湖緑に犯されたとき以上に苦痛以上の何もない、あるとしたら不快さだけという屈辱を味わわされたあと、男は縄も目隠しもほどかぬまま、去っていった。
「そのままくたばれ」
言われた言葉には答える価値もなかった。
一日二日放置されたくらいじゃ人は死なないものだ。その間に誰かが見つけてくれるだろう。とても屈辱的な格好で見つかるのだけ癪だが、それも仕方がない。
そんな悠長な構え方をしていて最初は追い詰められないだろうと思った。
一人で目隠しをされて、誰も話しかける相手のいない一時間は異常な長さだった。いや、一時間だと思ったのは感覚でしかない。本当は一日かもしれないし、十分かもしれない。ともかく耐えられないほどの長い長い、苦痛な時間だった。
寝ても覚めても、腸内の不快な異物感と、吐き気と、渇きと、空腹と、孤独と、戦うだけの時間が続いた。
「そろそろ駄目なんじゃない?」
見上げると自分の分身、黒兪華がいた。
目隠しをしているのに見えるということは、夢の中だろうか。
「いや、君が見ているのは幻視だ。君は起きている」
「へえ。ついに現実にまでしゃしゃり出てきたんだ」
「強がらないでよ。どうせ僕しか話す相手いないんでしょ? 兪華」
黒兪華は口を歪めて、今も床に這いつくばらせられている格好の兪華の前にしゃがみこんだ。
「気が狂いそうなのがわからないほど、僕は君のことがわかってないわけじゃあない。幻視だよ? わかるか、君は狂い始めたんだ」
「僕は正気だ」
きっと、この場に誰かいたらひとりごとを言っているように聞こえるのだろう。狂ってることくらい自覚がある。
「君が寂しくないようにずっと話しかけておいてあげる」
黒兪華は頬杖をついたまま、小さい頃の兪華はどんな感じだったか、傷ついた思い出、嬉しかった思い出、笑ったことなどをだらだらと話しだした。
これは走馬灯なのだろうか。随分と思い描いていたものとは違うなあと考える。
「ねえ、仮に死なずに帰れるとしたら最初に何したいの? アロマのお風呂?」
黒兪華の質問に、こいつは自分が死ぬと思っていることを確信した。そりゃあそうだ。何日食べていないのかわからない。犯された排泄器はとっくの昔に排泄物ごと精液を押し出して床を汚していた。
しばらく排泄を繰り返したら床を汚すものさえなくなった。
つまり一日や二日じゃない時間経過している。このまま見つからないまま終わる可能性が高い。
「湖緑くんの味噌汁が食べたい」
お腹が空いていた。喉も乾いてた。ミネラルも不足していた。
湖緑としゃべっていなかった。
恋しかった。仲直りしないまま死ぬのだけは心残りだった。
黒兪華は小さく「へえ」と呟く。
「じゃあ、生き延びよう。湖緑と仲直りして、味噌汁食べようよ」
あるはずもない黒兪華の指が兪華の髪をそっと撫でたのを感じた。幻触まで始まっているようだ。
「強がらなくていいよ、兪華。ここには僕と、君しか居ないんだから。不安なんでしょう? どうしてほしい」
「……馬鹿みたい」
「抱きしめて欲しいならそうしてあげるよ。それとも罵って欲しい? 君が欲しいものは全部見せてあげる。アンデルセンにもそういうマッチがあったでしょう」
「三度見せてもらったら死ぬあれね」
「そうだよ。湖緑を見せてあげようか?」
はっ、と鼻で笑うくらいにはまだ元気だった。黒兪華はその様子を見て、うっすらとなっていき消えた。
「黒兪華」
一人の時間はまた続いた。
「ごめん、黒兪華。僕は生意気だった」
そう言ったところで姿をもう一度見せてくれることはなかった。
「ねえ、僕が死んだら湖緑くんは泣くと思う?」
返事はかえってこない。
「ざまあみろって思うかな」
急に不安が広がり、心細くなった。
「兪華さん」
ああ、湖緑の声まで聞こえ出した。一本目のマッチを擦ったみたいだ。
「兪華さん、この格好、どうしたんです?」
「うるさいな。いつも君がやってることでしょ」
目の前に映る湖緑が懐中電灯で兪華の恥ずかしい姿を照らしながら見下ろしている。
「心配したのに、元気そうですね」
「仲直りしたいと思っていたところだよ。僕の幻だってことくらいわかっているけれど、君の味噌汁が恋しい」
「いくらでも作って差し上げますよ。ナイフあったかな……それにしてもくっさいですね。何日放置されてたんです?」
「時計見れるわけないじゃない。何日いなかったの?」
「もうすぐ一週間になります」
具体的すぎる幻視幻聴だと思ったところで、我にかえった。
「本物?」
「偽物がいるんですか。目隠し外しますよ?」
視界に光が飛びこんできて、眩しさで目眩がした。覗きこんでるのは湖緑だと霞んだ目にもわかった。
「ありがとう、助かった」
ほっとしたようにお礼を言う。だけど意外な反撃があった。
「一ヶ月以上口を聞いてない人をいきなり助けたりはしません」
なんだって? この環境で腐れ縁の幼馴染にそんな意地悪をする気か。
「兪華さん、たしかに私が自白剤を打って無理強いしたのは悪いと思ってますが、事情くらい聞いたらどうなんです?」
「あとで聞くよ」
「今まで聞いてくれなかったのにまだ引き伸ばすつもりですか。いいですか、あなたのことが好きなんですよ。聞きましたか? 好きなんです」
「ねえ、今そんな気分じゃないんだ。あとでしっかり話は聞くし、話し合うよ。だからまずこのままにしないで」
湖緑が不機嫌そのものな顔をして、静かに立ち上がった。
「じゃ、そのまま糞尿にまみれて死んでください」
そのまますたすたと立ち去る靴音。
完璧に怒ったようだ。完璧に愛想を尽かしたようで、また静寂と、目隠しを外したことで飛び込んだ廃屋を走るネズミの影だけになった。
「湖緑!」
大声で叫ぶが、反応はない。
「湖緑、くそっ!」
普通助けるだろう。普通そうするだろう。
自分が甘ったれなことくらいわかるが、こんなときくらい助けてくれたっていいだろう。細かいこと抜きにしてそうしてくれたっていいだろうと腹が立った。
「湖緑、化けて出てやる」
呪ったところで幽霊の姿で湖緑に会いに行けるならまだマシだと思った。
自分はきっと、このまま死ぬ。
心が決壊して、しくしくと泣いた。
我侭ばかり言ってごめんなさい。
産んでくれた母親、逆らってばかりの父親、甘えるばかりだったレオン、喧嘩したままの湖緑。
ごめんなさい、ごめんなさい、許して。
幼児退行したかのように、親に許してもらえないときの気分だった。
どうしたらそうしてもらえるのか、わからない。どうしたらもう一度愛してもらえるのかわからない。
親の愛なしで生きていけない子供のように、今湖緑の慈悲なしで生きては帰れない。
だけど湖緑が帰ってくることはなかった。
もう死ぬんだと思って目を閉じた。
いろいろ、人のことを大切にしない一生だった。だから最後は大切にされなくて終わるんだ。まったく自分らしい一生だった。
父親の言うことなんて何一つ気に入らなかった。父親がどれだけ配慮してくれたかなんて、考えてもわかりたくもなかった。
母親が手をつないでくれないことをずっと恨み続けて、それを理由に人をどんどん鬱に追い込んだ。母親が頭は撫でてくれたことさえ不満だった。
ひどい息子でごめんなさいと謝ったが、それで何が解決するわけじゃなあなかった。
もう一度あなたたちのお腹から生まれたら、もっといい子になりたいと誓ったところで次に生まれてくるときも同じ兪華になることくらいわかっていた。
「兪華さん」
遠くでそう湖緑の声がして、靴音が近づいてくる。
ハイヒールが見えたと思ったら、湖緑がしゃがんで着替えを隣に置いた。
「普通なら見捨てるところですよ。まったく」
少しは懲りたか、と言いたげな視線だ。
「だけど、好きだから助けてあげます。特別ですよ」
こくりこくりと涙ぐんで頷いた。
ナイフで足首が自由になり、次に手首を自由にしてもらえた。
「さ、着替えてください」
湖緑の言葉は聞こえていたようで、まったく耳に入っていなかった。
兪華は湖緑にしがみつくと嗚咽をもらした泣きだした。
「なんでもするから、もう一人にしないで。湖緑くんから離れたくない」
湖緑は兪華の背中を撫でて、兪華が泣き止むまでずっと抱きしめていてくれた。
おとがいを持ち上げてキスをしてくれた。
まだ繋がっているよと言われている気がして、体から力が抜けた。
「着替えて帰りましょう」
母親が子供を着替えさせるように、タオルを水筒のお湯で濡らして綺麗にしてくれた。着替えも手伝ってくれた。
体を支えて、廃屋から出るとタクシーのある通りまで出て、すぐに基地まで連れ帰ってくれた。
レオンがごはんを作ってくれようとしたが、湖緑がレオンを追い出した。
レオンは何か複雑そうな顔をしたまま出ていった。
味噌汁のお椀が差し出され、口に入れたらいつもどおりの味がしたから、また涙がこぼれた。
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