兪華は漂白したシャツに袖を通すと、いつものようにネクタイをきっちりと締めた。
  ネクタイを締めるときにきっちり締めてしまうのは癖だった。神経質なくらい歪んでいないかが気になる。
  社宅を出て、すれ違う上官に挨拶をして、後輩に逆に挨拶される。
  ゲームが終わって軍も日常を取り戻しはじめている気がする。
  シエル・ロアの支配権をめぐるゲームは夏にやっと終った。結果は軍の勝利で幕を閉じた。
  軍も兪華たち今までどおりの生活とは言えないが、それでも生活できていたし、シエル・ロアは概ね順調のように感じた。
  ゲーム中の冷静さを欠いた軍でもなかったし、特に熱中するようなエキサイティングな出来事があるわけでもなく、日常は滞ることなく進んでいた。
  衛兵の詰所に入ると先に仕事をしている湖緑が目に入った。
  構わずタイムカードを通して、今日のシフトを確認する。湖緑のほうは気づいているのかいないのか、挨拶をしてこようとしない。
「湖緑くん、おはよう」
  兪華のほうから挨拶をすると、湖緑は顔を上げて今気づいたような顔をすると
「おはようございます、兪華さん」
  といつもの丁寧な口調で挨拶を返してくれた。どうやら彼は昨日からずっと仕事をしているようだ。目の下にクマがある。
  クマを指摘すれば気にして家にいったん帰るのではないかと思い、兪華は近づいた。湖緑は視線を少しだけ上げただけで、また書類に目を落とした。
「目、すごいクマだよ」
  兪華がぽつりと言うと、湖緑はぴくりと反応しただけで、仕事に戻る。
「あと少しで終わるんです」
「体調管理できないのは感心しないよ、湖緑くん」
「好きでやってるし、迷惑かけた覚えなんてありませんから」
  なんだか苛立つような口調の様子を見ると、睡眠不足は相当のようだ。兪華は困ったように湖緑を見下ろす。こんな状態で午後の訓練に入ったら湖緑は倒れてしまうのではないかと心配だ。
「湖緑くん、その仕事僕が代わるよ」
「心配してくれるのはありがたいですが、嬉しくはありません」
「元帥も部下が自己管理できないのは喜ばないよ?」
「こんなところで元帥の名前を持ち出すのは卑怯です」
  湖緑の書類を読むスピードが止まっている。集中力も散漫なようなのに、彼はそれでもまだ仕事を続けようと気力だけでがんばっていた。兪華は再度呼びかける。
「湖緑くん」
「しつこいですよ!」
  ガタン、と湖緑が立ち上がろうとした。兪華は湖緑の様子を伺おうと覗きこんでいるところだった。
  結果、半ば頭突きのような形で湖緑の唇が兪華の唇に触れた――。
  かと思ったら、そのまま勢いづいた湖緑のスタンドアップに兪華は舌を噛むような形で後ろにのけぞるハメになった。
「兪華さん!」
  危うく倒れるかと思うような角度で床にひっくり返るのだけは押しとどまり、ひりひりする顎をさすりながら兪華は体勢を元に戻す。
「湖緑くん、集中力散漫な状態で午後の訓練は無理だよ。今から半休とって寝てよ」
  湖緑にそう言うと、兪華は彼のデスクから書類をかき集めて自分のデスクへと持っていった。
  隣から視線を感じて振り返ると、レオンがこちらを呆れ顔で見ている。
「俺さ、仕事を肩代わりしちゃうのもあんまり感心しないんだけど」
  そこで一旦区切り、レオンは湖緑が出ていったのを確認して、兪華のほうを見た。
「今、お前たち口と口ぶつかってたぞ。ぶちゅーって」
  レオンは下世話な話が好きそうな顔はしていなかった。早朝なため、まだ詰所にはまばらにしか人はいない。元々色事がろくな形で起きたりしない軍では、兪華と湖緑のキスが噂になるようなそんな下らなさはないと思うが……。
「事故だよ」
  兪華は平然を装いそう言った。レオンは兪華の表情が作られたものだということに気づいているような顔をしている。
「お前こそ仕事になるのか? キスってたしかトラウマなかったっけ?」
  レオンにそう言われて兪華の耳がぴくりと神経質に反応した。眉間にシワを寄せなかっただけまだマシだが。
「どこで知ったの?」
  小声で棘のある口調で言うと、レオンはさらに小声で「ずっと前」と答える。
「クラス違ってもさ、中学生の頃ってそういう噂ってすぐ流れるんだよな。お前あの頃様子おかしかったし、こりゃガチだと思った」
  知っていながらずっと知らないフリをしていて、今更になって言ってくる元ルームメイトのことを少しきつい視線で睨みつけてしまった。
「昔のことだよ。あれも、今日のこれも事故だし」
「なんでも自分が我慢すればそれでいいって思うなよ? そのうち大変なことになるかもしれないし」
  レオンは嫌な予感を含んだ言い方でそう言うと、自分のデスクへと向き合った。兪華も昨日起きた事件の書いてある書類へと向き直る。報告書をまとめる作業は慣れていたが、湖緑のように丁寧な作業には向いていないのは自覚している。
  我慢しているわけじゃあない。好き放題やれることはやっているつもりだ。
  どうせみんな自分勝手なのだから、世界が自分にやさしいわけがない。

 それからも、湖緑とは普通に友達の延長線上の関係が続いた。
  兪華が湖緑の部屋にごはんを食べに行くのはいつものことだったし、湖緑が世話を焼いたり拘束して兪華を足蹴にするのもいつものことだった。
  その日もいつものように湖緑の部屋へ夕飯を食べに行っただけだった。
「兪華さん、この味どうでしょうか」
  味噌汁を小皿にすくって湖緑が小首をかしげる。
  味噌汁なんて味噌と出汁を溶かすだけじゃあないか。そんなに味が変わるとは思えない。
「それでいいよ」
「味見もしていないのにいい加減なこと言って」
  湖緑は腹をたてて自分で味噌汁の味をみていた。
  兪華は立ち上がって湖緑の隣まで行くと、湖緑をじっと見つめた。
「もう遅いです。塩が濃くても知りませんからね」
  機嫌をそこねた湖緑が眉を寄せるので、その唇についた味噌汁をぺろりと舐めた。
「!?」
「塩濃すぎ。薄めてよ」
  口を押さえる湖緑のことは気にせずに、兪華はテーブルへと戻った。
  別に何の気なしの気まぐれだった。そうしたら湖緑は驚くんじゃあないだろうかという、そんな子供じみた出来心だった。
  食事が終わったあと、食器を持って行ってくれるはずの湖緑はいつまでも兪華をじっと睨みつけたままだった。
「なんで、あんなことしたんです?」
「あんなこと?」
  何のことを指してるのだろうと最初わからなかったくらいだ。
「キスです」
「味見のことか」
  わざと言い直したことで湖緑の苛々が募るのが目に見えてわかる。
「顔が近かったから出来るかなって思っただけだよ。悪気なんてない」
  湖緑は何か言いたげな様子だったが、黙って立ち上がると食器を持って行って洗いだした。
  兪華は満腹だったせいか、まぶたが下りてうとうとしだしたのを自覚した。
(部屋に戻らなきゃ……)
  そう思ったときは意識が飛んでいた。

 次に起きたとき、唇に何かやわらかいものが触れていることに気づいた。
  目を開けるとすぐに飛び込んできたのは誰かの睫毛。
  思わず、その誰かを突き飛ばして起き上がる。
  ベッドに寝かされていた。突き飛ばした相手を見たら湖緑がベッドの向こうの壁に頭をぶつけている。
  ぞっとした。ベッドに縫い付けてキスをして、それから何をするつもりだったのかと鳥肌が立った。
「寝てるときに何のつもり?」
  不機嫌というより、恐怖を隠すように咎めるような口調で言った。
「顔が近いからキスできるかなと思って」
  さっきの兪華を真似て湖緑が切った唇を拭いながら笑った。
  白々しい。湖緑はまるで、こちらの怯える姿を見抜くかのような笑い方をしている。
「あのね、寝てるときそういうことされると怖いから」
「あなたが先に不意打ちしてきたんですよ」
「無抵抗なときと起きてるときじゃ全然意味が変わってくるでしょ」
「へえ。起きてるときだったらキスしていいんですか? じゃあもう一度キスして差し上げましょうか」
「ふざけるな。ドレインするよ」
「どうぞ。拘束してからしますから」
「口からもドレインできるって知ってた?」
「嘘ですね。十余年聞いたことないですし」
  お互い睨みを聞かせながらベッドの上で罵り合った。
「ディメンター」
「SMハイヒール」
  自分たちの思いつく限り最悪に幼稚なレッテルを言って、そっぽを向く。
  だけど部屋に帰る気にはならなかった。そして湖緑が部屋を出ていく空気でもなかった。
「よそう、小学生じゃあないんだ」
「そうですね。ディメンターは言い過ぎました」
「湖緑くんはハイヒールじゃない」
「当たり前じゃないですか」
  お互い悪いところも認め合えた。今のうちに謝っておけるものは謝っておこう。
「反省したよ。不意打ちは心臓に悪い」
「そうですね。合意の上でするべきでした。兪華さんが嫌がるならよすべきですね」
「嫌がってなんか……」
  言いかけて、自分で何を言っていると思って口をつぐむ。
  おかしい、絶対今の発言はどこかおかしかった。
「仲直りにキスします?」
  湖緑にそう言われて、まるでそうしなきゃ仲直りにならないような目で見つめられる。
  次第と湖緑の顔が近づいてきた。嫌だと言うことはできたはずだったが、言葉がつっかえて出てこない。
  鼻と鼻がくっつくほどの距離でもうバカらしくなって兪華は目を閉じた。
  唇と唇が重なる。
  喉がこくりと鳴るのがわかった。自分からキスを受け入れたのはもしかしたら初めてかもしれない。
  仲直りのキスが終わって気まずそうに目をそらした。
「帰る」
  兪華はそのまま逃げるように部屋に帰った。