15

「あの肖像画、有名な画家に描かせたものだとか言ってませんでしたっけ?」
  久しぶりに俺の屋敷を訪ねたイリヤが紅茶を飲みながら、硝子が割れた親父の肖像画を眺め、呟く。
「ちょっとしたアクシデントがあってな」
「アクシデントのだいたいの察しはつきますよ。さっき廊下を走っていた子でしょう」
「まあな」
「オモチャの剣で膝の裏を刺されてちょっと痛かったです」
「ベリンダ似なのか負けん気強くてさ」
  俺は困ったように苦笑した。イリヤも怒っているわけではないようで、少し笑っている。
「それで、本日呼ばれた理由はなんでしょう?」
「これ、お前のところで回収して処分しておいてくれないか」
  俺はケースに入れたままの銃をイリヤのほうに渡した。イリヤはそこに入った家紋を見て、眉をしかめる。
「これ、もしかすると……あなたが大切になさっていたお父上の形見なんじゃあないですか?」
「でもまあ、アクシデントの二度目がないとは限らないしな。手放すにはいい機会だ」
「いいんですか? あの子はそのうちアンハイサーの屋敷に帰るだろうし、それまで隠しておくでもいいのでは?」
「いいんだよ。俺、ベリンダが泣く顔も、誰が泣く顔も見たくないんだ。高く買ってくれよ?」
  俺がにやりと笑ってそう言うと、イリヤはやれやれとため息をついて、小切手にさらさらと数字を書き込んだ。
  それをこちらに見せてくれた。ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ……ゼロがいっぱい並んでいる。気前いいじゃあないか! イリヤ。左に書いてある単位はなんだろうと思った矢先だった。
「最後までゼロじゃねぇか!」
  つまりゼロ金貨だ。ゼロだけいっぱいあっても所詮ゼロ。ただのゼロ。
「ええ、その紙をお貸ししますよ」
「こんなゼロだけの小切手持ってなんの意味があるってんだよ!?」
  嘗められているのかと思ってそう怒鳴ると、続きがあった。
「この銃を無期限でお預かりします。こんな時代遅れの骨董的価値しかない銃なんて、僕にはお金を払う価値もない。ですからお貸しするお金はゼロ金貨。だけど、あなたが受け取りにくるときまで、大切にお預かりしておきますよ。安心しましたか?」
  俺はきょとんとして、イリヤを見た。たまに思うんだが、こいついい奴かもしれない。皮肉たっぷりのくせに、やっていることはすごく善良的なときがある。
「……おう、ありがとう」
「お礼を言われる筋合いはありません。あなたよりも武器の扱いがわかっているだけですよ。安全に管理します」
  イリヤがにっこりと笑ってそう言った。
「ところでその後、アンハイサー領の誰かが武器を買ったりしているのか?」
「今のところはないですね。たまに弾薬の補充を頼まれることはありますが」
「そうか……」
  ベリンダたちを預かってから一ヶ月が経とうとしていた。革命という名の内乱は、まだ鎮火しそうな様子ではない。
「アンハイサー男爵って軍事に弱かったっけ?」
「特別得意ってわけでもありませんけど、特別酷いと聞いたこともないですよ」
「じゃあそろそろ決着がついてもいい頃じゃあないのか? 民衆が武器を手に、ならまだ分かるけど、資本家ってことは傭兵か何かだろう? 数的にも限られてきそうな気がするんだよな」
「そうですね。お金で雇える兵力には限りがあります」
「お金で命まで買えないぜ。金のために必死で命まで投げ出して戦う傭兵がどれだけいるんだ? てきとうなところで切り上げてとんずらするのが賢い方法だろう。一ヶ月も戦えば充分報酬に見合った仕事はしたはずだ。あとは男爵に目をつけられる前に逃げたほうがいいに決まっている。長期的に続けば、どっちが有利か見えた勝負だからな」
「相変わらず口は悪いですが、言い分はそのとおりですね」
  イリヤは紅茶を飲み終わると、銃のケースを抱えて立ち上がった。
「そろそろお暇しますね」
「おう。そっちの情報聞けてよかった。出来れば奴らの隠れている場所とかの情報も欲しいけど」
「そこは企業秘密です。僕だって職を失ったり、恨まれたりはなるべく避けたいですから」
「もう充分恨まれてるだろ、お前」
  イリヤは口を歪めて笑うと、そのまま扉の向こうに消えていこうとした。そのときだった。
「この前、シャルロッテさんと街中で世間話をしたんですが……」
「お前とか? する相手選べばいいのに」
「失礼な人ですね。そのとき、あなたの話を聞いたんですよ。『アンハイサー男爵夫人はルーベルトにとってどんな存在なのか』と」
「なんだって?」
  俺は思わず聞き返した。イリヤは意地悪そうに笑うと、続ける。
「恋人より人妻を大切にするの、いい加減やめたらどうですか? 彼女、誰かさんに取られるかもしれないですよ」
「誰に取られるっていうんだよ。ヴィリーだなんて陳腐な答え聞きたくないぞ?」
「ええ、分かってるじゃあないですか。彼ですよ、シャルロッテさんに『ルーベルトはもしかしたら、まだベリンダを好きかもしれない』なんて吹聴したのは」
  そこまで言って、イリヤは扉を閉めた。コツコツコツ、という靴音が遠のいていく。
  俺は色々頭の中がぐちゃぐちゃだった。何故ヴィリーがそんなことをシャルロッテに言ったのかという意図を邪推したり、シャルロッテがあのとき不安だった理由を考えたり、俺がどうしてベリンダを今も大切にしているのか、そこに欺瞞は本当にないのかとか、ともかくぐるぐると色々考えた。
  シャルロッテは俺にクラーラに嫉妬していると言ったけれども、そんなわけがなかったんだ。あれはベリンダのことを気にかけていたんだ。
  シャルロッテ、お前はどんな気持ちだったんだ? クラーラやベリンダが嫌いじゃあないにしろ、お前と接している時間を削っていってしまうあいつらに対して。そして、あいつらにへらへらしている俺を見ていてどんな気分だったんだ?
  どうしてあいつが不安だってサインに、何度も出していたサインに気づいてあげられなかったのだろう。
  そんな俺やシャルロッテを見ていて、ヴィリーが何か言いたくなった気持ちもわかる気がする。
「ヴィリー……」
  もしかして俺は、シャルロッテやベリンダのことは考えていても、大切な弟の気持ちをまったく考えていなかったんじゃあないだろうか。
  欲しいものを欲しいと言って、ヴィリーの目の前でシャルロッテといちゃついて、同じようにシャルロッテが不安なところも、俺がベリンダに接しているところも、全部気にせず見せていた。
  家族なんだから、兄弟なんだから、幸せを願ってくれるのは当然だと決め付けて、あいつの幸せは俺の幸せと思い込んでいて、そのくせ全然ヴィリーが何を感じているのか考えたこともなかった。
  すべてすべて、俺が自分に都合よく、ヴィリーがこう考えていてくれたらいいと思い込んでいただけだ。
「ああ、くそ……」
  駄目だ、いつものパターンだ。
  傷つけたいわけじゃあないのに、俺は自分勝手な理由で人を傷つける。
  でもどうすればいい。シャルロッテを好きになる前には戻れない。ベリンダたちを追い出すわけにもいかない。ヴィリーの気持ちに気づいたまま我慢させるのも酷い話だ。
「ルー、あそんでー」
  そんなとき、オモチャの剣を持ったクラーラが扉を押し開けて入ってきた。
「ルー? 泣いてるの?」
  俺がうつむいていたから泣いていたと思われたらしい。
「男なのに、泣くなんて恥ずかしいぞ」
  クラーラが威張ってそう言った。俺は笑ってクラーラを抱きしめた。
「俺はそうは思わないなあー。男だって感動したり悲しかったりしたら泣いていいんだぜ? 女の子だって剣で戦う時代だものな」
「えー、そうなの?」
「パパやママがどういうこと教えてるか知らないけどな、男らしくとか、女らしくとか、そんなの本当はどうだっていいんだぞ。クラーラがクラーラらしくあることのほうが、ずっと輝いているんだからな」
「そうなのー?」
  クラーラが目をきらきらと輝かせて聞き返してくる。
「俺はいつだって俺自身だったぞ。多少みんなに怒られながらだったけど、お前のママだって昔はすごいオテンバだった。クラーラにだけ淑女を期待するのは無しだよなー?」
  俺はにやにや笑いながら、クラーラを肩車する。
「さーて、ヴィリーおじさんのところに行ってみるか」
「ヴィリーはお兄さんだよ?」
「俺だけおじさんかよ。まあいいや、ママと同い年じゃあおじさんだよな」
「うん!」
  力強く肯定された。おじさん決定。
  そうしてヴィリーの部屋をふたりで訪問した。ヴィリーに向かって特攻兵のように突っ込んでいくクラーラを抱きとめて、ヴィリーがこちらを見てくる。その視線が何を物語っているのか、俺にはよくわからなかったけれども、理解できるようになりたいと思った。
「ヴィリー」
「なんだ? 兄さん」
「ハグしてやるから来いよ」
「なんだいきなり。慰めてほしいならシャルロッテのところに行けばいい」
  ヴィリーは両腕を広げた俺を無視して、クラーラを抱きしめた。
「ごたごた考えている暇があったら、シャルロッテを幸せにすればいい」
「それがお前の幸せ?」
  俺の質問に、ヴィリーは仏頂面で
「俺は兄さんほど欲張りじゃあない」
  と呟く。
「兄さんと、シャルロッテと、あと何人かの知り合いが幸せならばそれでいいんだ」
「俺は領民全員にハッピーであってほしい。これ俺のスローガン。欲張りか?」
「周囲の人間の幸せだけ願うような人間に領主は務まらない。兄さんはそのままでいい」
  俺はにんまりと笑った。なんだかんだ、ヴィリーはみんなの幸せを願っている。

 俺は、これからも無神経に誰かを傷つけるのかもしれない。そうして迷ったり、後悔したり、悲しんだり、するのかもしれない。だけど俺は俺の望む領主になって、俺の望む父親になって、俺の望む俺自身であり続けたい。
  それはヴィリーにも、シャルロッテにも、ベリンダにもクラーラにも、テオにも言えることなのだ。みんなが自分の人生の主人公であり続けてほしい。