僕を見下ろす女性を見上げたまま、僕はどうしてこうなっているのかについて考えた。
  女性は上半身裸で、僕もシャツをはだけさせている。
「どいてよ」
  僕は娼婦らしい女性にそう言った。彼女は憤慨する様子もなく、さっさと馬乗りになった体勢からベッドを下りた。僕ははだけたシャツのボタンを閉める。女は僕がシャツのボタンを締め終わるのをじっと見ていた。
  僕は何の用事だろうと思ったけれども、娼婦なのだから部屋代と夜伽代を要求しているのだと気づき、床に捨ててあったジャケットから財布を取り出す。女に金額をうかがうように視線を上げると、彼女は指を三本立てた。随分安い値段で身体を売っているのだなと思いながら、年のいった娼婦に金を支払った。
「僕、こんなところまで来るほど酔ってたの?」
「べろんべろん。何か嫌なことでもあったのかと思ったわ」
  特に嫌なことがあったわけではないと思うが、今日の昼にあった出来事を思いだした。たしか見知らぬ軍人に湖緑との関係をからかわれたのだ。
「お前が女役だったり?」
  という言葉は不快だった。そんな下世話な質問をしてくるのは黒兪華だけで十分だ。
「ねえ、君って守秘義務についてどう思う?」
  娼婦はホクロのある口元で笑うと
「守秘義務も守れず接客業できると思う?」
  と答えた。秘密は守ってくれる主義らしい。僕は財布から金を取り出す。
「僕の秘密を聞くのにいくら払えばいい?」
「ゲーム期間中は夜中に仕事しちゃいけないって言われてて私とても困ってるの。あるだけ全部ちょうだい」
  けっこう金にがめつい女だった。僕は財布をベッドの上でひっくり返す。そこからバラバラと落ちてきた小銭と、財布の内側に張り付いてる数枚のお札を彼女へと渡した。
  そして僕はベッドに腰掛け、彼女も隣に腰掛けた。
「幼馴染の男への気持ちをどうすればいいか悩んでいる」
  僕がとつとつと話す内容を、湖緑についてどう感じているのか、友達としては度を越した感情なのに恋仲になりたくないことなど、本当どうしようもなく、誰にも言えなかった内容を娼婦に話した。娼婦はその話を静かに聞いてくれた。
  聞くだけで、相槌もろくに入れなかったし、いいとも、悪いとも言わなかった。どうすればいいと教えてもくれなかった。
  最後に僕の頬に母親のように優しく接吻してくれて、
「辛かったわね」
  とだけ言ってくれた。
  僕は辛いのかと言われたらわからない。辛いと感じたことはないと思っていた。
  娼婦は僕の手袋に手をかけて、引きぬいた。ドレインのことも話したはずなのに、彼女は手を握ってくれた。僕は彼女から根こそぎ吸い取りたいという気持ちはなかった。手に感じる女の指の感触は、若い頃の母の手に似ていた。
「帰るよ」
  僕は自分から手袋をつけて、そのぬくもりから逃げるように彼女の身体を押しのけた。
  彼女に下心があったようには思えなかったが、僕が女の人がダメだと知ったのはこのときだった。

 かといって、男とどうなりたいわけでもない。湖緑とどうなりたいわけでもない。
  社宅の自分のベッドに寝転がって泥のように眠れば、疲れていたようであいつが出てきた。
  黒兪華は白い部屋で白衣を着ていて、僕は私服で椅子に腰掛けていた。まるで医者と患者のような配置だ。
「君は病気じゃあないよ、兪華くん」
  黒兪華はそう言うとホワイトボードをこちらに向けた。そこには赤いマジックでハートマークが書かれている。
「恋をするのは、人を愛するのはごく自然な欲求であり、男に性欲があるのもまったく不自然なことじゃあない。むしろそれを否定したり拒絶する精神のほうが不健全だよ」
「わかりきったことだね。消えて欲しいんだけど」
  僕がすみやかに要求を彼に告げると、黒兪華はホワイトボードをあらぬ方向に投げ捨てた。
「君はきっと男でもいけるんじゃない?」
「女の人もダメだったというのにそんなハードルの高い質問しないでほしいな」
「好きものだとは言ってないよ。君が愛したのは一人の人間であってその性別がどっちであるかはおまけだ。事実君は湖緑が男だから好きなわけでもないし、女であったとしても好きになっただろう。兪華くん、君の抱えている悩みは病気と言うにはあまりにありきたりな感情だ。恋だよ、恋。憧憬の感情だ」
  黒兪華は本棚から雑誌を取り出す。ポルノ雑誌のようで、こちらにページを開くと、脚を開いた女性が写っていた。目のやり場に困っていると、黒兪華はずずいとさらに近づけてくる。
「女の裸に興味がないわけじゃあないだろう」
「当然だね」
「つまり身体が病気なわけじゃあない。そして身体はどちらかといえば男に反応するんじゃあないかと思うよ」
  黒兪華が何を言ってるのかわからず、僕は眉をしかめる。黒兪華は僕と唇の触れそうな距離まで近づくと、「覚えてないの?」と言った。
「君は僕の下に組み敷かれて、とても気持ちよさそうにしていたじゃない」
「不愉快」
  僕は即不快さをあらわにした。
  あれは十七歳の時だったと思う。黒兪華の横暴をそれまで許し続けた僕が彼を心の鍵の向こうに閉じ込めるに至った事件。つまり僕はこいつに無理やり抱かれた。起きたときに夢精していたのだけは今も汚れた記憶だと思っている。
「そう? とても気持ちよさそうだったよ。声も可愛かったなあ。まるで初めてこじあけられたかのようにひーひー泣いてさ」
「黙らないとまた閉じ込めるよ?」
  黒兪華は身体を離すと、肩をすくめた。
「君が性的なものを否定したい気持ちはわかるけれども、湖緑が好きなのは事実でしょ? その気持ちに嘘がつけるって言うならば、あいつに『嫌い』って言ってみればいい。二度と近づくなと。そうすれば君の迷いにも結論が出る。破局って意味での」
  始まってもいないのに破局ってどういう意味だと思ったが、そこで意識が途絶えた。夢から覚めた僕は内容のあらましを雑把にしか覚えていなかったけれど、湖緑と別れればいいと言ったあいつの台詞だけは鮮明に覚えていた。