軍人たるもの、士官たりとて実践訓練を怠ることはできない。
  僕と訓練のときに組手をしてくれる人間はあまりいない。どこまでもお人よしのキリシュ先輩は今は軍人をやめてしまった。あとは元ルームメイトのレオンと湖緑ぐらいしか積極的に相手してくれる人間はいないときた。だから衛兵同士の組手のときは、湖緑が僕の相手をすると決まっている。
「兪華さん、手加減しないでくださいね」
  手合わせの前に湖緑が念を押すようにそう言った。僕はそれに「分かった」とも、「嫌だ」とも答えなかった。
「始め!」
  合図とともに、僕は湖緑に向かって走りだす。湖緑はどちらかといえば防御から動くほうが得意な人間だ。僕から攻撃をするのは分が悪いとわかっていても、こっちの挑発には乗ってこないだろう。
  僕の拳を湖緑が受け流す。流されたほうの腕でエルボーを繰り出す。湖緑はそれを身をかがめることで避けると、僕の腹に拳を叩きこむ。腹筋に力を入れてそれに耐え、脚に力を入れてブレーキをかける。湖緑のニ撃目が腹に当たり、三発目に掌底が胸に当たる。僕はそのダメージをすべて逃さず耐えて、湖緑の鳩尾に膝を叩き込んだ。
  湖緑は身体を浮かせることで痛みを逃し、僕の腕を関節と違う方向に向かって捻りにかかる。当然そのままだと筋がやられるので、僕は痛い身体をそのまま宙で反転させて、湖緑のサイドに飛び下りる。彼がねじっている手と反対の手で、彼の顔を殴ろうとした瞬間、動きが思わず止まった。
  結果、吹っ飛んだのは僕の身体のほうだった――。

「兪華、こっちへ来てもらおうか」
  上級士官のヴィルフリート先輩に呼ばれて、僕は寮に戻るのが少し遅れた。彼は眉をきりきりと上げたまま、僕を睨みつける。
「湖緑に手加減するんじゃあない」
  彼ははっきりそう言った。手加減した気はなかったのだが。
「あいつに手加減するのはお前の甘さだ。そのうちお前は誰かに潰されるし、湖緑に潰されるかもしれない。それでいいのか?」
「いいえ」
「じゃあ何故、実戦のことを考えない? 湖緑はお前の相手をいつもしている。ということは彼は他の相手を知らないのだぞ?」
  そういえばそういうことになる。しかし湖緑の顔だけは殴りたくないのだ。
「何故だ?」
  詰問される形だった。言って通じるかわからなかったが、仕方なく
「あの人の顔を殴るのは気がひけるのです」
  と言ってみる。ヴィルフリートは呆れたような顔をした。
「でも他はどうでもいいです。容赦無く殴ります」
「勝手にしなさい」
  注意する気が失せたようで、ヴィルフリートに帰るように言われた。寮に帰るまでの道のり、僕は湖緑のことを思いだした。
  彼は訓練が終わると、汗で落ちた化粧を急いで直していた。彼はどうしてそんなに顔に自信がないのだろう、あんなに綺麗なのに。

 彼が化粧をしだしたのは、十七歳の頃だったと思う。他の男たちも、髪の毛が短いのにブラシを持ってきたり、使う気もないのに油とり紙を用意するような色気づいた年頃だというのは理解しているつもりだ。
  僕は別に女に興味がなかったのでそんな行動はとらなかったけれど、湖緑は自分の顔にニキビがでてきたこと、それを女の子に馬鹿にされたのを気にしていた。
  化粧をした彼を男も女も馬鹿にした。湖緑は気にしていない素振りを見せてやっぱり気にしていたのだと思う。それ以来、彼は顔以外の肌を人に見せなくなった。
  廊下の端で湖緑がかがんでいるので、気分が悪いのだろうと思って近づいたことがあった。
「ニキビが潰れたんです。顔が上げられません」
  女の子だってそんなことは気にしないぞ。呆れるような、彼の深刻さがわかるような。
  僕はとりあえずハンカチを湖緑に渡す。
「大丈夫だよ、これで隠せばいいでしょ。お茶の石鹸使うとニキビが減るらしいよ」
「信じません。何やっても減らないんですから。頑固なニキビなんです」
  ハンカチを受け取ってそれでニキビを隠して歩き出す湖緑の横を、僕は歩く。
「兪華さんは肌が綺麗で羨ましいです」
「だからお茶の石鹸がね」
「使ってるんですか?」
「母が使ってたんですよ。僕に石鹸をいっぱいくれたんで湖緑くんにも一個あげます」
「敏感肌なんで」
「気に入らなかったら他の使ってくれていいから」
  なんだこの会話。女の子のようだと思いながら、母が美容に詳しかったことを感謝した。
  寮に戻り、湖緑といっしょに本を読んだり雑誌を腹ばいになって見たりしていた。そのとき僕の読んでいた雑誌に、湖緑のように髪の毛の長い女の人が載っていた。
「この人、湖緑くんに似てるね」
  僕がそう言ったのを聞いて、彼が顔をあげる。そして写真の彼女を見て、首を振る。
「僕はそんなに綺麗じゃないです」
「なんで?」
「肌が汚い」
「気にすることないよ」
「やっぱり汚いんですね」
  あのとき綺麗だと言ってあげなかったのは僕のミスだと感じる。僕はそれ以来、彼の顔だけは傷つけられなくなった。
  それが僕の罪だと思っているから。