何かの理由につけてキスするなんてことは大したことじゃあない。
  その目覚しい進歩に自分でも驚いた。
  湖緑と部屋にいるとき一度はどちらからかキスすることが増えた。
  最初は怖がったほうが負け、のようなチキンレースに近かった。次は感じたほうが負けの主導権争いだった。恥ずかしがったほうが負けと長くキスすることもあった。
  そんな怖いもんじゃあない。相手もふざけてるのに自分だけ馬鹿みたい。
  舌がもつれてうまく絡まないのも最初のうちだけだった。
  相手の舌や口の中のどこがいいのか探りあうくらいにはなった。
  貪り合うように重ねて口の中を蹂躙し合った。
  教習のあとに誰もいない訓練所でキスをした頃には、もう湖緑とのキスで羞恥心なんてカケラも芽生えなくなっていた。
  自分でもどうかしていると思った。エスカレートしすぎだろうと思ったが、半分自棄だ。
  結婚するつもりもない、女性と関係を持つつもりもない。湖緑とそういう関係になるつもりもないが、湖緑以外とキスするのは嫌だ。
  ならば割りきってしまえと思ってからはキスは愛のツールでもなんでもなく、お互いがまだ離れていないことを確認しあうゲームでしかなかった。

 

 顎を伝ったヨダレを指で拭われて、離れた唇がもう一度求めるように重なった。
最近じゃ一度のキスじゃ終わらなくなった。
  拘束されても噛むよりキスされることが増えてきた。
「兪華さん……」
  熱の篭もった声で湖緑が名を呼んだ。
  用事ならあとにしてくれないだろうか。この瞬間だけは他のことは考えずにいられるほうが楽なのに。
「抱きたいです」
  湖緑の言葉にぎょっとして、とろんとしかけた目が一気に覚めかけた。
  固く締めたネクタイに湖緑の指がかかり、引き抜かれる。
「無理っ」
  思わず、湖緑を突き飛ばす。
  湖緑はややよろめき、こちらをじっと見つめる。
「兪華さんを抱きたい」
「僕が下? ふざけるな」
「主導権を握るのは当然私でしょう。自分から動かないあなたが上はありえない」
  自分が主導権を放棄したからといって下で受け入れる役をやる義務なんてこれっぽっちもありはしない。
  兪華は足早に人ごみのほうへと向かった。
「兪華さん――!」
  呼ばれても振り返りさえしなかった。往来のあるホール近くまで来て、安心したように胸をなでおろす。
  しばらく湖緑の部屋には行くべきじゃあない。彼に異能を使われたら完全にアウトだ。

 いつからか湖緑との会話がスムーズに行かなくなった――。

 見張りの交代時間になった。仕事から開放されるというのに、次の相手と会うことを思うと憂鬱になる。
  長い黒髪を帽子の中にきっちり収めて、かつて一番仲の良かった友人が姿を現した。
  視線が会う。すぐにそらした。
  そのまま立ち去ろうとすれば、湖緑は兪華の肩を掴み、一瞥だけくれてきた。
「社交辞令はするものですよ」
「……。お疲れ様です」
  求められた言葉とは違う、社交辞令という名の拒絶をした。湖緑は諦めたように手を開放する。
  他の見張りは、彼らがここまでぎくしゃくしている理由がわからないようだった。
  ふざけて「夫婦」と言われることもあるくらい仲のよかった二人が、ここまで長い間、会話らしきものをしてないのを見るのは初めてだと思う。
  事実、兪華にとっても初めてだった。

 初めて「兪華さんを抱きたい」と言われたあの日からしばらくしたある日、軍の倉庫にまた呼び出された。
  今度こそはっきり言ってやる必要があると思った。
  肉体的な関係になるつもりはないのだという旨を伝えようと。
  兪華は男性とも女性とも寝る気はなかった。
  自分の異能は人の精神力を吸い取るというものだ。触れた相手は男女問わず萎える。
  学生時代に女性から不評だったことだけで十分である。もうあとは静かに生きようと思った。
  倉庫に行っても、湖緑の姿は確認できなかった。
  先に来てしまったのかと思って壁に体重を預けた。
  その瞬間、壁から首輪が飛び出してきて兪華の自由を奪い取った。近くに湖緑が隠れていたことに気づいたが、もう遅かった。
  彼の目は本気だった。殺されるか、犯されるぐらいはするかもしれないと思った。
  湖緑の手にはビニールに入った注射器があった。なんだかすごく嫌な予感がした。軍の研究班でこれは見たことがある。
「自白剤ですよ。わかってるでしょう?」
  湖緑は当然とばかりにそう言って、それを手際よく兪華の静脈に注入した。ちくりとした痛みと、なんとも嫌な感覚が血中に広がる。
  大声を出したが、助けはこなかった。そうして血中にあっさり回った自白剤により思考力は低下し、手はだらんと垂れ下がった。
  まるで気分がすぐれぬときのように、俯いた。が、すぐに顎に手をあてがわれ、上を向かされる。
「気分はどうですか?」
「……すこぶる悪い。ぐちゃぐちゃの、スープになったみたいだ」
「効いてきたみたいですね。縛られてる気分は?」
「首が苦しくて吐きそう……」
  拘束具は緩みつつあった。しかし頭が働かず、どうやればこの環境から逃げられるか考えられない。
「じゃ、異能が有効なうちに聞き出しましょうか。兪華さん、あなた私のことどう思ってます?」
「初めて会ったとき、小さい頃好きだった女優と似てると思った……。性格キツいところは似てないけれど」
「ほう、女優ですか……。今はどうです?」
「友達」
「他に何も感じていない?」
「たまに女見てるみたいな視線で見てた。抱きたいと思ったこともある」
「へえ。屈辱です」
  兪華は熱に浮かされたような視線で湖緑を見た。友人は笑っていた。プライドをへし折るのが楽しいとばかりに。
「私があなたとヤりたいと言ったとき、あなたどう思いました?」
「ちょっぴり、考えた」
「それで?」
「無理だと思った。だけどそのあと部屋に戻ったら……」
「戻ったら?」
  湖緑の顔が愉悦に歪む。顎をぐい、と上に強く持ち上げられ、喉が軋んだ。
「頭の中で湖緑くんを、汚してた。ごめんなさい」
「許しませんよ」
「僕はそれで、湖緑くんのことをどう見てるかも、どうなりたいかも、わからなくなった」
「そうでしょうね。私のほうはけっこうストレートに表現してるつもりですが」
  兪華のズボンを止めているベルトが静かに引きぬかれた。何も考えられないが、これからどうされるかぐらいはわかった。
「いやだ、犯されたくない」
「じゃあ、いい声で啼いてくださいよ。抵抗されるほうが興奮します」
  軍服のズボンが引き下ろされて、下着も引き下ろされる。
  湖緑はすぐに手が届かないほど遠くへとズボンと下着を脚で蹴飛ばし、ゆっくりと下半身についている兪華の性器に触れた。
「いやだ、怖い」
「素直に怖がってればいいですよ。どう怖いか聞かせてください」
「体の中に入ってこないで」
「あなただって私のことを頭の中で汚していたんでしょう? 汚らわしい目で私のことを見ていた。違いますか?」
「そのとおり……だけど」
「じゃあお仕置きしてもいいですよね」
「いやだ」
  ゆるゆると刺激されて下肢が興奮していくのがわかる。ゆらゆらとぼやけた視界で、湖緑の笑っている顔を見つめた。
「興奮してきましたよ。どうしたんです?」
「湖緑くんが触るから……」
「それで?」
「気持ち……よくて」
  自分の口から溢れる言葉に蓋ができないことを呪う。自白剤の効果だとしても、考えたことを反射的に口がしゃべっている。
「恥ずかしい。自白剤いつまで効くんだろう」
「しばらくは効いてますよ。拷問のときと同じ量使いましたから」
「じゃああと……」
「三時間以上ですね」
「絶望的」
  口からとつとつと言葉が溢れる。
「もういやだ。しゃべりたくない」
「どうぞ。ずっと聞いてますよ」
「あっ……そこ……」
  もう考えるのはよした。湖緑は兪華の下肢を刺激して、言葉で罵り、兪華がどう感じているのか薬のちからで引き出して唇を歪めている。
  情けないほど早く吐精したのがわかった。
  湖緑の手袋が、自分の精液で汚れているのを見せつけられる。
  そのままビニール袋に自分の手袋をしまって、ポケットに証拠隠滅すると湖緑は自ら服のベルトを外しだした。
「挿れないで」
「聞くと思うんですか? そんな願い」
「なんでも聞くから挿れないで」
「聞くと思うんですか? 兪華さん」
  後ろの鍵穴に指を突っ込まれて中をぐりぐりと探られる。
「挿れないで。怖い」
  指の数は減るどころか増えた。二本の指が排泄をする器官をかき混ぜる。ぬちゃぬちゃという音がするのは腸の粘液だろうか。
「女みたいに濡れてきましたよ。兪華さん」
「気持ちよくない」
「じゃあどんな感じです? 犯されてる気分は」
「怖い」
「それだけですか?」
「吐きそう。ぐぇ……っ、体の中、僕じゃないみたい」
  勢いを失ってるはずなのに元気のない男性器からまた吐精した。
  湖緑は「いやらしいですね。誘ってるんですか?」と言ったが、そんなつもりはまったくない。
  片足を持ち上げられて、湖緑が男なら当然ついているものが下肢に当たる。
「いやだ」
  湖緑はそんな抵抗は聞かずに中に押し込んできた。
「いやだ、湖緑くん」
「全部入りましたよ? 感想は?」
「痛い」
  誰もいない倉庫で何度も乱暴に突き上げられた。
  立ったままぐらぐらの拘束具ひとつで身体を支えていたし、自白剤の効果で膝に力は入らなかった。
  両腕は自由だったけれども捕まる場所もなかったから湖緑に縋る形で体重を支えていたのだろう。
  何を言ったかは覚えてない、何を言われたかもあまり記憶にない。
  最後のあたりじゃ「痛い」とは違うことをうわ言のように呟いていたのだけは覚えているが、そんなこと思い出したくもない。
  やるだけのことをやったら、湖緑は勝手に服を着た。
「それじゃあ、ごきげんよう」
  新しい手袋をきっちり付け終えた湖緑が軽く敬礼する。ふざけやがってと思ったが、吐いた呪いの言葉に湖緑が振り向くことはなかった。
  薬が切れるまで、着替えられるようになるまで倉庫の影に身を隠した。
  もうどうでもいいと思った。
  帰ったら身体を洗って、中に出されたものの処理をしなければいけない。
  脱がされてむき出しの下半身が心元なかったが、情けなくなって閉じたら女みたいな角度になった。もうばかばかしくなって、足をてきとうに投げやったのを覚えている。

 部屋に戻って風呂に入った。
  精油を垂らすのも忘れて、風呂の中で丹念に身体を洗った。
  身体の外側も内側も、洗えるところ、すすげるところは全部洗った。
  口の中に昔突っ込まれた、彼の指の味を思い出して途中で吐いた。
  口の中にはそれでも彼の指の腹の味が残っていた。
  自分が悪いことはわかっている。
  散々煽るような真似をした自覚もあるので、自業自得という気持ちもあった。それでも怒りはぬぐい去れなかった。
  冷静になるのを待とう。
  今の状態で会話するのはまずいと思い、湖緑を避けようと決めた。