねーからちょっと俺流の改造を加えた」
  そう言ってもう一枚の便箋を渡してくるのでエンジュはそれも読んだ。

 愛しのゴンザレスへ。
  突然ですが告白します。
  お前の全てをさらけ出させてみたい。
  心臓・肺・五臓六腑の全てから愛を感じ取りたいんだ。
  他に何も、そう、何も要らない。
  冷たくなったおまえを見つめるだけで、ドキドキがとまらない。
  おまえに夢中さ。
  それでは失礼します。
  クリュウより。

「クリュウの品位を下げるのもたいがいにしてくださいよ!」
「これに放送禁止用語を織り交ぜるとアキエの完成だ。アカツキに送られてくるアキエの手紙読んだことある?」
「人の手紙を検閲するなんて悪趣味な……」
「それでまぁ……この手紙の主を一度見てみたいってのがジオに行く目的ってわけ」
  確かにこんな手紙を顔も見たこともない、遠くの人に書ける人というのは遠くからならば観察してみたいような気がする。
「この字の感じからすると女の方みたいですね」
「ゴンザレスって名前の女ってだけで会いに行く価値あると思わね?」
  この根性の腐った野次馬男がジオに行くことになった理由がこれである。

砂漠というものを見るのは初めてだった。
オレンジ色の砂というのは、ポスカトの赤土ともゼブラ平原の白砂ともまったく違う美しさがある。
  道行く人たちは褐色の肌をもち、格好は更紗を巻いてサンダルである。
  さすがにポスカトでの格好のままだと暑いので、ビョーク自身も薄手のシャツとジーンズだけという格好だ。
  なんだかこの格好をする時はいつでも人を殺しに行く時だったので、ビョークとしてはこれから会う人間を殺さなきゃいけないような気持ちにもなる。
  住所を見た時からわかっていたが、このゴンザレスという人物は軍部の人間である。
そういえばまだジオの軍人はからかったことがなかったと思いながら、ビョークは受け付けの人に声をかけた。
「……はい、なんでしょう?」
  大抵の受け付けというのは見目の美しい女性が座っていたりするものだが、男女平等が過度に謳われるこのジオでは、無愛想な男が受け付けをやっていたりする。差別意識のあるものすべてを排除するとなんとも味気ないものだけが残るものだ。
「ゴンザレスって人探しに来たんだけど……」
「准将ならば今は会議中です」
  准将だったのか。
  中尉くらいの人間じゃないかと思っていたのにとんだ大物にぶちあたったものである。待合室で出された安っぽい豆の珈琲を口に運びながら待つこと二時間……これだけの忍耐力を発揮したことがかつてあっただろうかと自分でも考えた。
  そんなこんなで出会えることができたゴンザレス准将は、想像では男顔負けの無骨な女だったのだが……それどころか性別も違って、自分より先にキレて暴れだしそうな眼をした男だった。ヒビキくらいの年齢だろうか、背が高いなと思った。
  全面禁煙の軍部の中で煙草を咥えつつビョークを見下ろす。
「失礼ですがお名前は?」
「クリュウ=ポスカト。忘れているかもしんねーけどいつも変な文通している奴がいるっしょ?」
「文通? 失礼ですがその手紙持っていますか?」
  もしかして同じ名前の違う人間がいるのだろうか。しかし住所はここであっているし、ゴンザレスなんて名前滅多にないはず。
  ビョークは手紙を渡した。
  中身も読まずにその封筒の文字を見ただけでゴンザレス准将は脱力したような表情になり、踵をかえした。
「しばらくお待ちください。フレッドを連れてきます」
  どうやらあの手紙を書いたのはフレッドという男らしい。
  字がきれいだから女だとばかり思っていたが、ここにも暇にかまけて馬鹿みたいなことをするのが好きな男がひとりいたということか。
「あーあ。せっかく暇つくって来たってのに馬鹿女じゃなくて馬鹿男かよ」
  心底つまらなさそうにビョークは呟いた。
  このまま帰ってしまおうかとも思ったが、しばらくしてやってきたのは十八……アカツキと同じくらいの歳の頃の女だった。ぴっちり着た軍服がどうも幼すぎて似合っていない。
「どうも、偽ゴンザレスことフレデリカです。いつもお話しているポスカトさん?」
「そうそう。やーやっぱあの字は女の字だよなぁ、あのおっさんの字じゃねーよ。こんな女の子だったのか〜。おじさん気づかなかったよ」
  仕事用の愛想笑いを浮かべてみせる。フレデリカは人懐こい笑みを浮かべて、廊下を指さした。
「少し歩きませんか? 美味しい珈琲屋があるんです。ああ、私みたいな小娘と歩きたくなかったらもうちょっと大人っぽくしてきますけどどうしますか?」
「んじゃー熟れ熟れの二十五歳くらいのお姉さんで来てちょうだい。入り口で待っているから」
「わかりました。ちょっとお待ちくださいね。ビョークさん」
  何がわかりましたなのかビョークにはわからなかった。それより何か違和感があった。
  それに少しあとに気づく。たしか自分はクリュウと名乗ったはずで、ビョークとは一言も言っていないということだ。
  入り口で待つこと数分、あっというまにフレデリカはあらわれた。
「お待たせ」
  ベージュ色の髪を少し巻いた、キャミソールとミニスカートといったいでたちの、たしかに二十五歳くらいの女だった。
  先程の十八歳のときの外見とまったく違う。声まで違う。
「フレデリカ……なんか歳食ってねぇ?」
「少しだけ。ちょっと色々いじってみたの。魔法でね」
  魔法。ジオの人間は魔法が使えると特殊メイクのようなこともできるのだろうか。
「さて、普通に珈琲店に行く? もしよかったら私が自宅でジオ流の辛い料理と甘いコンデンスミルクたっぷりの珈琲を用意してあげるけど?」
  珈琲店の珈琲は別の機会でも飲める。ここは誘いをうけて行くこととなった。

緑色のココナッツカレーのあとに出されたのは甘ったるい珈琲だった。
  これはどっかりと腹にきたが、先程の脳天を突き抜けるような辛さを適度になじませてくれた。
  部屋は風通しのいい高床式で、モスキートカーテンのついたパイプベッドと同色のテーブルが置いてあるだけの簡素な部屋だ。アキエの暮らしていたアパートを彷彿とさせられる。
「さっきさぁ……俺のことビョークって呼んだよな?」
「呼んだわよ。教えてほしい? どうしてあなたの名前私が知っているか」
  珈琲に薄紅色の口をつけつつ、くっきりとした目でビョークを見ながらフレデリカは聞いてきた。ビョークは頷く。
「私職業、スパイなの。だからあんたのことついでに調べたのよ」
「ストーカーかよ」
「うん、そんなところ。でも私ばっかり知ってたらあなたにフェアーじゃないから、あなたが私に質問してきたことについては何でも正直に答えてあげる」
  こう言われると彼女の素性とかそんなことよりも嫌がらせのような質問をしたくなるのがビョークである。
「今まで男と寝た数」
「仕事だったら忘れるほどたくさん。あんたはたった一回だよね」
  すごく屈辱的な反撃が返ってきた。しかし念のため訂正しておいた。
「男と寝た数は0だ」
「そうそう、女と寝た数が一回っきりなんだよね。十八歳のときでさー人妻とだよね」
「どこから仕入れた情報だよ!? カーテン閉めて鍵かけてどこからも洩れないのチェックしたってのに!」
「なんでも知ってるよ、あんたのことなら。どこから洩れたのかでなくてどこまで見られたかを気にしたら?」
  ストーカーの恐ろしさをひしひしと感じながらビョークは質問を続けた。
「あんたの仕事についてちょっと教えてよ」
「そうねぇ、簡単に言えば軍部の中に入って内部調査をする。不正を暴きだすのが仕事かな……」
「じゃあ、なんでさっき歳食ったか教えて。特殊メイクみたいなもん?」
「違うのよこれが。私、魔族なの。人間と魔族の違いってのは特殊な力をもっているかどうかってくらいで、私の持っている力は時空間を操る力。これスパイやる上ではすごく便利なんだー。だってどこでも入っていけるし、どこからでも出て行けるし、年齢いつわれるし、姿かえられるんだよ?」
「どこにでも行ってどこからでも帰ってくるっていったよな? それ何時頃からやっているわけ?」
「十年くらい? 私これでも二十七歳なのよ」
「じゃあ……アキエって男知ってないか? もしくはソレイユって名乗っているかも」
「今は軍部にいないよ。逃げ出した。軍部はチップに指令を送って、あとは……」
  死んだのか……そのままいれば問題なく一生をすごすことができたかもしれないのに、一瞬の自由を求めて飛び出すあたりはあの男らしい。
「あとは……」
  意識して聞こうと思うとそんなに質問はでてこないものだなとビョークは思った。
  甘ったるい珈琲の最後を啜った時にふと珈琲は官能の象徴だったことを思い出す。
  ビョークはふとジオの言語などを思い出しながら聞いてみた。
「俺はジオのスラングのほうにはあまり詳しくねーんだけど……」
  あちこち旅してまわっていたアキエの言っていた言葉をたしかめるように続けた。
「たしかこっちで『珈琲でも』って男をベッドへ誘う言葉でなかったっけ?」
  まさかな、と思いながらも嫌がらせの意図もこめて聞いてみたところ、向こうからも質問が返ってきた。
「ビョーク、あなた初対面で性的アピールしてくる女ってどうする?」
「ありがたく頂戴して終わり。だって女も割り切ってるんでしょ?」
「OK、お互い割り切って付き合える相手がよかったの。あなただったらポスカトに帰ったあとに会うこともないでしょうしね」
  外を眺めると少し翳ってきた頃だ。まだ夜には少し時間があるが、こういう機会でもない限り、わざわざ女を買ってまで抱こうとは思わなかった。
  エンジュがあまりの性生活のなさを心配してハクつけようと連れ出したことがあったが、あの時もてきとうにあしらった。
  考えてみればモテない人生と言いつつも、顔だけ見て言い寄ってこられることは何度かあったが、いっしょに珈琲を飲んで、席を立つころには嫌われていた。
  なぜだろう、肌寂しいのだろうか……
  それとも珈琲に変なものでも混ぜられていたりしたのだったらこの女は何を企んでいるのだろうと思いつつ、自分で言った手前ここで何か言うと絶対に次に返ってくる言葉は「不能」だと思ったのでビョークはフレデリカを片腕で抱き上げた。
  蚊帳をくぐってベッドに寝かせると女の目を見た婀娜っぽくも不安げでもない虚空の色である。
  服の上から体をまさぐってみてもかたくて、痩せている。まるで人形でも抱いているかのような気分だ。
「ガリガリ。飯食ってる?」
  覆い被さるようにしてフレデリカの鎖骨のあたりから口付けをしていった。荒れた肌だ。自分の肌のほうがまだやわらかいのではないかと思うほどだ。
  今までも不誠実な男どもに抱かれてきたであろう体のふくらみの上下が、自分の指先の動きに合わせて乱れていく。
  ほのかに甘く香る女の肌のにおいが嗅覚を刺激する。やわらかな髪に頭を埋めて耳朶を擽るとフレデリカは笑った。唇を重ねるとそこだけはふつうにやわらかく、ほんのりと煙草の香りがした。

夕暮れにかけて砂漠は冷え込む。
  ぽたりぽたりとシャワーを浴びたばかりの濡れそぼった髪から滴がしたたりおちる。春先の空気の中で肌はすでに冷たい。
  ビョークは裸身にジーンズだけ身につけて勝手に珈琲をつくって飲んでいた。
  後ろからあたたかな唇が首筋にくっつく。囁くようにフレデリカが言った。
「あんたの後姿って色っぽいね。背中のラインとか腰の細さとか、肉づきも理想的」
「昔同じことを言った奴がいる。そいつは俺に『うしろから背中の骨にむしゃぶりつきたい』と言いやがった」
「言われてどう思った?」
「怖かった。本当にむしゃぶりつきかねん相手だったから」
  紬の浴衣と更紗の帯をつけたフレデリカは、長い髪の毛をピンでアップしてうなじをみせていた。きっちりと着ればまだ娘らしいと言えるかもしれない若い体は、着くずしたえりあしでずいぶんとあばずれて見えた。
  煙草を取り出して吸いはじめたフレデリカの細い指からくゆる煙などを眺めつつ、ビョークは言った。
「……そういやお前と同じ煙草吸っている奴とキスしたこともある」
「男だろう、それ」
  それも調べられたことなのだろうか。なんとなく調べたわけではなく、勘で言っているような気がした。
  フレデリカは続ける。煙草を吸っている時間よりくゆらせている時間のほうが長いのもアキエによく似ていた。
「ビョークは男が好きなわけじゃあないからそいつの行為には抵抗があったけどまんざらでもなかったんだ。好きとか嫌いとかでなくあんたは寂しいから肌を重ねたいと思うタイプだよ。だけど寂しがりやだけど、それ以上に強がりだから自分から相手を求めることができない。よくもまあ十年以上もストイックな生活ができたものね」
「あんたじゃ堪えられないってか?」
「別に堪えられないわけじゃあない、我慢しないだけ。あんたは女を嫌っているけどそれは自分の女っぽい部分を否定したいわけよね」
「女っぽいところ?」
  指が女のようだと言われたことはある。細くて長くて爪の形が楕円だからだ。
  肌がきめ細かいと言われたこともある。しっとりとして吸いつきそうな肌だとか。
  一般的な男……エンジュなんかから比べても無駄毛は少ないし、髪はやわらかい。
  そんなことを思い出しながらフレデリカに促したところ、すぱーっと煙を吐き出しながら彼女は言い切った。
「男がいないとだめなところ」
「ぶっ……」
  口に運ぼうとした珈琲を噴きかけた。
  噎せかえるビョークを細い節くれた指で差しながらフレデリカは笑う。
「俺にそのケはねぇよ」
「知っている。あんたは男に生まれちゃった女だよ。もし自分が女だったら惚れた相手とかけっこういるんじゃあない?」
「俺が男に生まれた女だとしたらお前は女に生まれたホモだな」
「光栄だわ。世間に白い目で見られず男といちゃつけるんですもの」
  反論した言葉はことごとくかわされていく。もう何も反論する気がなくなってベッドにごろんと転がったビョークの髪をフレデリカが梳いた。
「人を好きになるのが怖いんでしょ」
昔同じ質問をアキエにされたことを思い出した。何から何までこの女はあの男を思い出させる。低い声で返した。
「……怖いね」
「じゃあ震えておやすみよ。私の腕ん中でさ……」
  浴衣の裾から抉れたような細い手首がのびている。その腕に包まれながら不思議と不安な気持ちになった。あまりにもその腕が軽かったからだ。
  冴えわたる月のさやけさと空の藍の青々しさ、隣に眠る女の長い睫から落ちる影など……春の月下は脆くも美しかった。

朝起きるとフレデリカの姿は隣になかった。
洗濯籠の中に無造作に突っ込まれた浴衣とまだ乾いてない、洗ったばかりのコーヒーカップで出かけて間もないことはわかった。
  シャツを羽織って部屋の中を歩き回った。
  なぜかどこに何があるか自然と手にとるようにわかった。アルカロイドにあったあの古いアパートと置き場が似ているからだ。
  青唐辛子を赤味噌と胡麻で炒めたものが冷蔵庫の中にあったのでそれを口に運んだ。ほんのりした苦味と辛さが口に広がる。
  珈琲を飲みながらナンと呼ばれる簡単なパンをちぎって食べた。昨日のカレーの残りがあるならばそれにつけて食べたかったが、どこにもカレーはなかった。
  ガチャリと玄関の扉が開いた。
「ああ、起きたんだ。起きる前に色々作ろうと思ったのに」
  買い物かごをステンレスの台に逆さにすると、中から出てきた不思議な果実を乱雑に刻みはじめる。
「……洗えよ」
  あまりの雑さにビョークが思わず手をだした。自分が見ていないところで調理されたら知らずに食べていただろう。
「でもこれ、水にさらすんだけど?」
「洗ってから切って、またつけろ。手間をはぶくな、俺がやる」
  といっても自分も料理が得意なわけではない。
  十歳から十四歳の間は自炊していたが、食べられればよかった。
  そのあとはアキエが料理を作っていたし、父親が死んでからは金の入りがよくなったのでもっぱら外食である。
  いつの間にか舌が贅沢になったのだなと、自分の作った青パパイヤのサラダを食べながら思った。
  近場の店で買ってきたというミントゼリーのほうは市販なだけあって普通に美味しかった。
  なめらかなジュレを舌で味わいながらビョークは聞いた。
「あんたさぁ……」
「フレデリカ」
「フレデリカさぁ、いつもこんな食事摂っているともっと痩せるぞ。肉食えよ。膏ののったステーキとか……」
「あなたそもそも肉は血の味がするとか臭いとかで食べられないでしょう? ジオはセレン平原からのヤギ肉しかないから、仔山羊の肉は美味しくてもふつうの肉はかたくてくさいわよ。あんたみたいな御曹司が食べられるもんじゃあないの」
  つまり自分のためにわざわざ食事を選んでくれたということだろうか。フレデリカは続けた。
「魚ならば白身で美味しいのがあるから買ってきてあげる」

 夕方まで仕事に出かけるフレデリカを待つのも飽きて、ビョークは散歩にでかけた。
  とりあえずジオの喫茶店でジオ流の珈琲を飲んで、豆を買ったあとは街の中を歩いた。
  昨晩からの不安な気持ちはまだ続いていた。何とか落ち着きたいと思っても、二十代の頃のような荒々しい波が体の中を駆け巡っている。
――人を好きになるのが怖いんでしょ。
  いつからだろう。自分は人を好きになるのが怖くて仕方なくなった。
  理由をあげようと思えばこれが理由で人に不信感がある……などと並べることはできるのだろう。だけどそんな表面的な理由ではないと思う。
  自分は怯えていた。人を好きになると、苦しさで身を切られるより痛い思いをすることに。
  母の愛が得られなかった痛み、アキエを失った痛み、兄の愛に応えられなかった痛み。
  これからも襲ってくるであろう、人を愛するという痛みと苦しみを想像すると、好きになるということに臆病にならざるえなかった。
  自分は愛される資格はない、愛はいらないと思っていればどんなに心が安定するかも知っていた。最初から得られないものに対して、諦めているものに対しては愛を請うことがないからだ。
  体の中を熱が駆け巡る。左手が疼いた。お前を苦しめるものすべてを消してしまえと、憎しみが語りかけてきた。
「しかたねぇなぁ……」
  久々に誰か殺すか。そんな不純な動機から殺されたらたまらないと被害者は思うだろうが、こうなってしまった自分は誰かを殺すまで落ち着かないのだ。
  裏路地の中に入ってしばらく宛てもなくふらふらと歩く。さて……誰がひっかかってくるだろうか。
  こうしている時いつも思うことは、どうして自分が逆に殺されることを考えないかだ。
  アキエに仕込まれた体術や道具の使い方は今はもう完璧である。しかし自分よりも強い人間が現れたらビョークだって死ぬだろう。
  しかし不思議と自分は死なないという確信があった。
  昼間だって暗い道はある。親が子供を連れて遊んでいる公園の茂みだって、やろうと思えば誰かを引きずり込んで殺すことはできるのだ。ただしどうしてそうしないかと言えば、目撃される可能性が昼のほうが夜より高いからである。
  太陽はまだ燦々と照っていた。
  人通りの少ない橋を歩きかけたところで、後ろから声をかけてくる奴がいた。
「お兄さんお兄さん、こんなところを一人で歩いてちゃあ危ないよ?」
  来た。ついにチンピラ発見である。
  嬉々として振り返ったところ、男はなぜか鈍い色を放つ鈍器を持っていた。
  こちらが振り返ってくると同時にその大きなパイプを振りかぶると脳天目掛けて下ろしてくる。
  ビョークは少しだけ体を捻って避け、そのパイプをすべるようにして手を這わせるとそのまま相手の柄尻を握った部分を叩いた。思わず手が離れたところを、パイプを右腕で横に押しやるようにすると左掌で相手の肺を突く。
  ごぽっ、と不思議な音をもらして空気を吸えなくなった男へと取り上げたパイプを容赦なく振り下ろした。
  脳漿がとびちって、ぐったりとなる男。びくっびくっと痙攣してはいるが、きっともう意識はないし、助かりもしないだろうと思った。
  ビョークはいつでも一撃で仕留める。拷問めいたことは苦手なのだ。手段はいつでもスマートに、それがポリシーである。
  ハンカチで自分の指紋をふき取るとそのまま凶器は橋の下に投げ捨てた。
「殺人鬼を殺しても正当防衛は成り立つよな?」
  そうだとしたら自分もいつかは誰かに殺されるのかもしれないと思いながらも、心の中にあるもやもやした気持ちが少しだけすっきりした。
  殺人は究極の相手の否定であり、究極の自己肯定でもある。
  何事もなかったかのように帰宅してフレデリカの本棚からてきとうに本を抜いた。
  例の寒い恋愛小説を読んでみようと思いぺらりぺらりとめくってみる。世にも恐ろしい言葉の数々がそこには書かれていた。
  こんな台詞を言う男が実際に存在するのだとしたら、もうひたすら逃げるしかないと思った。
  と、奥のほうになんだかシガレットケースが押し込んであった。
  一人で暮らしていて禁煙をしている様子でもなかったのに、どうしてこんなところに煙草を隠しているのだろうと思いながらもその時は気にしなかった。

「ねぇこの国のフェミニスト主義ってどう思う?」
  魚料理を食べながらフレデリカが聞いてきた。
  自分のことを調べられているならば、答えなんてきっと知っていて聞いてきているのだろう。
「うんざり。なんか男が働いて偉いのじゃなんか駄目なわけ? どこの組合だって女よか男のほうを雇いたいにきまってるっしょ。だって月に三日は生理で能率のあがんないような生き物、もっと悪いやつだと結婚する相手探しに職場くるような独身女とかさー、もうどうしようもねぇよ」
「男女雇用均等法だかっての邪魔よね。あれがあるおかげで女を募集しているふりして女ってだけで不採用なんだから。最初から男だけって書けっての」
「だよなー、カエデみたいなできる女だったら雇うけどさ」
「カエデさんはすごいわよね。男顔負け。でもああいうのきっと損よ」
  カエデの名前を出しても誰だかわかっているようだ。フレデリカは続けた。
「なんだかんだ言いつつ、男って美人は頭が弱いって思っているんだもの。彼女がなんかバッシングを受けていたとするならばそれは美人なのに頭がいいからだわ。男の醜い嫉妬よ」
「……俺の組合じゃあいつはすげぇ人気あるぞ」
「他の組合からは嫌われているじゃない。あの髪の毛おろしたらいいのに。チークちょっといれてさ、可愛い服とか着て愛想笑いとかすりゃちょっとは他の組合の顧問弁護士も『なんだ可愛い女じゃねぇか、手加減してやろうか』とか思うわよ。いつも完璧に立ち振る舞うから相手もムキになって勝ってやるとか考えるんだと思うの」
  カエデは会った時からああいう女だったし、たしかにポスカトはジオほどフェミニストが浸透していない。女は結婚して家に入るものだと思われているし、そう考えればカエデへの世間からの目は冷たいのかもしれない。あの組織の中ではいつも対等に渡り歩いているからまったく考えてはいなかったが、少し無理をして強がっているのだろうか。
「別に女に生まれたんだもの、男と男の土壌で戦うなんて男社会の延長線上じゃない。馬鹿馬鹿しい。この街では『娼婦は女性を男の性の道具だと思っている』なんて言って法律で禁止されているけどさー、はっきり言って女性の内部に帰依することでしか男であることを感じられない奴らの下半身を支配して金を搾りとるところのどこが女性蔑視なのか私まったくわからない。花町の男どもの馬鹿面とか見たらぜったいに男のほうが立場上だなんて言わせないわよ?」
  まったく今までのビョークの考えを覆す男性下半身馬鹿論についてフレデリカが語るものだから呆気にとられた。
  働くという概念で、支えるという位置で男のほうが立場が上で当然であると考えていたビョークにとって、結局童貞の男というのは同性から失笑を買ったりする。
  つまり女を得てはじめて男としての価値が認められるのだとしたら、男はたしかに女よりもある意味で下なのである。
  仕事一筋の女が仕事に生きていくのは強いと言われるが、仕事一筋の男というのは相手がいないからだろうと言われておしまいである。たとえばそれは自分であったり。
  ビョークにとっては女より珈琲のほうが必要だが。
「でもさー、フェミニストも捨てたもんじゃねぇよ」
  いつもと逆のことを言っていることをビョークはわかっていた。
「結婚する数を一〇としてそれを離婚する数で割ったパーセンテージを出すとするっしょ? この数字が高い地域は女にとってはやっぱ危険。セーレなんてまだこの数が一〇とか九とかだと思うんだけどさ、それって本当に男の所有物であって自分の生殺与奪の権利まで男のほうにあって女にないみたいなのがいまだに成立するわけよ。それ考えれば今のこの極端に男と女が肩並べようとがんばっている姿のほうがまだ健康的だね」
  そこまで言ってなぜ男が女を殺してはいけないのだろうとビョークは考えた。こんな疑問をもつ段階で自分には人を殺す権利があると考えているということはどこかの本で読んだことがあるわけだが。
「……ビョーク、」
  笑ってフレデリカが言った。魚はいつの間にか食べ終わっている。
「あなた今、私にどうにかして反論しようとしたでしょう? とりあえず私の中での男女が平等であるようになるように。あなたは本当は男のほうが偉いって思っていたはずよ。いい? これは私があなたの思考をイーブンまで引きおろしたの。私の作戦勝ち」
  これでフレデリカとビョークの立場は平等ということをビョーク自身の口から自発的に認めさせたのである。
  馬鹿女を見にジオまでやってきて、小賢しい女に何度も論破されつつそれでもこの女といるのはそんなに嫌な感じはしなかった。
  頭の悪い感情的な女は苦手だ。これで美人だったりするとさらに妙な自信をもって馬鹿をさらけ出して「私ってかわいい女でしょ?」みたいなオーラを撒き散らすものだからうんざりする。
  でも対等になろうとするあまりに賢さをアピールしてくる女とはすぐに口喧嘩になってしまうものだ。
  結局のところ、これは女には自分より頭が悪くあってほしいという自分の自尊心と賢い女への嫉妬でしかないのかもしれない。
「なんだってあんた俺と平等になりてぇのよ? 明日にはポスカトに帰るっての」
「さあ。あんたのことが好きだからかも」
「女に好きだと言われたのははじめてかも……」
「男になら言われたことあるの?」
「……人間そのものに好意をもたれたことがねぇ。俺ひとでなしだし。『好きになる』って何? 思い出せねぇよ」
「思い出すも何もこれから色んな人と出会って好きになる人だっているでしょうよ。まだあんた三十歳なのよ? あと半年くらいで三十一だけど」
  二十七歳の女に諭され、この前はアカツキに子供の育て方を教えられ、なんとも情けない三十路だと自分でも思った。
  自分は何も知らない。愛も知らなければ感情も知らない。自分も知らないのだ。
「自分が好きになった相手は自分を好きになる思うのは傲慢な発想だって言った奴がいたがな……じゃあなんでみんな好きになった相手に好きだって言うんだって思ったことがあんだよな」
「好きになってもらいたいからでしょう。でも私のことは好きにならなくていいわよ?」
  フレデリカは笑って言った。
「魔族を好きになって幸せになれる奴なんていないもの」

 次の日はジオを発つのでフレデリカは飛行竜のところまでお見送りをしてくれると言った。
  先にシャワーを浴びさせてもらって戻ってくると、本棚の本の位置が少しだけかわっているのがわかった。
  何か先程から気になるのだ。
  本棚の奥にあったあのシガレットケース……あれはいったいなんだったのだろう。そんな興味本位から奥を探った。
  カチ、と手に当たる硬質な感触からアルミでできた箱をとりだす。蓋をあけるとそこにあったのは煙草ではなかった。
  錠剤だ。そしてその形状はなんとなく見覚えがあった。薬なんてどれも同じものかもしれないと思いつつためしにそれをひとつ、舌の上にのせてみる。
  このなんともいえぬ水の中を回遊するような陶酔感をビョークは知っている。これはアキエが薬漬けだった時に口にしていた麻薬だ。
  メレッサ山脈が近くにあるのだから、ポスカトの相場よりも安く手に入るのはわかる……しかしこんなものを普段から舐めているというのは感心しない。
  それにしても先程からシャワーの音が長い気がする。もうあがってきてもいい時間のはずなのに、ザーザーという音がずっと聞こえる。
  こういう時の嫌な予感はいつも当たってしまうのだ。
  シガレットケースを握り締めたままシャワールームへと向かうと浴室の中でぐったりとしているフレデリカがいた。苦しそうに胸を押さえている。
「どうした?」
  キュッとシャワーを止めて近づくと体がひどく冷たい。タオルで体を巻いてやるとフレデリカがか細い声で言った。
「本棚に薬があるんだ。それもってきてくれない?」
「麻薬でこんな体になったのか?」
  荒れた肌、痩せた体、そうなってしまったのはこの悪魔の薬のせいなのだろうか。フレデリカは首を横に振った。
「私病気なの。それは痛み止めとして友達がくれたんだ。最高級だからって」
  シガレットケースから薬を取り出してフレデリカの舌の上に乗っけてやると少しずつ苦痛に引き攣った表情は落ち着いてきた。
  おだやかな顔になったところでビョークは聞いた。
「長くねぇんだな?」
「……先天性のものなの。親兄弟は同じ病気で苦しんでいた。苦しんでいたから時間を早めて死なせてあげたの。私が殺したのよ。その親兄弟の寿命の分だけ私も生きたけど、もうそろそろ限界みたい」
「時間が操れるんだろ? あとどれだけ生きられるんだよ」
「もってあと一ヶ月くらいかな? 私たち魔族はね、時間と空間を行き来できるからパラドックスが生じるの。私が死んだ時にはそれを無理矢理修正しようと物理法則が働くから、私はきっと骨も残らず消えちゃうわね」
  フレデリカは蝶の震える羽のように幽かに笑って言った。
「生きているうちに私の喉の骨奪ってよ。それでピアス作って耳につけといて。そうすれば私、少しだけ存在していた証残るよね?」
  抱きしめたらそのまま折れてしまいそうな細い体を、思わずぐっと抱き寄せた。
「ビョーク、私を好きになったら不幸になるよ」
  そんなか細い囁くような声が、耳でなく脳に響く。
  彼女に惹かれるのは彼女が賢いからではない、彼女がアキエを思い出させるからでもない、美しく儚い存在だからでもない。
  人を好きになるのが彼女も怖いのだ。人から好かれるのも怖いのだ。
  ともすれば崩れてしまいそうな、一本の琴線のような、空気の震動ですら震えてしまうような、脆い自我とひとかけらの自尊心だけが自分たちを支えている。
  彼女はいつでも自分の隠しておきたい感情を突きつけてくる。
  これ以上弱い自分になんて気づきたくないのに、それでも彼女を壊してすべてを否定することができない。
  そんな簡単なものじゃあないのだ、この感情はどこからが自分のものでどこからが相手のものかわからないくらい密接に絡み合ったものだ。
  自分が傷つくとわかっていてもそれでも引き剥がすべきなのかもしれない。
  それでも肌と肌が引き攣れて癒着したかのように、それは異なった血の生き物を無理矢理に血管を繋いで血を通わせたかのような妙な違和感と、意識せずにはいられない何かがあるのだ。
  人を好きになるってなんだろう。どうしてこんなに苦しいのに人は人を好きになるのだろうか。