六月だ。実に不愉快な雨が湿度で、外は雨が降っていた。僕は湖緑の部屋で彼のいれた緑茶をすすっていた。湖緑に仕事を辞めると言えば、きっとこの関係は終わるんだ。終われば色々なものから逃げたことになるけれど、すべてから解放されたことになる。
「夢を見ましたよ、兪華さんの」
  仕事を辞めると宣言する機会を探していると、湖緑が先に口を開いた。
「二人で戦場にいて、仲間とはぐれて交互に見張りをしながら援軍が来るのを待っている夢です」
  僕は湖緑の干菓子入れからおかきを取り出し口に含み、また緑茶を啜る。
「最期まであなたといっしょにいられるなんて幸せだと思いました」
「生き残ることを考えなよ。帰ってきたら僕といっしょに鍋を食べようとか」
  僕が思わずそう言うと、湖緑は苦笑して「夢の中のあなたにもそう言われましたよ」と言った。
「いつまでいっしょにいられるんでしょうね。私たちは」
  僕は沈黙する。今のタイミングならば、辞めると言い出せるんじゃあないかと思った。
  辞める、辞める、辞める、辞める。心の中で何度も繰り返し呟く。湖緑との惰性で続いた関係も、軍で父親に従うだけの人生も、全部辞めて、全部僕自身のものにする。
  この年齢から一から歩き出すのは怖いけれど、やらずに終わるよりはマシだろう。
  だから辞める、辞める、辞めるんだ。
「実はね、僕辞めようと思うんだ」
  僕は切り出した。湖緑が静かにこちらを見つめている。
「そうですね。よしたほうがいいかもしれないです。そのおかき、実は賞味期限切れていて」
  湖緑にそう言われて、口に運びかけていたおかきを干菓子入れに戻した。
「ふざけんな。僕は賞味期限の切れたおかき処理機じゃないんだぞ?」
「あなたが勝手に私の干菓子入れに手を突っ込んだんでしょう。あげるとも言ってないのに」
「こんな取りやすいところに置く湖緑くんが悪いんでしょ。食べてとばかりに置いてあるから」
「辞めるって軍を辞めるんですか?」
  湖緑が直球で聞いてきた。
「私は辞めてほしくありません」
  僕の喉がこくりと鳴るのがわかった。湖緑の視線はあまりにまっすぐ僕を捉えていた。僕が逃げるのを許さなかった。彼は異能を使わずに僕を束縛した。
「離れたくありません」
  僕は答える言葉が見つからず、しばらく沈黙していた。湖緑はじっと僕を見ていた。僕は視線をそらしたかったのにそらせなかった。
  僕は逃げようとした。湖緑は逃げなかった。湖緑の視線に気圧されて、僕は「辞めないよ」とぽつりと呟いた。
  安堵する湖緑に、僕は自分で決めた結論さえあっさり覆す自分に嫌気がさした。
  湖緑のことを勘違いしていた。彼の異能――拘束の本質は、支配やコントロールではないんだ。彼は拘束なんて使わずとも僕を束縛することができた。僕が望んだんだ、彼の近くにまだいたいと。「離れたくありません」という言葉だけで僕を縛り付けた。
  嫌いな人の庭で自由であるより、愛する人の隣で荊の檻に閉じ込められているほうがよっぽど幸せだと言った詩人がいたのを思いだした。彼の本質はこれとたぶん似ているんじゃあないかと思った。ただ離したくない、それだけだったと気づくのにこんなに時間がかかった。湖緑のやり方も馬鹿だけど、僕もとても馬鹿だった。

 二回戦が開幕した。カジノで銀の星を十個手に入れると金の星ひとつと換金してくれるというもの。
  僕らはカジノでたっぷりと遊んだあとに、階下のホテルへと戻った。ただ遊んだだけだった。この部屋を用意してくれた連中に少し協力することで、星を獲得できる契約をしていたからだ。その話はいずれ別のときにするとしよう。
  ルームサービスのワインを飲んでいると、扉をノックする音が聞こえ、湖緑がボーイから何か受け取った。
  僕は湖緑が星を二つ見せびらかしてくるのを見て、マフィアの黒狸が約束を守ったことを確認した。これで晴れて僕らの任務は完了だ。
「祝い酒どう? 湖緑くん」
  僕がワインを彼に勧めると、湖緑は疲れているらしく首を横に振って隣のベッドに腰掛けた。
「シャワー浴びて寝ます。明日も仕事ありますし」
「このお酒二人分くらいあるよ?」
「残せばいいじゃないですか。どうせマフィアの財布からお金は出るんですし」
  湖緑はそう言うと、簪を引き抜きあの長い黒髪を背中にたらした。
  僕が思わず息を呑むのに彼は気づいていない。彼は正装のチンパオをぽいぽいと無造作に脱ぎ捨てて、そのままシャワーを浴びると持ってきた浴衣に着替えて寝てしまった。
  僕は酔っ払っているのだろうか。真横のベッドで寝ている湖緑の、無防備な姿をガン見している。そして今ならキスしてもバレないだろうかなんて考えていた。
「君は男でもいけるよ」と言った黒兪華の言葉を思い出す。そんな馬鹿な、と思わずにはいられないけれども僕の身体は、思考はそっちのほうにシフトしていた。
「僕も寝よう」
  ワインの飲み過ぎだ。僕は残りのワインに栓をして、遠くへと押しやった。電気を消して湖緑の顔が確認できないようにして、静かに自分のベッドに潜る。
  眠れたかと聞かれたら緊張して眠れなかったが、湖緑はそんな僕の気持ちに気づくこともなく朝からルームサービスのホットケーキを元気にぱくついていた。
「寝ている私にドレインしたりしてないでしょうね?」
  と聞かれたときに、ドレインより先に欲情した事実は一生言えないなあと思いながら「したかったよ」とだけ答えた。君を抱きたかったという意味で捉えなかったらしく、
「ドレインすることしか考えてませんね」
  とだけ湖緑は答えた。

(了)