第五章 「冬の海」

 

 本屋で犯罪心理学書を探して買った。本格的なプロファイリングが知りたかったのだ。 しかし最初に知ったのは、FBIのプロファイリングは犯行現場に犯人の性的ファンタジーが再現されている場合のみしか有効ではないということだった。

 事件当時を思い出す。
  あの日、僕は定時を少し過ぎたくらいにエンジェルのビルを出て、天使園に戻った。
  そしたら公章が「英里香がいない」と僕に報告した。出かけるときは一緒だったのに、比呂人だけがひとりで帰ってきたそうだ。
  天使園はその晩、英里香がどこにいるか必死で探した。僕や公章は英里香のことを本気で心配していたけれども、大人のメンバーたちは秘密の漏洩を怖れていたようだった。
  捜索を警察に委ねるわけにもいかず、深夜に及ぶまでみんなで探したけれども見つからなかった。
  比呂人に英里香とどこで別れたのか聞いたら、学校で先に帰るように言われたと、それだけ。
  そうして翌日になり、玄関の前でランドセルだけが発見されたのだ。
  当然園内は大騒ぎ。僕は正直、これは何かの事件に巻き込まれたと思った。
  隣にいた久弥が珍しく深刻そうな顔をしていたのを覚えている。
「そういえば久弥は昨日いなかったから、英里香が帰ってこなかったのを知らなかったんだっけ?」
  僕がそう言うと、久弥は
「英里香ちゃんは今どうしているのでしょうね」
  と珍しく心配するような言葉を残した。
  それから捜索が打ち切られるまでに不自然だった奴はいたかも考えてみた。
  冬馬は警察の情報に勝手にアクセスして英里香らしい情報はないか必死で探してくれた。
  幸次郎は知り合いの悪い奴らを片っ端から調べていった。
  未波はショックを受けている比呂人や他の小さな園児たちの心のケアーを任された。
  久弥はその間に滞っているみんなの仕事をひとりで全部負担した。
  僕と公章は最後まで諦めずに足で周囲を探した。
  誰ひとり、心配していない人間はいなかったと思う。不自然な行動の奴も同年代の誰にもいない。
  つまり、総合すると得られる情報は、下校時までは姿が確認されていることと、翌日ランドセルだけが戻ってきたという事実だけなのだ。

 殺人、猥褻、バラバラ殺人、小児性愛、関係のありそうな内容にはひととおり目を通したあと、吐き気のする本だと思った。
  この中のひとつでも英里香に適用できる内容があるなら僕は気が狂ってしまうかもしれない。
  僕はひとつ、英里香のことで勘違いをしていた。
  それは英里香が生きているかもしれないという希望によって隠された、英里香がどういう殺され方をしたかという事実!
  ランドセルを天使園の前に置いていくような犯人だよ? 君を殺したのは変態に違いない。小児性愛かサディストか知らないけれども、君は怖い思いをして死んだんだ。
  英里香が生きていると信じようとした僕は馬鹿だった。もっと早く、君が死んだことを認めて、君を殺した犯人を探すべきだったんだ。
  読み終わった本を本棚に戻して、襖を見た。
  君は僕があの夢を見た日から成長を止めた。英里香は僕にこの事実を伝えるためにここに現れたんだ。
  私は殺された! ということを。

 インターホンが鳴ったのを聞いて、僕は玄関へと向かった。
  そこには久弥が来ており、手にはビニール袋を持っている。
「夜中に突然食べたくなったアイスを買いに来たついでに寄ったんです。いっしょに食べませんか?」
「隣の市のコンビニまでアイス買いに来る奴がいるか!」
  最近連絡をとっていなかったから様子を見に来たといったところだろう。
  ダイニングに案内しようとしたら、久弥は「英里香ちゃんが見たいです」
  と僕に寝室まで連れて行くように言った。
  仕方ないので折りたたみ式のテーブルを広げた。
「最近彼女は成長しないんですか?」
「しなくなったね」
「成長期が終わったのでしょうか。あ、チョコ味は僕のです、雲雀はイチゴ味でよろしくお願いします」
  なぜヴァニラでなくイチゴなんだ? まあ金を出しているわけではないので文句は言えない。
  飲み物をとらずに読書をしていたので喉が渇いていたところだった、喉にひんやりとアイスが心地よい。
「ねぇ」
「はい?」
「英里香を殺したのは誰だろう」
  久弥がスプーンを扱う手を止めて僕を見る。
「英里香ちゃんが殺された。そう雲雀は言うつもりですか?」
「自分から消えたとでも言うつもり?」
「そんなことは言いませんけど、ほら……沼にはまってそのまま溺れたとか、小学生ならありえる話じゃあないですか」
「沼にはまって死んだって言うなら、どうして翌日ランドセルだけ戻ってくるっていうんだよ?」
  久弥は困った顔をした。僕はきっと久弥を困らせている。
「何かあったんですか?」
  僕が、天使園のメンバーを疑っていると知ったら、久弥は怒るだろうか。
  それともエンジェルも公章も大嫌いなこいつのことだ、協力してくれるかもしれない。
  だけど、久弥はエンジェルのメンバーと馴れあわないかわりに、絶対に彼らを裏切ることもない。僕がここで打ち明けたことによって、久弥がもし何かに関わっていたとするならば、証拠のすべてを消すくらいのこと、こいつならやりかねない。
  もともと性格のひん曲がったこいつのことだ、むしろ意味なくそういうことをする危険性もある。話すにはリスクが大きすぎた。
「英里香が夢に出てきて、『あなたが許せない』って言われた」
「『あなたのお嫁さんになる』じゃなくてですか?」
「ねえ、どうやったらそんな勘違いできるの?」
「言いましたよね、僕。雲雀の妄想だって。もし英里香ちゃんにそう言われたんだとしたら、それは雲雀が自分を許していない、それだけです」
  早口でまくし立てるように久弥がそう言った。
  久弥はふと視線を本棚に向けて、そこにあった犯罪心理学書に気づいた。
「雲雀」
  言い咎めるような口調だった。それ以上は言わなかったけれども、馬鹿な真似はよせと言っていることくらいわかった。
「英里香が、英里香が死んだんだぞ! 君にわかるのか、久弥。君にとって大切な恋人を僕が殺したら君だって腹を立てるだろう」
「腹立てるどころじゃあないですよ。彼女を殺されたりしたら雲雀なんて八つ裂きにしてやります!」
「やってご覧よ。元天使園最強の僕と正面から戦って勝てると思うなよ?」
「天使園最狂の僕にマッドで勝てると思わないでくださいよ?」
  久弥はあろうことか手にしていたアイスのスプーンで目を抉りにかかってきた。テーブルをひっくりかえして盾にすると、そのあとは久々に寝室で取っ組み合いの乱闘になった。
  お互い本気ではなかったけれども、手加減もしなかった。
  しばらくしてぐったりとして、床に溶けかけたアイスとかが散らばっているのを見ながら、僕は何をこんな自棄になっているんだと思った。久弥を煽ったところで何の意味もないのに。
「雲雀」
  同じくぐったりしている久弥が、僕の名前を呼ぶ。
「殺人の時効は二十五年です。たしかにあと十五年ある、だけどこれからの十五年全部を英里香ちゃんのために使うつもりですか?」
  返事をする気にもなれない。
  ああ、そうだよ。そうだよ! 馬鹿だと思っているんだろう、久弥。
「あなたが幸せになることを英里香ちゃんだって願ってます」
  ありきたりな言葉だった。
  だけど久弥には珍しく、本当に珍しく、らしくないくらい真剣そのものな台詞だった。 馬鹿な久弥、僕に怪我させるくらいで僕が探すのを諦めるとでも思ったのか。そうだよな、頭脳派のお前がここまで僕を疲れさせたんだ。君なんてもっとへとへとに違いない。
僕は馬鹿だ。こんなに僕のことを考えてくれている仲間のことを、英里香ひとりのために疑おうとしている。

 次の休日、僕はエンジェル本部を訪れた。
  久弥が僕のほうを心配そうに見て、そのまま現場へ向かうのが見えた。
  僕は久弥に罪悪感がある。君はきっと僕がここに何をしにきたか知っていて、そして黙っているんだ。
「雲雀くん久しぶりだね、未波のパウンドケーキ食べてくれた?」
  紅茶を出しながら未波がにこにこ笑顔でそう言った。こいつは間違いなく白だ、未波に誰かをどうこうするだけの度胸はない。
「食べたよ。どうしたらあんなに焼けるのか不思議だった」
「えっへっへ。レバーを限界まで右にひねるとあそこまで焼けるんだよ?」
「あーはいはい、未波は昔から細かいことできなかったものね。レバーを調節するなんてそんな器量ないもんね」
「ないでーす」
  公章はこんな頭の軽い女をもらって本当に大丈夫なんだろうか。
「公章くんはまだ仕事中だから、他の人と話していてね」
  僕は紅茶を飲みながら、忙しなく動き回るスタッフに目をやった。
  僕の知らない間に増えたメンバーのことは知らないにしても、昔からエンジェルのメンバーだったのは……まず久弥、そして幸次郎、あとは冬馬くらいか。
  新しいメンバーで知っているのは英里香の親友だった比呂人くらいだ。
「比呂人、学校楽しい?」
「コンピューターのほうが楽しい」
  呼びかけると乏しい返事が返ってきた。
  あれ、英里香と話さなくなってからこいつ根暗になったか? それとも今時の子供ってみんなコンピューターと向かい合っているほうが友達と遊ぶより楽しいとかいう考えなのかな。
  それともさらに単純に、比呂人は学校は勉強しに行くだけの場所と割り切っているのだろうか。
「幸次郎、君最近何の仕事しているの?」
「殺し担当」
  物騒すぎることを相変わらず平然と言う奴だ。ここじゃあ殺人なんて日常茶飯事すぎて誰も頓着してないんだろうな。
「雲雀、暇なのか?」
  冬馬が隣から声をかけてきた。
「うん」
「じゃあ久々に仕事だ。偽札のすかしがちゃんとできてるか一枚一枚確認してくれ」
「なんで僕が!」
「お前の目すげぇいいじゃんか。細部の失敗も見落とすんじゃねぇぞ?」
  冬馬にじろりとにらまれて、仕方無く僕は偽札の確認を始める。あれ? これどこが偽札なの? 本物とまったく変わらないよ。エンジェルの印刷技術向上したのかな。
  その瞬間冬馬が僕から偽札を取り上げた。
「これは端っこがブレている。没だ」
  君はこんなところで働くよりも日本銀行で働いたほうがいいに決まっている。
「昔の雲雀だったら、こんなミス見落とししなかったのにな」
「昔ねえ……」
  本当、うんざり。
  僕は犯罪組織で働くのなんてまっぴらごめんだ。公章がボスになったんならエンジェルも本物の慈善組織になっちゃえばいいのに。
  冬馬は僕をじっと見て、言った。
「お前さ、みんな足を洗えばいいとか考えていただろう?」
  図星を突かれて、沈黙していると冬馬は続けた。
「普通に考えてみろよ、孤児院で育った中卒で、資格もなければ犯罪の味を占めてる連中だぞ? 全員がお前みたいに更正できるわけじゃあねぇんだよ。まだ俺や公章さんが統率しているほうが悲劇が起きない。昔同じ釜の飯食ってた仲間が捕まるのを見るのは嫌だろう? そんな友情なくたっていい、誰かが薬に嵌ったとか、ヤクザの闘争で死んだとか、聞くくらいだったら俺が全部手のひらでコントロールしてやるほうがまだマシだと思うね」
  冬馬は公章のサポートをしている参謀的存在だ。几帳面な彼が今もまだこの職業をしている裏にはそんな事情があったのか。
「幸次郎を見てみろよ、あいつはひとりにしておくと絶対に犯罪者に逆戻りするタイプだ。あとこういう組織はまだあったほうがいいんだよ、どうせ天使園で生まれた子供たちは、子供を捨てるからな。その子供が行く場所がなくなる」
  悪連鎖。そんな言葉が僕の頭の中に浮かんだ。
  冬馬が言っていることは間違っていない。孤児院で育った子供が更に子供を捨てるケースは稀ではない。
  だけどそれでいいの? 冬馬。
  君のような頭のいい人には分かっているはずだ。このままじゃあいけないって。
  だけど僕は冬馬にどうしたらこの事態を打破できるかなんて何もアドバイスできない。もしできるとしたら、とっくの昔に彼が考え出しているはずだ。
  どうにかしたいと彼だって思っているはずだ。僕もどうにかしたい。だけどその方法は何も思いつかず、冷たい現実だけが目の前にある。
  僕の目を見て、冬馬は溜息をついた。
「お前の目を見ていたくない」
  断罪されている気分になる。冬馬はそう言って僕の目の前から偽札をかき集めると、自室へ戻っていった。
  別に、僕は冬馬を断罪できるような立場ではない。
  たまたま僕には英一がいたから更正できたようなものなのだ。君の言うとおり、あのままなけなしの三千円で外を歩いていたら、僕だって盗んで、カツアゲして、どんどんと犯罪者としての道を暴走していったに違いない。その果てに待っているものが、天使園の生活より悲惨なものになるなんていうのはわかりきっていてもだ。
  世の中は間違っている。そんな言葉は使い古されているのかもしれない。だけど僕はあえて言おう、世の中は間違っている。
  同じ日本で生まれても、一方では大学に遊びに行く若者がいて、そのもう一方では最低限のものしか、選択肢すら最低限しか与えられない若者がいる。
  金がすべてではない、それは知っている。
  だけど金がなければ人生の半分は閉じたも同然だ。それもこの十年間で学んだことだった。
だけど……だから変えるんだとしたら、君たちしかいないんだろう? 冬馬。
  そんなことをもう外野になった僕が言っていいのか、わからないけれども。
「雲雀くん、公章くん仕事終わったよー」
  未波が声をかけてきた。
  僕は紅茶を飲み終えてから公章の執務室へと入った。
「ごめん、雲雀さん。俺仕事苦手で……手間取っちゃった」
  あはは、と公章が笑う。
  犯罪なんて好きじゃあなくて、弱虫で、泣き虫で、すぐおろおろして、さらにおどおどして、久弥にいじめられているのが性に合っている公章がなぜエンジェルなんてもののボスなのだろう。
  君だって黒井家に生まれなければ、天使園の園長の息子なんてのに生まれなければ、普通の生活ができただろうに。
「それで、用事って何ですか?」
「ああ、ちょっとね……」
「またまた、ちょっととか言って雲雀さんはでかいこと頼むつもりでしょう?」
  公章が笑った。
「僕は公章に無理難題を押し付けたことなんて一度もないと思うけど?」
「そうですね。僕に無理なことは全部雲雀さんが勝手に片付けてくれていました」
  そうだったっけ? なんとなく自分でやったほうが早いと思った仕事を片付けていただけなのに、そう解釈されていたのか。
  最初は世間話あたりからスタートしたほうが無難かな。
「ところで比呂人、進学コースなんだって?」
「ああ、びっくりしましたか? すごく勉強家なんですよ。『将来は学者になるんだ』って言ってて」
「へー。まだそんなこと言ってるんだ」
  普通十余年も経てば将来の夢なんて変わりそうなものなのに。
「でもあいつが大学に行けるように俺は努力するつもりです。ゆくゆくは望む子には犯罪者以外の道も作ってあげられたらなーとか……そんなこと考えています」
  僕は沈黙した。さっき冬馬の実情を聞いただけに、公章の考えがどれだけ見通しが明るくないかについて。
  きっと失敗するんだろうな、と思った。悲しいけれども、冬馬の言う現実のほうが理想に勝利してしまうだろう社会の現実を。
「甘い……ですよね」
  公章が僕の沈黙を勝手にそう覚って、呟く。
「冬馬にもよく言われるんです。『そうできるのが一番だけど、難しいだろう』って。冬馬のような頭のいい奴にいい方法が見つからないんだから、相当難しいんですよね」
「まあね」
  僕は事実だからそう言った。
「俺は親もお金もある環境で育ちました。だけどしょっちゅう近くで『贅沢を言ってはいけない』とか『夢なんて見るな』とか言ってるのを聞いていました。だから俺自身も夢を見たり理想を追いかけたりしたらいけないんだと思っていたんです」
  公章はぼそぼそと話す。久しぶりにこいつの聞き取りにく小さな声を我慢強く聞いていた。
「でも、よくよく考えたらおかしいですよね。誰だって変われるんだとしたら、自分の努力次第でなんとでもなるのが未来ならば、自分の望むように生きたいと考えるのが人間ですよね」
「まあそうだね」
  自分の努力次第でなんとでもなるのが未来だとするならば、それを阻むのは現実という名の壁なのだろう。
「俺は、変わりたいし、変えたいんです」
  小声で、だけど意思が伝わってくる言葉だった。
  どう変えたい、どうやれば変わる、そんなことはわからない。ただ僕が、二十歳のときに変わりたいと感じたように、公章もきっと変えたいし、変わりたいと願っているのだ。
「比呂人を大学に入れるのがまず最初の関門です。『冬馬ですら高卒なのに、大学なんて……』って両親は反対するんです。大学って費用も馬鹿になりませんし。だけどいいと思いませんか? 学者になって、みんなが幸せになる方法を研究してくれるようないい大人になってくれたら」
「まあそれは正直難しいだろうけれども、たしかにいいとは思うよ」
「ですよね! 雲雀さんもそう思いますか」
  公章がすごく嬉しそうにそう言った。こいつ、ネガティブな側面はやたら見ていたけれども、こんなこと考えていたのか。ちょっとだけ感心してしまった。
「あ、俺の話ばっかしていてすみません。それで、お話というのは?」
  そこでやっと、本題に入れそうな雰囲気がつくれた。
「君は、英里香が生きていると思う?」
  切り出した言葉に、公章が息を呑むのがわかった。
  今更この話題、僕が天使園を出るきっかけになった話が持ち出されるとは思っていなかったのだろう。
「雲雀さん」
  公章ほどやさしい人間だったら、僕のために
「生きていると信じています」
  とでも言うだろうか。でもそれは、本当の僕のためになる言葉ではない。
「世の中には知ったほうがいいこと、悪いこと、そして知ると後悔することがあるんです」
  なんだって。
  想像していた答えとまったく違う返答が返ってきて、僕は固まる。
  君はこの事件について何か知っているとでも、言うつもりなのか。
「どういうこと?」
「さて、どういうことでしょうね?」
  公章はにっこりと笑った。僕は笑い返すことができなかった。
「どういうことだ! 公章!」
  僕は怒鳴って公章に掴みかかった。騒ぎに気づいた未波がすぐに駆けつけ、僕を止めようとするが僕の激情はすぐにはおさまらない。
  ばしゃっ
  僕は顔に熱を感じて振り返った。未波が執務室に置いてあったコーヒーメーカーを僕目掛けてかけたのだ。
「熱っ!」
「雲雀さん大丈夫ですか!?」
  公章が慌てて近くにあったウェットティッシュを僕にくれた。
「公章くんをいじめないで!」
  涙目になりながら未波が叫んだ。公章より泣き虫な彼女が、滅多に見せない反応だった。
  僕は顔にかかった珈琲を拭きとってから、冷静になった頭で考えた。
  こんなところで公章を問い詰めたところで、未波が傷つくだけで事が進展するわけもない。
「ごめん、未波。頭に血が昇っていたみたい」
「もう来ないで!」
「未波、言い過ぎだよ。ほら、雲雀さん謝ってるだろ?」
  未波はそのままわーっと泣き始めた。二十五歳にして仕事場で号泣できる根性にはまいった。
  おろおろしている公章と、「またか」と思って見に来た幸次郎が笑った。
「雲雀、こいつ一度泣き始めるとヒス起こしはじめるからさ、帰っていいよ」
  未波の頭を撫でながら、僕のほうを向いて
「何、明日くらいにはころーっと忘れて『雲雀くん久しぶりだねー』とか言うって」
  と言った。
  幸次郎はまったく気にしていない様子だ。たしかに明日会いに来たとしても未波ならばそう言う可能性があるけれども。
  なんだか気まずい思いをしてエンジェル本部の外に出た。

 仰ぎたかった協力、質問したかったこと、何も聞き出せないまま、エンジェル本部を出てきてしまった。
  僕はエンジェルのメンバーの、たとえ久弥や幸次郎が犯人だったとしても、絶対に公章だけは白だと思っていた。だからこそ公章にだけは本当の気持ちが話せると思っていたのだ。
  だけどまさか公章自身が犯人の身内、もしくは自分が犯人だということを匂わせることで僕の手を封じてくるとは思わなかった。
  あの反応は犯人はエンジェル内にいると言っているようなものだ。
  誰だ? 英里香を殺したのは。
  最初に幸次郎と浮かんだ。たしかに幸次郎はたしかにカッとすると何をするかわからない奴だけど、普段はおおらかそのものだ。英里香が幸次郎の逆鱗に触れるようなことをするわけがないし、これは違うか。
  冬馬ということも考えてみた。が、彼が営利目的も絡んでいないのに小さい子を殺すわけがない。
  利益……そうか、利益が絡んでいるのだろうか。英里香を殺したところで保険金なんて下りてくるはずもないけれども、何か利益を妨害することを知っているのだとしたら……それの口封じに殺されたのだとしたら。
「組織的な隠蔽工作で英里香は殺された?」
  言葉にして呟いてみると、胸にしっくりとくる。それだったら辻褄が合うのだ。
  天使園の捜索が早めに打ち切られた理由にだって納得がいく。
  組織ぐるみ、しかもエンジェルほどのでかい組織を相手どってそれを暴露くとなると、かなりやっかいだなと思った。
  英里香を殺したなんて許せない、しかしそれを証明する術がどこにもない。
  手が出せないことに早めに気づいたのは不幸なのか幸福なのかわからなかった。
  僕は色々なものを失った。
  天使園の仲間を信じられないという気持ち、英里香の死、色々なものをいっしょに享受しなくちゃいけなかった。
  手が出せないとわかっているならば、せめて君たちを許さずにいようと思う。
  君たちを許さない――
  法律が君たちを守ろうと、僕は君たちを許さない。
  苦しめばいいんだ。
  僕が英里香のことで苦しんでいるように、君たちも少しは罪悪感で苦しめばいい。