ところで彼にまつわる思い出といえば、猛烈に彼に拒絶されたときのものが強烈だ。
  あれは十三歳の夏だった。そろそろ彼の精神力を吸っても咎められないだろうと考えた。というよりも、僕はもうその頃精神力が枯渇して飢えていた。
  人気のないところで手袋を外し、湖緑くんの頬に手を添えた。彼はその触り方が気に入らなかったらしく、仕込杖を前に突き出した。杖の中にはダイスが入っていて、それがころころ転がった。
  刹那――僕の首には首輪が、僕の手首には手錠がかかっていた。
  シエル・ロアの住人はみんな異能を持っている。彼の異能は「拘束」というものだった。

 異能は僕ら、シエル・ロアの人間のそれぞれの本質を表しているらしい。
  だとしたら湖緑の本質は支配――コントロール。
  じゃあ僕のこの「吸引」という異能の本質は、僕そのものの本質は何にあたるのだろう。
  僕は吸わなきゃ飢える。吸った相手はぼろぼろになる。僕は愛されない。相手は僕を拒絶する。
  僕の本質は「愛される資格がない」じゃあないよね? なんて考えていた子供の頃、僕は湖緑くん以外の友達に話を聞いてほしかった。
  というより、その頃は本音を湖緑くんに話せなかった。秘密を共有できるような、そして僕にとって都合のいい相手が欲しかった。
  そして僕は十四歳。色々想像力が発達していた時期だという自覚はある。
  ある時教科書でもう一人の自分に会いに行く女の子の話を見て、僕も自分に会ってみようと思ったのだ。
  そして僕は自分の中にもう一人の自分を作り出すことに成功した。

「何を考えているんです?」
  僕の長々とした回想は、現実逃避の目的もあった。現在僕は湖緑に拘束されていて、彼は僕に馬乗りになっている。
  彼は僕のネクタイをいじりながら僕の痴態を眺めていて、僕はネクタイを引っ張られたことで現実に引き戻された。
「僕は君のことばかり考えてられるほど暇じゃないんだ」
  嘘です。君のことを考えてた。
「そうですか。私はあなたのことを考えてましたよ。このまま食べてしまいたいと」
「ふーん」
  気のない返事をしてみる。
「いいよ。ただし食べるときは一人でシチューにしてね?」
「誰かに食べさせると思ったんですか?」
  湖緑は僕のネクタイを掴んで、上半身を引き寄せると、耳元で囁いた。
「血の一滴たりとも残しません」
  ああ、病んでる病んでる。
  湖緑は本当に僕が壊したのだと思う。

 湖緑の噛み癖はどうにかならないんだろうか。あのあと頬に噛み付かれて、僕はそれを絆創膏で隠している。
  自分のニキビを隠すことには必死なのに、僕には印をつけることにまったく罪の意識を感じないようだった。
「兪華、また湖緑と喧嘩したのか?」
  書類を届けたときに同僚のレオンにそう聞かれた。あれを喧嘩というのかはわからない。痴話喧嘩なのはたしかだ。
「喧嘩です」
「そうか。仲直りしろよ?」
「じゃれあってただけですから。どうせ明日もいつもどおりですよ」
「そうか。そういうのは親しい仲でも、ちゃんと謝るものだぞ」
  レオンにそう言われて、こくりと頷く。レオンは書類を受けとって別の部署へ持っていった。
  謝る? 何を?
  誰に? 湖緑に?
  僕は? 僕が悪いの?
  僕が悪くないとは思わない。しかし湖緑が絶対悪い。
  衛兵の詰所に戻れば彼は書類を今もまとめている。マスクをつけているのは風邪を引いているからだとさっき言っていた。
  湖緑は風邪くらいじゃ仕事を休まない。熱くらいじゃ仕事を休まない。失恋したくらいじゃ仕事を休まない。彼はいつ仕事を休むのだろう。休日も仕事を休まない。
「湖緑くん、今日はもう帰っていいよ」
  こんこん咳をしながらパソコンに向きあう湖緑にあとは自分がやるからと言ったが、彼はそうしない。全部湖緑が悪いだろう、僕は彼に親切にしたというのに、彼が聞かないのだから。
「兪華さん、仕事の邪魔をするなら帰ってください」
「お前が帰れ」
「邪魔ですよ。帰れ帰れって」
「だから、僕がやっとくから帰って寝てよ」
「いやです。あなたの書類は雑だ」
「帰れ!」
  結局また喧嘩してしまった。僕は謝らないぞ。

 湖緑が帰らなかった結果はわかると思うが、つまり悪化した。彼は翌日初めて仕事を休んだ。
  仕事は少し大変だったが、どうせ悪化して休むのだったら半休して治して今日も出勤してきてくれればよかったのにと、湖緑に腹がたった。腹がたったのに、僕は見舞いのハーブティーをブレンドしていた。母に教えてもらったハーブの知識が地味に役にたった。
  普段はノックして彼が開けてくれるまで待つのだが、今回は無断で上がって無断で粥をつくり、寝ている湖緑の横に無言でハーブティーの水筒を置いた。誰がやったと言わずとも彼ならきっと理解する。湖緑をお見舞いするのも、ハーブを合わせるのが得意なのも僕くらいなものだ。
  部屋をそのまま出ようとしたら、小さな掠れた声で「兪華さん」と呼ばれた。
「すみません」
  今、謝った。湖緑のほうから謝罪したのか。
「仕事なら平気だった」
「違います」
「他に心当たりないよ」
  僕に謝りたいものがなんなのか、僕は聞く勇気がなくてそのまま外へ出た。湖緑は追いかけてこなかった。

 さて、お約束の展開ってわかるかい? つまり今度は僕が風邪をひいた。自業自得というやつだ。
  湖緑が悪いとはいわない、しかし僕が悪い。
  だけど僕は湖緑と違って仕事を休むぐらいのことはする。そして僕のほうが熱が高かったのも事実だと思う。身体がどうしようもなく動かなく、半休ではすまなかった。
  母から教えてもらったハーブの知識をフル活用しても、僕の熱は半日では引かなかった。しかたなく精油をたらした冷湿布を額に乗せて、風邪にきく香りを焚いていた。
  僕が目覚めたとき、何に驚いたか知ってるかい。味気ない僕が作ったお粥からとてもいい出汁の味がしたんだ。あいつが来た証拠だった。
  翌日、湖緑も僕も風邪は治っていた。
  そして僕は湖緑に謝らなかったし、湖緑は僕に謝った。
  いつも先に素直になるのは湖緑で、僕は素直になれなかった。