おそらく誰かに知られたとしても「お前も楽しんだんだろ?」と言われる気がした。
  楽しんだのかと言われれば、痛かったことしか覚えていない。薬で頭はぼんやりしていたが、彼は乱暴だった。いたわってやろうなんて気持ちは微塵もなさそうだった。征服欲だけで穿たれて、感じるとしたらそれはマゾでしかない。
  マゾでしかない……。
  本当に感じていなかっただろうか、と振り返るのはよすことにした。最後のあたりで何を言っていたかなどわからないが、犯した張本人の湖緑以外に何を言ったのか知っている人などいないのだから。

 ぐるぐるした思考を置き去りにして日常は続いた。
  食堂で一人で食事をする毎日だった。
  レオンはいつも相手をしてくれるわけではない。彼には友達がたくさんいる。そして兪華にはレオンと湖緑しか友達がいない。
  食堂を出ていき、午後は完璧オフだったので時間を潰すために図書室へと赴いた。
  湖緑は今の時間勤務の真っ最中だ。つまりここならゆっくりできる。
  学生時代以降用事のなかった図書室で背表紙を眺めていると、唐突に背表紙に影ができた。
  振り返ると自分より年のいってそうな男が立っていた。
  湖緑じゃあないかと思った自分はどうかしている。湖緑を恐れているのか、湖緑を期待していたのかさえわからない。
「どうもこんにちは」
  ここの本棚に用事があるのかと思い、立ち去ろうとすると肩を掴まれた。
「下っ端、こっちへ来い」
「なんですか。いきなり」
「やってほしいことがあってな」
  雑務なら自分の部下に命令してほしいものだ。縦社会じゃ逆らうこともできずに長身黒髪の男のあとをついていく。
  書庫の中はかび臭かった。本を運ぶ仕事ならば重いから嫌だなと思った矢先だ。
「壁に手をついてこっちにケツ向けろ」
  言われた台詞の意味を理解する前に走りだしていた。書庫の扉を開け放ち、外へと一目散に飛び出す。
「どうした? 図書室で走るとは感心しないな」
  すぐさま咎めるような声が聞こえ、上官のヴィルフリートがこちらを睨んでいるのに気づく。
「助けてください」
  そう言った直後、鬼の形相で追いかけてきたさっきの軍人が出てきた。
  ヴィルフリートは狼男のような顔をした軍人を端正な顔で見上げて、険しい表情をした。
「詳しく聞かせてもらおうか」

 ヴィルフリートのいいところは軍の秩序を乱すことならば罰してくれることだ。
  しかし彼は上官のソフィアに話してその男を免職にする手続きをした。
  相手がソフィアでよかったと感じる。父親に話が通ったらそれこそ大事だった。
「湖緑とまだ仲直りしてないのか?」
  一人でシエルロアの見回りに行こうとしたらレオンにそう言われた。大きな懐中電灯を小脇にかかえて警備の帽子をかぶりながら、兪華は「僕は悪くない」と言った。
「悪くなくたってお前の友達、湖緑と俺くらいだろ。いざってときどうするんだよ? 俺がいつでもいるわけじゃあないのに」
  俺は忙しい。そう言わんばかりの表情でレオンが眉をしかめる。
「なんとかするよ」
  そうとだけ言って夜間の見回りに出た。

 シエルロアは社会福祉を充実させないとどこかでパンクすると言った学者がいた。
  たしかにそうだろうと思う。グラーク元帥が主導権をとったときはシエルロアに秩序が訪れることを期待したものだ。
  ところがグラーク元帥は統治権を放棄した。何が理由なのか、下っ端の自分たちには知らされていない。
  どの組織が統治してもその組織は大変になり、それ以外の組織は行動しづらくなる。そう言ってた同僚もいた。
  だからだろうか。秩序のレールを引く手間を考えて、行動できる幅を広げるために統治権を放棄したのだろうか。
  そう想像をふくらませてみるも、目の前で艶やかに着飾って媚びを売る娼婦たち、金を乞う乞食、チンピラがこちらを避けて端を歩く姿……そんなものを見ているとなんだかこれでいいとは言えないと思ってしまう。
  不満なものはたくさんあった。だけどどうすれば不満じゃなくなるのかはわからない。 ともかく不満なのだ。
  なんとかしたいとは思わない。
  ともかく不満なだけだ。
「なあ軍人さん」
  声をかけられて、視線のはるか下に子供がいることに気づいた。
「ちょっと来てくれよ。大変なんだ」
  子供は走りだす。何が大変なんだと思って首をかしげるが、子供は「はやく!」と叫ぶだけだ。
  説明しづらい事実があるのかもしれない。軍人である以上業務をサボるわけにもいかず、子供を追いかけた。
「こっち、こっちだよ!」
  子供が大声を張り上げる。何かあるように見えない。
「ほら、ここだって。見てみて」
  小さな穴を指さされて、何か犯罪の痕跡でもあるのかと身を屈めた瞬間、頭を誰かに殴られた。

 次に蹴られて目を覚ましたときはどこかもわからないところに居た。スラムの廃墟ビルのどこかじゃあないかと思うが、まったくわからない。
  腕が拘束されて、目隠しをされているのがわかった。
  その上下半身がすーすーする。まったく何もつけていない上に、変な尻を持ち上げたような角度で、腹の下には倒した椅子がさしこんであり、脚がぐるぐると固定されている。
「どういうつもり? 湖緑……」
「誰だ? そいつ」
  声はもっと粗野な語調だった。この声はどこかで聞いたことがある。
「思い出したか? 図書館で会ったよなあ」
  あいつか。解雇されたのを根に持ってご丁寧に乱暴するだけのために子供を利用したようだ。どこまでもゲスはゲスだなと鼻で笑う。
「誰だったかな?」
  強がってそう言うと、尻を靴で蹴飛ばされた。
「今からじっくり教えてやるよ。忘れないようにな」