バシン! と頬を殴打される感覚で僕は悪夢が始まったことを知った。
  父の木蓮(ムーリェン)は僕のことをなんとも出来の悪いものを見ているような目で見てくる。僕はなす術もなくリビングに佇んでいた。自分がどうして殴られたかもわからなかった。僕は小さな子供に戻っていて、父親の一撃で首が折れるかと思ったくらいだ。
「お前に兪華なんて名前をつけるんじゃなかった」
  こういう言葉は傷つく。理由もなく自分の存在を否定された気持ちになる。僕はひりひりする頬を押さえることもなく、父を見つめていた。木蓮は僕のしょんぼりした視線が気に入らないようで、「毅然としろ!」と怒鳴りつけた。
  怒鳴りつけられて、僕がどうやり過ごそうか考えているうちに、父の顔が大きくアップで映った。
  否、アップで映ったと思ったそれは父の生首だった。血まみれになった木蓮の首が僕の顔めがけて降ってきた。僕は思わずその首が地面に落ちたら泥がつくと思い、キャッチした。血まみれになることなんて気にしていなかった。
  父の身体はそのままぐらりとこちらに向かって倒れこんできた。僕はそれも抱きとめようとしたけれど、子供の身体じゃ支えきれずに首なし死体に下敷きにされた。
  木蓮を銃殺した人間が近づいてくる足音がした。影ができたから見上げると、そこにいたのは現在の年齢の自分だった。
「君のことを否定するお父さんなんて殺しちゃえばいいんだよ」
  大人の兪華はそう言った。そして首なしの死体を足で横に転がし、僕が抱えていた木蓮の首をサッカーのように遠くへ蹴飛ばした。
  僕を抱き上げて立たせると、血を拭ってくれた。そしてにっこりと笑う。
「君を否定する父親はもういないよ」
  正気か? この大人兪華はそれで僕が喜ぶとでも思っているのだろうか。
「ああ、もう一人邪魔なのがいたよね」
  大人の兪華がそう言うと、僕の背後でテレビのワイドショーの音が大きくなった。
  父の生首と首なし死体が転がっているリビングで、そんなこと気にしていない様子でずっとテレビを見ている母親が目に映った。
  僕は大人の兪華が母親も殺してしまうのではないかと心配になった。
「お母さん、逃げて!」
  僕がそう叫ぶと、母親は
「兪華、テレビの音が聞こえないわ」
  と言うだけでとりあってくれなかった。
「君のお母さんってずっとこんな感じだったよね。まったく小さな君に興味がなかった」
  大人の兪華を僕は見上げた。彼は母親を殺そうとはしなかった。
「愛情をくれない母親、憎しみしか湧かない父親。どっちも君にはいらないでしょ?」
  大人の兪華は僕を見て、薄笑いを浮かべる。ポケットから小さなテレビのリモコンを取り出して、僕に渡してきた。
「テレビみたいにさ、ママの電源を消しちゃいなよ。こんなものいらないって」
  さあ、やるんだとばかりに僕の身体を母親に向ける。僕は母親をじっと見つめて、手が震えた。母親はこっちを向いてくれなかった。こっちに関心さえ示してくれなかった。
  僕は無関心な母親から目をそらした。手元のリモコンが目に飛び込んだ。電源以外のボタンには番号も何も書いてない。
  もう一度視線をずらす。すると今度はにやにや笑っている大人の兪華が目に入った。僕はそいつの薄笑いが気に入らなくて、そしてともかく怖くて、思わずそいつにリモコンを向けて電源ボタンを押した。
「消えろ! 消えろ!」
  僕のその必死さが大人の兪華には面白いらしく、深い邪笑を浮かべたまま、彼はずっと佇んでいた。
「じゃあ、消えてあげるよ」
  大人の兪華はこめかみにさっきの銃口をあてがうと、それを思い切りぶっ放した。大人の兪華の首が僕のほうにころころと転がってくる。血まみれになった大人の兪華の生首が僕を見上げる。
「自分を否定したのは君自身だよ」
  どこからともなくけらけらと嘲笑う声。薄笑いを貼りつけた生首が僕を見つめていた……。

 目が覚めたときに汗はかいてなかったが、後味の悪さが残っていた。
  まったく不愉快な夢だ。
  黒兪華め。あいからわず悪趣味だ。
  僕はよく夢を見る。夢か現実かわからないくらいリアルだと自分では感じている。
  そして夢の中にいつも出てくるもう一人の、兪華の姿をしたまったく違う誰か――僕はこいつのことを単純に黒兪華と呼んでいる。僕が白いわけではないけれども、、こいつは本当に陰湿な性格をしているからだ。
  黒兪華は予想外の産物だった。前に言った、もう一人の自分に会いに行く女の子のお話を真似して生まれた自分がこいつだったのだ。
  黒兪華はある事件がきっかけで、心の奥に閉じ込めることになった。だけど僕が疲れてきたりストレスが溜まってきたりすると夢に現れる。

 父、木蓮が生まれたときに祖父母は庭に木蓮の苗木を植えたという。
  しかし父が大人になるまでその木は花を結ぶことがなく、その理由を祖父母は「木蓮が優しい子に育たなかったからだ」と父に言ったらしい。
  僕の母が
「子供に花という字を使えばいいじゃない。あなたの木に花が咲いたことになるわ」
  と言ったせいで、僕は女の子みたいな兪華という名前を授けられる。
  かくて、父は兪華という息子――花を授かったわけだが、僕はこのとおり軍人であるには少しナイーブすぎる性格だ。父は花が優しさの象徴だから、僕が女々しい性格に育ったのだと思ったらしい。
「お前に兪華なんて名付けるんじゃなかった」
  厳格な父が当時言った心ないセリフの意味や、生まれたときに託された願いはあとから母に聞かされた。
  母とは大人になったらうまくいくようになった。母はお母さんではなく、奥様なのだと思ったら僕が色々と諦められるようになった。
  奥様は花から作った精油で石鹸や化粧水を作るのが好きで、ガーデニングが好きで、料理を作ったり、カルチャースクールに通ったりするのに夢中で子供にかまうのを忘れていたのだ。奥様はお母さんに進化せずに奥様のままとどまったのだ。
  そう思ったら気が楽になった。別に母は僕のことを愛してなかったわけではないということがわかったのは大人になってからだった。

 士官学校を卒業しても僕は実家に帰らなかった。あそこに居場所がなかったわけではなかったが、あそこが居場所だったわけでもない。留まる意味は特になかった。ならば仕事場に近い軍の社宅を借りたほうが自由もまだきくというもの。何より父と顔を合わせる回数が少なくなるのが嬉しかった。
  父とは管轄が違うため、すれ違うこともあまりない。たまにすれ違ったとしても、こちらが部下として敬礼してもあっちは親として声をかけてくれることも、上官として挨拶を返してくれることもなかった。何をやっても認めてくれない父親なのだ。