第一章 「露舐(つゆねぶ)り」

 

 僕は妹分の英里香が死んだ日、孤児院「天使園」を飛び出した。
「雲雀(ひばり)さん、雲雀さん、待ってー!」
  この後ろから泣き叫んでいるのは別に恋人でもなければ保護者でもない。天使園園長の息子、黒井公章(くろいきみあき)だ。
「いかないで、いかないでー」
  まるで別れ際の女みたいに叫ぶ公章を振り切って僕は雨の中を走った。
  もうたくさんだ、もうたくさんだ! 心の中でそう叫びながら。
  ナップザックに入っているのはなけなしの三千円と着替えだけ。これでどこまで逃げおおせられるのかは疑問だったが、逃げられないわけではないだろう。
  僕は切符を買って、隣の市まで移動した。 通常ならばなるべく遠くまで逃げるのだろうけれど、全部を交通費に使うわけにもいかないし、近場は案外探されにくいと(僕が勝手に)判断したからだ。
  電車を降りるとすぐに市街地と反対のほうへと歩いた。閑静な住宅街を歩きながら、今日眠れるところを探す。
  なぜ今日は雨なのだろう。晴れているなら公園で寝たのに。
  ふと住宅街のど真ん中に、大きな藪があった。掻き分けて中に入ってみると、古い日本家屋がある。
「廃屋?」
  鍵がかかっていたけど、僕は鍵を壊すのなんてお手のものだ。あっさり壊して中に入り、電気のスイッチを押した。信じられないことに電気が通っていたらしく、明かりはついた。
  僕は中を物色しはじめた。引っ越すときに物を置いていったのか、ひととおりの物はそろっている。テレビのような家電製品まであった。しかし食べ物はないし、埃の量が尋常ではなかったため、そこが長く使われていないのは明らかだった。
  僕はその家にあったタオルで体を拭いて、その家にあった布団を敷いて寝た。
  明日から仕事を探さなくては。そう思って。

 夜、僕は自分に忍び寄る何かの音で目が覚めた。
  反射的に飛び起き、そちらを向くと、僕が今まで寝ていたところを黒い鈍器が掠めていった。
「な、何」
「何はこっちの台詞だよ、泥棒」
  男の声だった。軽々と武器を振り回しながら彼は言う。
「この家に金目の物は何もねえよ。出て行け」
「ここ、あんたの家?」
「ああそうだよ。他に何だっていうんだ?」
  ぶん、と目の前を鈍器が通り過ぎていく。僕くらいの反射神経なかったらお陀仏だったに違いない。
「わかった……出て行く。だけど」
「だけど?」
「雨が止んでからじゃ……駄目ですか?」
  僕の言葉に、家主は少し考えて電気をぱちりとつけた。
「うわっ、まぶし」
「まだガキじゃねぇか! 家出か?」
「……家出です」
  家主は三十代に入ったばかりくらいの、茶髪の男だった。ちゃらついた印象の派手な顔立ちで、フライパンを持っている。先ほどの鈍器はフライパンだったようだ。
「名前は?」
「黒井雲雀」
「俺な、天沢英一(あまさわえいいち)って言うんだ」
  フライパンを横に置きながら英一は言った。
「家出なんて理由があるんだろ?」
  どうやらワケを聞いてくれるようなので、僕はあるひとつの事実を隠して、それ以外を包み隠さず伝えた。
  自分が孤児院の出身で、身寄りがないこと。妹分の英里香が学校の帰り行方不明になったこと、翌日ランドセルが天使園の玄関で見つかったこと。そして今日、英里香の捜索を天使園が打ち切ったこと。
  英一は渋面を浮かべてそれを聞くと
「苦労したんだな」
  と言った。
「お前、いくつ?」
「十八」
「じゃあ働けるな。俺さ、普段は出張ばっかでここほぼ留守なんだわ。住所と寝る場所貸してやるから、ちょっとがんばってみるか?」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするんだよ? それにしても上手に鍵壊したな。他の部分全然破損してねぇの。お前実は悪いことやるの得意だったり?」
  僕はその質問には答えなかった。
  英一は「言い過ぎた」と謝った。
「別にいいよ。当たってるから」
  僕は悪いことをやるのが得意だ。それもすごく得意なんだ。
  モデルガンの改造なんてお手のものだし、盗み、ハッキング、偽札作り、人殺し、なんだって出来る。そう言ったら英一は信じるだろうか。まあ言うつもりはないが。
「俺も小さい頃は悪いことするのが格好いいと思っていた時代あるよ。まあ歳とればわかるだろうけどさ、普通に働いて普通に生活している正しい連中が一番格好いいんだぜ?」
  やめてほしかった。それはみんな、選択権のある人たちの話じゃあないか。
  僕は天使園で育ったんだ。そういう教育を受けたんだ。天使園に連れて来られた子供はみんな犯罪者になる教育を受ける。そうして犯罪組織へと売り渡されるのだ。売られない方法はただひとつ、「売る側」に回ることだ。
  天使園を支援している組織「エンジェル」
  表向きは慈善組織のそこは、天使園の優秀な子たちを集めたプロの人身売買組織だ。
  僕は中学校を卒業して、三年もそこで働いた。
「どうかしたのか?」
「なんでもない」
  僕はもう一枚の布団を敷きながら言った。
「天使園には帰らない」
「そうか。がんばれよ?」
  英一が笑った。彼と僕はうまくやっていける気がする。

 とはいえ、僕のような中卒で得体のしれない慈善組織という名目のところで働いていた履歴しかない奴にすぐに仕事など見つかるわけもなかった。
  最初は日雇いの仕事をして日々の生活や身なりを整えるための資金を調達することにした。
  引越し屋の仕事はけっこうな金になった。腰を痛めそうなくらい重いものを持たなければいけないときもあったけれども、それでも僕は非力なほうではなかったから問題はなかった。
  3Kの仕事も儲かった。だけど臭い汚い危険というのは精神的以前に衛生面に多大な影響を及ぼしたのでやむを得ず辞めた。
  髪の毛を切るお金が確保できるようになったら、頭をさっぱりとさせて汚い服を少しだけ小奇麗にした。ホームレスみたいな格好をしていたらもらえる仕事ももらえなくなることくらいわかっていた。
  そこからが僕の社会との戦いの始まりだった。

「中卒なの? 君」
  清掃業の仕事をさせてもらおうと思って面接に行ったのがその始まりだ。
「高校にはどうして行かなかったの? 親の経済事情?」
  面接官がそう質問してきた。
「親はいないんです。僕は孤児院の出身だから、高校に行くのはよほど優秀でもない限り無理だったんです」
「孤児院……」
  面接官は小さく呟くと、すぐに僕に履歴書を返した。
「もう帰っていいよ」
「え?」
「あとで採用か不採用か電話するね」
  そう言って面接官は仕事場へ戻ってしまった。
  不採用ってことか。僕の何が掃除に向かないと思われたのか知らないけれども、孤児院では掃除も教えないと思ったのだろうか。
  僕はこれでも大晦日は掃除の鬼と言われた男だというのに。
  僕はめげずに次の場所、次の場所、と可能性のある職に面接を受けにいった。
  どこに行ってもだいたい中卒の理由を聞かれる。そして孤児院だからと言うと、それで落とされる。
  最初は孤児院の子供をどうして雇いたがらないのかよくはわからなかった。
  そして失礼な面接官に
「ちゃんと仕事できるの? どうせ万引き目的でしょう」
  と言われたとき、孤児院の出身というだけで素行が悪いという印象が社会にあるということを知った。
  親が勝手に僕を産んだ。そして身勝手に僕を孤児院の前に捨てていった。
  僕は生きるという選択肢しかなかった。死ぬという選択肢も、豊かに生きるという選択肢もなかった。ただ生きているだけ、最低限の生活を保障してもらうという選択肢しかなかった。
  僕の境遇を振り返った。
  今まで自分が特別不幸だと思ったことなどなかった。だって世の中には親がいても不幸せな子供もいることを知っていたから。
  だけど親がいないというだけで、その子供が生きていく資格すら否定される社会というものにひどく絶望した。
  親の金でのうのうと苦労せずに大学まで進学して、僕のことをDQNと馬鹿にする奴らに言い返す言葉が何も見つからなかった。
  だって僕は、孤児院の実情を知っているんだ。あんな環境にいて、まともな大人に育てる奴は少ししかいない。口にするのも嫌な、思い出すのも嫌な、そんな環境なのだ。
  僕自身、素行がいいとは言えない。何も知らずに
「人は善意で接すれば善意で返してくれる」
  という環境で育った人とは違う。
  ロッカーに鍵をつけておくことの無意味さを知っている。大切なものは身につけておかなければいけない。
  汚いおさがりの服を着て小学校に登校するといじめられることを知っている。靴を隠されても新しい靴を買ってもらえるわけではない。はだしで行きたくないから上履きで登校するようになるんだ。
  中学生になると孤児院の仲間が煙草を手に入れてきた。
「塾帰りのクラスメイトを脅したら五百円くれたから、煙草を買ってきたよ」
  と幸次郎は言った。お小遣いすら貰えない環境の中で、人を脅して手に入れたなけなしの五百円で煙草を買って、みんなで煙草を口に咥えた。
  僕らは煙草のヤニの味は覚えているのに、お母さんのおっぱいの味を知らない。寂しさと憧れから煙草を口にする。
「不味いね」
  って笑いながら、どんどんハマっていく奴がいた。そんなところだった。
  僕は、どうして生まれたんだろう。
「お前の居場所などどこにもない」
  ということを体験するために生まれてきたのだとしたら、神様はひどい。
  気づいたら、僕はとぼとぼと歩いたまま、英一の家からかなり離れた街のはずれの川まで来ていた。
  暑い日だった。頭がくらくらするのは今僕が困惑しているからだけではないはずだ。
  橋の上から川を見下ろした。
  昔小さな頃、近所の川に飛び降りれば死ねると思っていた。今の僕はそんなんで簡単に人間が死ぬわけがないことを知っているけれども。
  あのとき、どうして僕は死ぬのをやめたのか。それは通りがけのおばちゃんが、僕を見つけたからだ。
「坊や、顔色が悪いわね。おばちゃんお茶しか持ってないけれどもあげるわ」
  そう言っておばちゃんはペットボトルのお茶をくれた。生まれて初めてペットボトルのお茶を飲んだ。
  お茶を飲みながら泣いたのを覚えている。人のやさしさに泣いたわけではない。生きていれば親切にしてくれる人はいるんだ。だけど本来は一番愛情をくれるはずの両親は、僕に「雲雀」という名前を与えただけでお茶の一杯さえ与えずに僕を捨てたんだ。
  贅沢って言われるのかもしれない。ないものねだりをしても仕方がないって言われたこともある。だけど僕はやっぱり血の通った誰かの愛が欲しかった。
  川に映った自分の顔を見たまま昔の自分を回想し、ふと周りを見渡した。親切なおばちゃんは今回は登場しない。そのかわり僕は自分で稼いだ百五十円を持っていたので、それでペットボトルを買った。
  お茶が細胞に染み渡るのを実感した。
  いくら人間が死にたいって思ったってね、人間の体は生きたいんだよ。僕が喉が渇くのがその証だ。愛を欲するのがその証だ。人間の体は、必要なものが何なのか本能的に知っているんだ。
  僕は自宅に帰って、どうやって新しい仕事を得るか考えた。
  とりあえず、正直に
「僕は孤児院の出身です」
  と言うのをやめよう。高校に行ったことはないけれども、遠くの――たとえば北海道の高校の名前とか書いておけば、きっと高卒かどうかチェックしに行く奴なんていないんじゃあないかな。
  よし、親は北海道にいることにしよう。僕は高校を卒業してから上京してきて、親戚の天沢さんのお宅でお世話になっている……この設定なら矛盾はないだろう。
  もともと僕は偽造書類は得意分野なんだ。
  すぐにインターネットで情報を手に入れて、偽の履歴書を作成した。
  ついでに履歴書をもう一枚出して、遊びの履歴書も作ってみた。
  本当に馬鹿馬鹿しい履歴書だった。僕は私立で小学校から高校まで生活して、大学で自由に勉強している学生という設定だったんだ。趣味は旅行をして新しい土地のことを知ること。アルバイトの目的は年老いた両親のために何か今までのお礼を買ってあげたいから。
  そこまで書いて、僕は自分が泣いていることに気づいた。罪のない空想でしかない。誰も僕のことを責める人なんているわけがないのに、なんだかとてもみじめになってきたんだ。
「畜生!」
  僕はテーブルを拳で叩き、大声で泣いた。
  どうして泣いたのかなんてわかんないよ、ひとつひとつの理由なんて分かるわけないじゃあないか。僕の心は飽和していた。