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 本気になれない男だとベリンダに言われた。
  シャルロッテでなくても構わないだろうとヴィリーに言われた。
  みんなで幸せになんて無理だとディートハルトに言われた。
  すべて手に入ると思っていた。少なくとも、手に入れることに躊躇したことがなかった。
  だけど俺は今、少しだけ手に入れるのが怖い。手に入れられるだろう幸せと、そのあとに待っているかもしれない破局が怖くて、それ以上シャルロッテの中に踏み込む勇気がなかった。

 ヴィリーは夕方近くになって帰ってきた。そうしてキッチンにいるシャルロッテのところに行って、そのあとはふたりとも普段どおりだったから、きっと仲直りしたのだろう。
「飯は美味いし寒くないし、南プレトリウスは最高だな」
  ただ仕事もなければ本もないから、暇なのだけはどうしようもない。
「じゃあ、じゃあ、みんなでいっしょに星を見に行こうよ」
  シャルロッテが俺とヴィリーの手を引いてそう言った。
「兄ちゃんもいっしょに行くよね?」
「ああ? 俺は普段から見慣れてるから行く理由なんて……」
「兄ちゃんは星座物語に詳しいんだよ。教えてもらおうね」
  有無をいわさずシャルロッテがディートハルトの同行を決める。
  俺たちは厚着をして、月明かりだけで田舎道を歩いた。
「もうちょっと行ったところに森があるんだけど、そこに兄ちゃんしか知らない絶景スポットがあるんだよ」
  シャルロッテがそう説明する。兄ちゃんしか知らないならどうしてシャルロッテが知っているんだ? それは突っ込んじゃあいけないのだろうか。
  森の中は暗く、たまにミミズクの金色の目がぎょろりと動くのが見えたり、蝙蝠のキィキィという鳴き声が聞こえる。
「こんな暗い道、よくぶつからずに歩けるな」
  俺の言葉にヴィリーは
「夜目が利かないようでは軍人として務まらない」
  と簡潔に述べた。ディートハルトとシャルロッテはよく通っている道らしく、ずんずんと奥に進んでいく。
「もうちょっとだ」
  ディートハルトがそう言って、森の中にぽっかりとあいた丘を見つけると、後ろを向いて俺たちに静かにするよう人差し指を立てた。
  ディートハルトに手招きされて丘を見ると、仄かにピンクや黄色の明かりが音楽といっしょに踊っている。
「妖精たちの踊りだ。あの輪の中に入ると記憶がなくなるからな、遠くから見ておくのが一番だ」
「妖精って絶滅したんじゃあないのか?」
  俺の問いに、ディートハルトは
「ここらへんにはまだ生息している」
  と言った。昔は妖精を見ることが出来る人がたくさんいたそうだ。だけど近代化が進むにつれて妖精たちは姿を隠すようになり、たまに見かけても妖精を見世物小屋に売り飛ばそうとする不貞輩のせいでめっきり数が減った。こうして妖精の姿を見られるのは、稀なことなのだ。
  オレンジ色のりんぷんが天の川のように空をすべる。まるで川くだりをしているかのような夜空を自由に飛び回る妖精たちを、しばらく見ていた。
「そろそろ集会も終わるだろうよ」
  ディートハルトの言葉どおり、それから数分もしないうちに、妖精たちは散り散りに消えていってしまった。
  彼は慣れた足取りで丘のフェアリーサークルを足でもみ消す。
「もう大丈夫だぞ。星も綺麗だ」
  俺たちはその小高い丘から夜空を見上げた。空の色は黒とも、紺とも言えない、複雑な闇だった。そこにダイヤモンドダストのような星空が広がっている。
「あれが白鳥座、あれが世界樹座、あっちが聖杯座だ」
  ディートハルトにそう説明されても、にわかにどれがどういう形の星座なのかよくわからなかった。
「あれが双頭の鷲座だ」
「語呂悪いな」
  思わず俺が呟くと、ディートハルトはこちらを睨みつけてきた。
「双頭の鷲は、兄弟だった。あるときカナリヤに恋をした双頭の鷲たちは、競ってカナリヤに若葉をプレゼントするんだ。やがてカナリヤは弟のほうと恋に落ちる。嫉妬にかられた兄は自ら毒の実を呑んで、弟共々死ぬっつーわけだ。可哀想に思った天使がそいつを星座にしたというのが伝説だ。お前らはそういう醜い争いするなよ?」
「するわけねぇだろ」
シャルロッテを奪い合って俺がヴィリーに毒を盛るとでも言うつもりだろうか。馬鹿馬鹿しい。
「あっちにあるのがカナリヤ座。カナリヤ座の頭の部分にあたる一番星の名前が古代の言葉で歌姫を表すカンタンテ。双頭の鷲の心が慰められるように今も歌い続けていると言われている。あれがもうすぐ南中にあがるだろ? その頃に銀鈴草が歌うんだ」
「ロマンチックだな」
  まるで御伽噺の世界のような話を聞きながら俺は空を眺めた。
「北にはそんな伝説はないのか?」
「ない。こわーい女神様の神話ならあるけど」
「どんな?」
「自分が生理の最中に戦争が起きると男も女も全員生理痛にするという激しい女神様の話」
「変な女神様だな」
  ディートハルトが「ロマンがない」と呟いた。
  ところがどっこい、五年戦争のときに俺たちが勝てたのは、敵軍の兵士たちが謎の腹痛によって撤退したからだというのだから驚きだ。まさに女神さまさまである。
「あ、流れ星!」
  シャルロッテが指差してそう言った。すぐさまお祈りのポーズを取るシャルロッテにディートハルトが
「何をお願いしたんだ?」
  と聞く。シャルロッテはにっこり笑って
「好きな人に想いが届きますようにって」
  と言った。好きな奴って俺のことか? それともヴィリーのことか? まさか三人で仲良くなんて言わないよな? シャルロッテ。

 森から出てきたあと、ヴィリーはディートハルトと飲みに行った。あの気難しい兄と親睦を深めるんだそうだ。上手くいくといいけれどもな。
「兄ちゃんはヴィリーのこときっと好きになるよ」
  シャルロッテが俺にそう力説する。そりゃどうかわからないぞ、シャルロッテ。なんせお前の兄貴は妹に傾倒しているからな。
「俺たちもどこかで飲むか?」
「ビールが美味しいところなら、この先の大通りにあるよ」
  シャルロッテの言葉を信じて大通りに出ようとした俺を、引き止めるようにマフラーを引っ張られた。思わず立ち止まり、後ろを振り返る。
「行って欲しくないわけ?」
  シャルロッテがこくりと小さく頷いた。
  俺はシャルロッテを抱きしめて、瞼の上に口付けた。
「子供扱いしないで」
  か細い声でシャルロッテがそう呟く。
「大人として扱えって言われてもな……」
  俺は苦笑いする。膝を屈めて、シャルロッテの唇に口付けた。軽く口付けてすぐに離れるつもりが、シャルロッテに後頭部を押さえつけられた。シャルロッテのほうから深い口付けをしてくる。熱の篭った舌を味わううちに、俺も自らシャルロッテを求めた。
  がん、と近くの壁にシャルロッテを押し付けて、さらに貪るように唇を交わした。
「……っ、はぁ」
  ため息をこぼして、シャルロッテが顔を真っ赤にする。
「シャルちゃん、俺はもう我慢しないぞ」
  もうヴィリーに嫌われようが、今この場でシャルロッテをお預けされるなんてたまったものではない。
  俺は近くにあった物置の扉を開けて中に入った。
  埃っぽい、庭仕事の道具が入っているだけの物置。俺はコートを脱ぐとそれを床に敷いて、シャルロッテをその上にそっと横たえた。
「寒いか?」
  シャルロッテの服の釦を外し、手をすべりこませた。
「ルーの手のほうが冷たいよ」
  シャルロッテの皮膚はとても熱く、触ったところから俺が蕩けてしまいそうだった。
「シャルロッテ……」
  愛しい名前を呼んだ。唇を重ねる。

「大丈夫だったか?」
「ん、平気だよ」
  疲労のにじんだ声でシャルロッテはそう言った。
  俺は服を着たあと、シャルロッテの唇にキスすると、もう一度抱きしめた。
「本当、俺らしくもなく悩んでいた」
  俺はこいつに本気かどうかだなんて。俺は何度だって恋をする。何度だって同じ相手と恋に落ちる。
「もっと早く伝えればよかった。お前が好きだって」