14

 それから数日した、ある日のことだった。
「こんにちはー!」
  ヴィリーが学校から下校してくる際、シャルロッテをいっしょに連れてきた。
「ルー、いる? 私、パウンドケーキ焼いてきたよ!」
  玄関のほうから声がしたので、俺はクラーラを肩車したままふたりを迎えに出た。
「パウンドケーキか? どれどれ」
「あー、あたしも食べたい!」
  シャルロッテは俺の上に乗っているクラーラを見上げてにっこり笑った。
「ヴィリーから聞いたよ。クラーラちゃんだよね?」
「お姉さん誰?」
  俺はクラーラがシャルロッテにまでおばさんと言わなかったことに安心した。
「お姉さんの名前はシャルロッテだよ。ヴィリーのお友達なんだ」
「そんで、俺の恋人でもあるんだぞ」
  俺が追加でそう言うと、クラーラはシャルロッテをじっと見た。
「ルーベルトのお嫁さんになるの?」
「うん、そうだよ」
  あっさりとシャルロッテが肯定する。あれ? 結婚を考えてくれてるのか。
「だめー。クラーラが結婚するの」
「あらあら、好かれたわね。ルーベルト」
  居間からベリンダが出てきて笑いながらそう言った。まあ嬉しいような、子供にモテても嬉しくないような。
「だめー。ルーと結婚するのは私なの」
  シャルロッテがちょっと慌てたようにそう反論する。クラーラが体を乗り出して
「じゃあ、ルーベルトに選んでもらおうよ」
  とこちらに話題を振ってくる。シャルロッテがこちらを不安げに見つめてくる。
「ルー、私を選んでくれるよね?」
「ルーベルト、あたしを選ぶんでしょ?」
  俺はハハハと笑って、ベリンダにヘルプの視線を送った。彼女はにっこり笑うだけ。
「どっちがいいかな……」
  俺は視線をヴィリーに向けた。ヴィリーは指で胸を叩いてモールス信号でこう言った。
――自分で考えろ。
  女性ふたりに迫られるとは美味しいシチュエーションのはずなのに、全然美味しくない。俺は逃げることにした。
「シャルロッテちゃんのパウンドケーキが食べたいなあ。そろそろお茶にしないか? クラーラも食べたいだろ?」
「食べたい!」
  頭上のクラーラが目をきらきらさせて言う。俺はシャルロッテににっこり笑って
「仲直りしようぜ?」
  と言った。シャルロッテは納得していないようだったけど、こくりと頷いた。
「ベリンダ、自慢の紅茶をいれてくれよ」
「はいはい。ルーベルトはずるい男ねえ」
  ベリンダはくすくす笑いながら居間へと消えていった。俺もそのあとを追いかけていく。

 それからしばらく、クラーラと遊んでいることが多かった。シャルロッテの相手をしていないことに気づいたのは随分経った頃だ。
  それでもクラーラは俺の屋敷にいるわけだし、シャルロッテは時間になれば仕官学校の寮に戻る。埋め合わせをするチャンスはなかなかなかった。
  そんなときに、こんな事件が起きた。
「クラーラ、ストップだ」
  俺は険しい表情をしてそう言った。
  ここは俺の執務室。そして俺の仕事机の上に、クラーラは腰掛けている。その手に握られてるのは俺の父親の形見である、銃だった。
「クラーラ、いい子だから、絶対に動くなよ?」
  俺は彼女を驚かせないように、そっとそっと近寄った。クラーラはもの珍しいオモチャを手に入れたと思っているらしく、それを持ったままきょとんとしている。
「絶対に、それを自分の方向に向けるなよ? 俺がそっちへ行くから、こっちに向けておけ」
  その指示に従って、クラーラがこちらに銃を向けた、その瞬間だった。
  銃口が火を噴き、俺の真後ろで硝子が割れる音がする。振り返ることなく、俺は急いで近寄り、クラーラから銃を取り上げた。
  クラーラは硝子が割れた音にびっくりしたのか、俺の剣幕にびっくりしたのか、わっと泣き出した。
  クラーラを抱き上げてなだめながら後ろを振り返ると、親父の肖像画に小さな穴があいていた。

「クラーラ! だからルーベルトの執務室のものに勝手に触っちゃだめって言ったでしょう」
  ベリンダがすごい剣幕でクラーラを叱り飛ばした。
「そういう子は、木の棒でお尻を叩くと教えたはずよ。覚悟はできているわね?」
「はい、ママ。お仕置き棒持ってきます」
  おいおい。お仕置き棒って、そんなマイステッキがあるのか。それを泣きながら取りに行こうとするクラーラを止めて、俺はベリンダに視線を送る。
「いいだろ、怪我した奴いないんだし」
「あんたが死ぬ可能性だってあったのよ。分かってるの?」
「でもそんな、木の棒で叩くとか酷いだろ。叩いて何かが解決するわけじゃあないし」
「叩くところはお尻だから大丈夫よ。あんたわかってないかもしれないけど、体罰はよくないなんて幻想よ。叩く場所は選んでるし、しっかり体に教えなきゃいけないことだってあるの」
「だけどさ……」
「誰かが怪我する結果になる前に教えなきゃいけないのよ! これは躾だわ」
  俺はそのとき、ベリンダと言い争っていて、小さな変化に気づけなかった。シャルロッテの小さなサインに気づいていなかった。
 
  結局、俺の屋敷にいる間はお仕置き棒はなし、ということで合意して、居間に戻ったときだった。シャルロッテが浮かない顔をしていた。
「どうしたんだ? シャルロッテちゃん」
「ん。ちょっと考え事していたの」
「なーに考えていたのかな? 俺のこと考えていたり?」
  俺が茶化してそう言うと、ますます大きな目を潤ませた。
「ルーのこと、考えていたよ」
「ん?」
  なんだかちょっと様子がおかしいかもしれない。なんだか思いつめたような表情だ。
「ルーは、もしかしたら私といるよりベリンダさんといるほうが楽しいのかもしれないって」
  俺はちょっぴりどきんとした。
「何言ってるんだよ。シャルちゃんのことが好きに決まっているだろ」
「本当に?」
  シャルロッテが不安で胸が張り裂けそうだという表情でこちらを見てくる。
「ほら、私、子供っぽいし。料理作るぐらいしか特技ないし、お作法だって貴族の家には相応しくないから……」
「どうしたんだよ? いきなり」
  俺はシャルロッテを抱きしめて、背中を撫でた。
「俺はシャルロッテちゃんがそのままでも、十分好きだよ。それにシャルロッテちゃんはいいところをいっぱい持ってるんだぞ? 魅力的な瞳に、いい匂いがする髪に、笑うと可愛い顔に、小鳥のような声に、美味しい料理を作る手に、俺を和ませてくれるやさしい心に。すごく俺は幸せなんだけど?」
  シャルロッテを落ち着かせるように俺は言い聞かせた。彼女はちょっと沈黙して、途中から泣き出した。
「ごめんなさい。ルーは今、とても大変なはずなのに。クラーラやベリンダさんのことが嫌いなわけでもないのに、どうしてか、すごく苦しくて」
  こんなとき、どんな言葉をかければいいのだろう。お前が一番だよとか、そんなことを言えばいいのだろうか。下らない嘘ならいっぱいつけるのに、やさしい嘘はつけない愚かな俺。
  正直なところ、俺は誰が一番とかそんな順位がつけられない。みんな大切なんだ、みんな幸せにしたいし、みんな切捨てられない。全部手に入れたいと思うし、全部成功させたいと思うし、嫌なことなんてなくなって、みんな笑っていけるような世界が作りたいだけなのに。
――お前は全部欲しがって、全部失うタイプの男だろう。みんなで幸せになんて無理だよ。
  そう言ったディートハルトの言葉を不意に思い出した。
  なあ、本当に、みんなで幸せにって無理なのかな? 誰かが幸せになると誰かが不幸になるしかないのかな。幸せって、そんな上にしか築けない、砂上の楼閣のようなものなんだろうか。
「シャルロッテちゃん、苦しかったら俺を責めていいよ。苦しさを俺に分けて、それで楽になるなら、ふたりで苦しくなろう」
  俺の言葉に、シャルロッテは潤んだ目を向けてかぶりを振った。
「ルーにはいつでも笑っていてほしいよ。ニヤリって」
  あれ? 俺、そんないつでもニヤリって笑っていたのか。
「ただね、なんかね、不安だったの。このままルーが誰かに取られちゃって、私のこと忘れちゃうんじゃあないかって。馬鹿みたいでしょう? 四歳の子にやきもちなんて妬いちゃって。本当、どうかしているよ」
  シャルロッテは笑った。俺は笑って「馬鹿だな」と言った。
  本当に馬鹿だったのは俺のほうなんだ。シャルロッテがクラーラにやきもちを妬いたと、本当に勘違いしていた愚か者だった。