12

◆◇◆◇
「退いた退いたー!」
  ジミーが馬に乗って大通りを駆け抜けていくのが見えた。
  僕は冬場ほとんどの人が使わないテラスでひとり紅茶を飲んでいた。道行く馬車が溶けかけた雪を飛ばして僕の膝にかけていく。今日も今日とて嫌われコルサコフの朝が始まった。
  ジミーとはノエル祭のときデートしたきり、特に進展はない。あのスパイクつきのブーツは愛用してくれているようだけれども、あんなものでよかったのだろうかと僕は今でも悩む。あれはあれで喜んでくれたのだけれども、プレゼントっぽくないなあという気がするのだ。
  ルーベルトは機会を見て何度かデートして、それで婚約を取り付けるように言った。
  つまり結婚を前提にお付き合いしましょうと話を進めなければいけないわけだ。たしかに僕の年齢を考えた場合もそうしたほうがいいのはわかっている。だけどそれはジミーに家庭に入ってもらうということであって、ああやって馬に鞭を振るって走るのを辞めてもらわなければいけないわけだ。
  そんなことってできるのだろうか。ノエル祭のプレゼントにすらスパイクのついたブーツを所望するような女性に、家庭で大人しくしていてくれることを望むのなんて酷ではないだろうか。
「ああ……」
  なんだか今から即答で断られるのが目に見えて、僕は項垂れた。その項にブリキのカップをくっつけてきた奴がいる。
「ぶわっち!?」
  思わずその熱さに体を起こし、後ろを振り返った。
「よお、どうした? 元気ねえな」
  悪辣に笑っているルーベルトがブリキのカップを片手にそう言った。
「伯爵様がおひとりで何をなさっているのですか?」
「え、お茶を飲んでいる」
「それだけですか?」
「これから議会のほうに顔出さなきゃいけないわけ。だからここで体を温めているのさ。あそこ暖房効いているっていったって寒いからな」
  僕には議席を作ってくれない議会に参加するわけか。なんだか嫌味のような気がするのに、彼は何も考えずに言っているんじゃあないかという気もするのだ。
「ジミーは事件現場か。お前らうまくいってるわけ?」
「うまくいってもいないし、マズい状態にもなっていませんよ」
「つまり発展も後退もしていないと」
  そうですよ。なんだか肯定するのも面倒で黙って紅茶を啜った。
「イリヤって今年で三十六歳だろ? いいのかなー、そろそろ結婚しないとじいさんになった頃子供が成人することになるぞ?」
「結婚するかも決まっていないのに子供のことまで考えていられませんよ」
「そうなの? ジミーとの子供欲しいとか思わないわけ?」
  ジミーの名前が出てきて僕は紅茶を噴きかけた。それを見てにやにやしているルーベルトに聞く。
「彼女は黙って籍に入る女だと思いますか?」
「思わないけど、いずれ結婚くらいするだろ」
  たぶん彼女は、誰かと結婚する。それは僕じゃあない誰かなのかもしれない。彼女はみんなのヒーローだし、僕はみんなに嫌われている。
  ルーベルトは僕の肩を叩くと笑顔で言った。
「ま、当たって砕けろ」
  砕ける可能性のほうが高いことについて言及はない。僕は紅茶を黙って啜る。
「そういえば、お前の用事は何なわけ? まさかここで愛しのジミーちゃんをずっと見ているなんてことないんだろ?」
「当たり前でしょうに。今日はアンハイサー領の資本家たちのところを少し回ってきますよ」
「へいへい。ご苦労なことだな」
  ルーベルトはにやりと笑ってカップを掲げた。
「まったく、笑い事じゃあないですよ。この資本家たち、買う武器の量がけっこうまとまった量なんです」
「ロートシルトのところで内乱が起きるとでも言いたいのか? ははは、あいつの領地ほど良政な地域ってないだろ。ないない」
  ルーベルトはまったく取り合わないように手をぱたぱたと振った。
「なんでそんなこと教えてくれるわけ?」
「あなたに借りを作っておくのが怖いからですよ」
「あんなくだんねー相談に乗ったくらいで借りとか考えるなよ」
  僕は目を細めてルーベルトを見た。僕にとっては重要な問題だけれども、彼にとってはくだらないことなのかもしれない。
「ところで、融資はする気になったか?」
「そちらこそ僕の席を設ける気になりましたか?」
  僕たちの間に嫌な沈黙が流れる。
「まあ新年早々険悪になるのはよそうぜ」
  先に切り上げたのはルーベルトだった。紅茶を一気に飲んだあとは手袋を付け直し、ステッキを持つと市議会のある会館へと歩いていく。
  僕はため息をついた。ルーベルトは無神経な男だけれども、政治的な腕が悪いわけではない。領民を大切にするし、重税を課すこともあまりない。そんなに悪い領主ではないことはわかっているのだが、それでも……
「僕はあの人が好きになれないんですよ」
  そりゃあ、ルーベルトくらいしか僕の相談に乗ってくれそうな人はいないわけだけど。でも十一も年上の僕のことを、恋愛には奥手な人間と馬鹿にしているのが顔から読み取れるのだ。
  あっちは社交界でも有名な遊び人。なぜにあの無神経な男がモテて、僕のような誠実な人間は嫌われるのかがわからない。
「あ、コルサコフさんだ」
  声がして、僕はそちらのほうを見る。
  亜麻色の髪をした、臙脂色のワンピースを着た女性がこちらに近づいてくる。
「こんにちは。テラス席、寒くない?」
「あなたは確か、ヴィリーさんの恋人でしたっけ?」
  そう言った瞬間、彼女は顔を真っ赤にして首をぶんぶんと左右に振った。
「ヴィリーは私の友達だよ、ただの友達」
  この反応はヴィリーが好きなのか? と思った瞬間、次の言葉で僕は撃沈した。
「私が好きなのはお兄さんのルーベルトのほう」
  なぜ、そんなカミングアウトをされたのかはわからない。もしかしたら元から正直な性格で隠し事ができない子なのかもしれない。
「ルーベルトが好きなんですか?」
  僕の質問に、彼女はこくりと頷く。
「ルーってすごくやさしいし、格好いいでしょ」
  そうだろうか。ただの無神経な俺様男にしか見えないのは僕の気のせいなのだろうか。しかしそのことについては触れず、僕は無難な言葉を選ぶ。
「お嬢さんはルーベルトのことが本当に好きなのですね」
  彼女は笑顔で頷いた。
「あ、私、シャルロッテと言います。ヴィリーの仕官学校でお手伝いの仕事しているの」
「そうなんですか」
「お料理の腕はけっこういいんだよ。ヴィリーなんて毎回シチューお替りしてくれるんだ」
「そんなに美味しいなら、僕も食べてみたいですね」
  これくらいの年齢の女の子とお話をしたのはいつが最後だっただろうか。というよりも、この子は僕とお話をして何が楽しいのだろう。何か狙いがあったりするのだろうか。
「ところでシャルロッテさん、あなた、僕に何か用事があるのではないのですか?」
  すると彼女は目をぱちくりとさせる。
「用事? そんなものはないよ」
「用事もないのに、僕に話しかけたのですか?」
「コルサコフさんは世間話しないの? あ、もしかして忙しかったの? 私ったら気にせずお話していてごめんなさい。それじゃ、私もお買い物行かなきゃ」
  彼女はそう言うと早足で市場のほうへと向かってしまった。別に時間的には余裕があったわけだけれども、世間話をする相手などほとんどいない。すっかりそんな感覚が抜け落ちていた。用事があるときしか、利用したいときにしか話しかけられないものだと思っていた。
(心がやさぐれちゃったのかな……)
  あのくらいの年齢のとき、僕は何を考えていたっけ?
  僕は珍しくそんなことを考えて、もうぬるくなった紅茶を最後まで啜った。

 アンハイサー領の資本家たちのところを回って帰ってきたら、シュトックハウゼン領の街に戻ってきたのはもう夜だった。
  家に帰ってひとりで食事をするのもなんだし、食堂で食べていこうかと思い、普段から利用している食堂へと馬車を向かわせる。
  店の中は夕食時に相応しく混んでいた。僕はカウンタ席に座って、グヤーシュとゼンメルを注文する。あまり待たされないうちにグヤーシュが出てきた。
  グヤーシュとは、簡単に言えばビーフシチューのようなものだ。ビーフシチューと何が違うかといえばパプリカがふんだんに使われていることくらいだろう。この国の伝統料理であって、寒い日にこれを食べると体がとても温まる。
  僕はゼンメルを千切って、スープの中に浸けて食べた。続けて具の部分を掬って食べる。ここのグヤーシュはそこそこ美味しい上に具沢山だから好きだ。
  食事中、もしかしたらジミーも食事に来ていないかな……と考えたが、その日ジミーは食堂に顔を出さなかった。
  僕は代金を払い、夜食用に少し煮物と串焼きを買って帰った。
家に帰ってからは今日とってきた契約書に目を通した。サーベルが百本、ライフル銃が三十丁、弾があるだけ全部……か。
  この数はどう考えてもどこかとおっぱじめようというときに注文する数だ。大砲がないだけまだ本格的な戦争とは違いそうだが、革命くらい計画しているのではないかと予想した。
「僕には関係ないよ……」
  そうひとり呟く。
  武器は必要なんだ。平和を目指しているからって、みんながそうとは限らない。隣国が侵略を開始したらやっぱりみんな武器を手に取るしかないんだ。そのときおもちゃのような武器では意味がない。勝たなきゃ、言葉も文化も財産も、根こそぎ奪われる。
  だけど平和なときに武器が売れるということは、すなわち誰かがそれで物騒なことをやろうとしている証拠なのだ。
「はあ……」
  僕はため息をついた。いつの時代も正しいことなんてありやしないとわかっていても、やっぱり割り切って考えられない。
  こんなことならば、父親から継いだ鍛冶屋の技術を武器専門なんかに使うべきじゃあなかったかも。
  うちの父親はのんべえだったけれども、鍛冶の技術だけはあった。母親は体が弱くてお針子の仕事をしていた。ある日父親が飲み屋で喧嘩をして、相手がお偉いさんだったために、遠くに兵役に行かされた。
  体の弱い母親に無理をさせるわけにもいかず、僕は自分の一番得意な剣を作る技術を、もっと効率よくお金にする方法を考えた。それが武器商コルサコフの始まりだった。
  生き残るためにはこうする他なかったという思いもある。だけど、僕のせいで争いが起こるという、プレトリウスの一般常識は誤解だと言い切れるのだろうか。
  窓にコン、と小石がぶつかった。窓の外を見るとジミーが手を振っている。
  僕は部屋を出て、玄関の扉を開けた。ジミーはすぐさま飛び込んできて、僕を見上げる。
「今日仕事終わったら飯屋が閉まってたんだよ。家にゼンメルの買い置きすらなくってさ、なー悪いけれども何か食べさせてくんない?」
「串焼きと煮物しかないですよ?」
「んー、それでいいや」
  ダイニングの暖炉に火をいれて、ジミーをその近くの椅子に座らせた。目の前に煮物とフォークを置いてやると、ジミーはそれをぱくぱくと食べ始める。
  僕はそれを横目で見ながら、水をヤカンで沸かした。
「お茶にはミルク入れてね」
「ミルクは現在切らしているんですよ。砂糖とブランデーで我慢してください」
  沸かしたお湯でお茶を蒸らし、その間にブランデーと砂糖をカップの中に垂らす。ポットからお茶を注ぎ、ジミーと自分の前に置いた。
「お仕事のほう、順調ですか?」
「んー、そこそこ順調だけど。そっちはどう?」
「商売としては順調なんですけどね……」
  僕はため息をつく。ジミーはその様子を見て、首を傾げた。
「どうかしたわけ?」
「いや、もう両親もいないわけだし、武器商の仕事を続ける理由もないんだよなあ、と」
  僕が吐いた弱音に、ジミーはぷっと笑った。そして頬杖をつくとこちらを見てくる。
「今やってる仕事が嫌なら辞めちまえば?」
「でも辞めたからって、国中から嫌われている僕に新しい仕事なんてないんですよ」
「ばーか。あんたひとりが失業したくらい、俺がなんとかしてやるよ」
  それって仕事を探してくれるということだろうか。それとももっと期待しちゃっていいのだろうか。たとえば専業主夫にしてくれると思ってもいいのか。
「長く生きてりゃあな、そりゃー色々なことがあるんだよ。嫌われ者が案外いきなり人気者になったりするかもなんだぜ?」
「そんなこと、ありませんよ。だいたいジミーは僕より年下じゃあないですか」
「あはは。まー俺だって、昔は悪ガキで有名だったさ。『手の付けられないクソガキ。将来がとても心配だ』なんて言われるのはざら。でも俺、今保安官の頭脳派特別捜査官よ? 頭脳系の犯罪を暴くときは俺の悪知恵で『俺が犯人だったらこんなことするのにな〜』って考えながら捜査していくわけだし、何が将来当たるかなんてわかんないわけ」
  ジミーは食べながらぺらぺら語る。
「それに、イリヤのいいところ、俺はいっぱい知っているよ」
「本当ですか?」
「うん。どっかの気障な伯爵みたいに耳元で囁いてほしい?」
「シュトックハウゼン伯爵の真似はやめてくださいよ、もう。あの人苦手なんです」
「なんで? いい領主様じゃないのさ」
「なんかこう、僕は武器を作るしか取り得がなかったのに、あっちは乗馬から剣術から何から何まで得意で、おまけに人気者の領主様ですから」
「ただの嫉妬にしか思えないけど?」
  ジミーがけらけらと笑う。
「伯爵と勝負しても意味ないって。鏡見て、自分と向き合わないと。鏡見てみろよ、イリヤ。何が映ってると思う?」
「ただのおっさんが映ってますよ」
「んー、ただのおっさんかもしれないけれども、親父譲りの凛々しい眉とか、お母さん譲りのやさしい目とか、誰にも譲られてないけれどもやたら高いイリヤの鼻とか、イリヤのよさがそこにいっぱいあるんだぜ。そのよさに気づいてあげられるのは他人もだけど、まず自分で気づいてあげなきゃ」
  ジミーはそこまで言うと、「ごちそうさま」と立ち上がった。
「こうして腹ペコ女に飯をくれるのも、イリヤのいいところ」
  手をひらひらと振って、ジミーが扉の向こうに消えていった。
  僕にいいところがあって、それに僕自身が仮に気づけたとしても、他人が僕のよさに気づいてくれるのなんて、いつなのだろう。
「僕のよさに気づいてくれるのはジミーくらいなのになあ……」
  言ってて自分ですら自分のよさを理解していないことに気づいた。努力しようと少しだけ考えた。