08

 それから数日後、俺たちは本格的な休暇に入った。大きなトランクケースを持って南行きの列車に乗る。
「一等席に乗るの初めて!」
  普段は二等席で移動しているらしいシャルロッテは少しはしゃいでいる。ヴィリーがシャルロッテの隣に座り、俺はひとりでシャルロッテのお向かいに座っている。
「南プレトリウスまで移動するのに約半日かかる。着くのは夜だな」
  ヴィリーが時刻表を見ながらそう呟く。
「兄ちゃんたち元気にしているかな? 会うの久しぶりだな」
  シャルロッテはうきうきしているらしく、赤いビロードの座席の上で弾んでいる。
「こら、シャルロッテ。大人しく座っているんだ」
  まるで親が落ち着きのない子供を叱るようにヴィリーがシャルロッテにそう言った。
「だってー、久しぶりの帰省なんだよ? 一年に一回しか会えないんだよ?」
  シャルロッテは「ぶー」と言ってポケットからミルクキャンディーを取り出して口に放り込んだ。幸せそうに舐めている様子を俺がじっと見ていると、シャルロッテが口から飴を取り出す。
「一個しかないの。舐めかけでよければあげる」
「いや、シャルロッテちゃんが食べてていいよ」
  舐めかけの飴はさすがにいらない。
  やがて汽笛が鳴り、列車がゆっくりと走り始める。
俺は雪が積もった景色が次第と遠のいていくのを静かに見ていた。普段列車に乗らない俺としては、こういう景色の移り変わりを見るのは楽しい。
  最後に列車に乗ったのは今から十年以上も前のことだ。十四歳の時だったと、記憶している。
  ベリンダがボート遊びをしたいと言い出して、ふたりで湖畔まで行ったんだ。ところがもう氷が張っていてボートは出せないと言われた。俺はベリンダといっしょに三等席の切符を買った。それで南の湖畔まで向かったんだ。
  お弁当はゼンメルとお気に入りのチーズだけ。ふたりでお金を出し合ってコンソメスープを買ったんだっけ。
  湖畔でボートに乗って、あいつは水面を指先で撫でて遊んで、俺は必死に漕ぐだけの肉体労働で、しばらく遊んだあとに木陰でいっしょに休憩した。
  そのうち冷えてきて、人も減ってきて、不安になったベリンダが泣き出したから俺は「大丈夫だ」と言った。
  あいつは泣きながら「何が、大丈夫なのよ?」と言った。切符は買ってあったけれども暗くて帰り道がわからない。お腹は空くし、寒いし、ここらへんの治安もわからない。ベリンダがべそをかくから俺はまず彼女を落ち着かせるつもりで、ベリンダの頬にキスをした。
  そしたらベリンダが逆切れして俺を殴った。
  結局、逆切れしたことによって元気を取り戻したベリンダと、彼女を元気付ける目的で消沈した俺はその日の遅い便で北の実家まで帰った。もちろん怒られたさ、外出禁止令は一週間続いた。
  俺はその一週間、ベリンダのことしか考えていなかったし、ベリンダはどうだか知らないけれども、様子を見に行ってくれたヴィリーがベリンダから手紙をもらってきてくれた。
――大人になったらまたいっしょにあの湖畔に行こうね。
  ベリンダの手紙にはそう書かれていた。
  あの頃は両想いだったと思っていいんだよな? ベリンダ。それから数年後には五年戦争だ。ベリンダはアンハイサー領に行って、そこで五つ年上のジェントルマンに見初められて結婚する。二十一歳だぜ? 結婚適齢期って言ったって、俺はその頃「結婚って何? おいしいのかしら」くらいピンとこなかった。
  だけどベリンダが結婚式でウェディングドレスに身を包んでロートシルトの隣に並んでいるのを見たら、もうあいつのことを好きでいちゃいけないんだって思ったし、子供が生まれたときにはベリンダはもう母親なんだと知った。
  もうベリンダは俺といっしょにあの湖畔に行くことはない。きっとロートシルトや、子供といっしょに行くことはあってもだ。
「兄さん」
  窓の外を見ていた俺にヴィリーが声をかけてきた。
「なんだ?」
「毛布をとってくれないか? シャルロッテが寝てしまった」
  ヴィリーの肩を枕にシャルロッテがすうすうと寝ている。相変わらず無防備で可愛らしい寝顔のお姫様だと思いながら毛布を足元から取り出す。
  ヴィリーはシャルロッテにそれをかけて、彼女が寝やすいように自分の肩を貸してやっている。そのうち彼女はずるずると落ちていってヴィリーに膝枕されるような姿勢で寝ていた。
「なー、ヴィリーってシャルロッテちゃんに膝枕してもらったことあるわけ?」
「ない」
  即答だった。まるで当然といわんばかりに。
「俺はな、ベリンダに膝枕してもらったことあるよ」
「へえ。初耳だな」
「あいつママンの耳かきをやってみたかったらしく、俺に膝枕をして耳に棒を突っ込んでだな……中耳炎になった」
「鼓膜破れたのか?」
「破れたね。俺の悲鳴がすごかったのをベリンダのおばさんが覚えているはずだ。それなのにあいつときたら耳かきで俺の耳の穴を抉り続けるんだぜ? それからしばらくベリンダが怖くて近づけなかった」
「余程耳かきしたかったんだな。ベリンダは」
  そんな兄弟の思い出話にしばらく華が咲いた。やがて空は茜色に暮れてきて、それが紫色になりかけてきた頃、南プレトリウスに着いた。
「シャルロッテ、着いたぞ」
  ヴィリーに揺り動かされてシャルロッテが目を覚ます。
「もう? うわ、外暗い」
「こっからはシャルロッテに案内してもらいたいなあ。南って潮風が気持ちいいって聞いたけれど、楽しみ……」
  外に出た俺は潮風の異様な寒さに体を丸めた。
「南って意外とあったかくないんだな」
「昼間はあったかいけど、夜は海から吹く風で寒いんだよ、兄さん」
  ヴィリーはそう説明して、トランクケースを両手に持ったまま貸し馬車を探した。
「腹減ったなあ」
「もうすぐだよ。お母さんが美味しいご飯作って待っているって!」
  シャルロッテが声を弾ませてそう言った。田舎風景が続く南プレトリウスのがたごと道を揺られながら、俺たちはシャルロッテの実家、ジーゲル家に着いた。
「お母さーん、お父さーん、ただいまー!」
  シャルロッテが大声で家族を呼ぶ。百姓の家といってもけっこう大きなその家は、シャルロッテを含めて四人しか住んでいないそうだ。
「まあまあ、遠路はるばるよくぞいらっしゃいました」
  シャルロッテの母ちゃんは美人だった。南出身というだけあって、褐色に焼けた肌が健康そうだ。俺はお土産にシュトックハウゼン産の燻製チーズとワインをジーゲル夫人に渡した。
「腕によりをかけて夕食作っていたのよ。田舎料理だからお口に合うといいのだけれども」
「大丈夫です。兄さんは好き嫌いがほとんどありませんから」
  ヴィリーがジーゲル夫人の手の甲にキスをして、そう言った。
  そんな様子を、勝手口から見ている誰かの気配に俺は振り向く。
  そこには亜麻色の髪をした、滅多に見られないような美青年が立っていた。きゅっと口元を結んでいる姿はまるで古代の彫像のように凛々しい。
「あ、兄ちゃん! ただいまっ」
  シャルロッテが彼に向かって手を振って挨拶した。ということは、こいつがディートハルトか。シャルロッテの兄ならば美形というのも頷ける。まあ俺も素晴らしいパーツを持って生まれてきたから引け目は感じないがな。
  ディートハルトはなんだか面白くなさそうな顔をして、俺たちに挨拶もなくダイニングへと消えていった。
「こら、ディック! 挨拶しなきゃだめでしょう」
  ジーゲル夫人に怒られて、やっとディートハルトは低い声で「こんばんは」と言った。なるほど、このお兄様に歓迎されていないというヴィリーの証言は正しいらしい。
  ジーゲル夫人は魚料理と、魚の卵で和えたパスタ、それから美味しいカスタードのお菓子を振舞ってくれた。
  なんという料理か聞こうとしたけど、料理の名前がついているわけではない、正真正銘の田舎料理なんだそうだ。
  そいつをたらふく食べたあと、俺は久しぶりに実家に帰ってきて盛り上がっているシャルロッテとヴィリーを置いて、一足先に眠らせてもらうことにした。
  ベッドは普段寝ているものよりも随分硬かったけれども、文句は言えない。長旅で疲れていたせいか、あっさりと眠りにつけた。