顎に当たるカミソリが心許ない。僕の頬は髭剃り用のクリームがたっぷりとつけてある。そして丁寧に僕の頬や顎の髭を剃り落としている男――僕の幼馴染である湖緑(フーリュー)の視線を感じている。視線、その先にあるのはどう考えても僕の喉だった。
「あなたは髭を剃るのが下手ですね」
  ようやく綺麗になった僕の頬をタオルで拭いながら、湖緑はそう言った。僕は椅子に座ったまま、ガチャガチャと椅子の背面に回された拘束具を解こうとしていた。
「解こうとしてもその姿勢だとお辛いでしょう?」
  湖緑は金色の目を細めてにっこり笑った。
「下も剃ります?」
「馬鹿言わないでよ、脛毛は残しておいて」
「上から下までつるつるにして差し上げてもいいんですよ? あなたは剃るのが下手ですから」
「僕の脛毛と脇毛に手を出したら口利かないから」
  ガツ、と拘束具が洗面台にぶつかる。手錠が千切れるようなひっかかりを探し手を動かすが、ぎりぎりまで腕を上げても引っ掛ける場所は見つからなかった。
  僕は湖緑を見上げる。長い黒髪を後ろでアップにして、肌はおしろいがはたいてある。目の下には泣きぼくろがあり、これが彼のコンプレックスなのを僕は知っている。湖緑は綺麗だ。女になりたいわけじゃあないだろうし、オカマなわけでもない。だけど彼は化粧をするし、女のように艶めかしい。
  湖緑は艶のある笑顔をつくって、右手でカミソリを弄びながら僕にこう言った。
「兪華さん、今ここであなたを殺せば、あなたは女に生まれ変われるんじゃないでしょうか。だとしたら私は間違いなくあなたを殺すのに」
  彼の顔には狂気じみた光は宿っていない。それが逆に狂っていると感じる。彼は正気のまま、こういうことを考えるのだ。
「湖緑くんが女に生まれ変われば? 君が自殺したところで僕は普通に生きるけど、もし出会うことがあったら相手してあげるよ」
  洗面台の白に赤い血が散った。カミソリで切られたんじゃあない、頬を首が折れるほどの角度で叩かれた。口の中を切ったんだと気づいたのは洗面台に散った血を見たときだ。
  僕は湖緑を見上げる。彼の視線は冷酷で、僕を叩いたことに何の呵責もない。
  一方僕も叩かれたことも、血が出たことも気にしてなかった。湖緑の平常を保とうとしている冷たい視線を心底馬鹿にしたように見上げる。
「馬鹿馬鹿しい」
  湖緑がそう呟くのを聞いた。
「君はこの十五年で随分壊れたね」
  僕が壊したんだってことぐらいわかってるけれどもね。

 湖緑と会ったのは十一歳のときだった。彼はいいところの坊ちゃんで、僕も由緒正しき軍人の家系に生まれていた。
  最初の頃は顔見知り程度だった。当時の湖緑は今ほど髪の毛が長くなかった。僕の手はもう精神力を吸い取る呪われた手だった。
  十三歳になると、ヴェラドニア軍学校は士官候補生と一般兵に分けて教育を始める。当然、僕も彼もコネの関係上、エリート教育を受けるクラスに入ることになった。
  当時の僕はドレインできる相手を探していた。自分の精神力が枯渇する前に誰かの精神力を吸い取らないと、僕は気が狂いそうになるからだ。
  手近におけるペットが欲しいと思った。いつでも都合のいいタイミングでドレインできる、半永久的に吸い取るだけの目的の友達を探した。
  そんな邪な目的の標的にしたのが湖緑だった。彼に定めた理由は簡単だった。一つ、彼の精神力は美味しそうだった。二つ、僕はすでにこの異能のせいで嫌われていて、彼はその高飛車な性格で嫌われていた。三つ、彼は僕の異能をまだ知らない。
  湖緑に話しかけて、「友達になろう」と手を差し出した。彼の精神力がどんな味がするのか、とりあえず吸ってみようと思った。
  ところが差し出されたのは白い手袋のついた手だった。彼は僕のてをがしっと握ってきた。男の握力だった。湖緑の手は容姿に似合わずかなりがっしりしていた。
「今日は手袋つけてないんですね」
「握手するのに手袋は失礼でしょ?」
「知らないです。とりあえずよろしく」
  少しも笑顔を作らず湖緑はそう言った。僕は彼が僕と仲良くなる気がないことを知った。だけど彼は爪弾きものだったから、僕といっしょに行動する気はあったようだ。
  まあいい、ドレインする機会はいずれあるだろうと思った。

 湖緑は料理が上手だ。
  どこで覚えてきたか知らないが、寮の彼の部屋に行くと、必ず夕飯のご相伴に預かれる。
  僕は彼の作った湯豆腐をすすり、彼は僕が買ってきた漬物を齧る。僕は湖緑の作った味噌汁をすすり、湖緑は僕の買ってきたビールを飲む。
「そういえば、十五年になりますね」
  先ほど僕がそう言ったのを思いだしたらしく、湖緑はそう言った。あれから十五年も経った。僕はあの頃より自己中心的でなくなったし、彼はあのときより外面が良くなった。しかし僕はあの頃より愛に飢えてたし、彼はあの頃より僕に対してやりたい放題だ。
  総じて言えることは、僕は丸くなった、彼は内弁慶になった。
「最初に『友達になろう』って言ってくれたのは兪華さんでしたね。あの頃私はあなたと友達になる気なんてなかったですよ。せいぜい暇つぶしの相手くらいでした」
「知ってた」
「何故知ってて、私と友達になろうと思ったんです?」
  湖緑は心底不思議そうに、理由を聞きたそうな目でこちらを見てきた。
  ドレインするペットが欲しかったと答えるのが失礼な気がして「寂しかったから」と僕は答えた。
  訂正。総じて言えることは、湖緑は僕に本音で話すようになり、僕は彼に嘘を吐くようになった。