生きづらいからといって安易に死ぬわけにはいかない。生活しづらいからといって生活から逃げるわけにはいかない。人と接触したくないからといってすべての関係が断てるわけじゃあない。
  結局雪狐は生きているし、生活しているし、仕事もしている。大人になれば当然なことだと人は言うが、生きやすくなった諸々の条件と引換に、がんじがらめになったものも多い。得たものと失ったものの対価がいっしょなのかと聞かれたらわからない。
――今回あなたたちに下す命令は、シエル・ロアのゲーム運営として重要な任務となるでしょう。ヴァーチャルゲーム『The Key of Eden』にアクセスしたシエル・ロア市民の意識がログインしたまま戻ってこないという事件が発生しています。すみやかに問題を調べて、可能ならば解決方法を探すように。
  色気のないメールで運営のメンバーに配られたアイシェの指示と「エデンの鍵」と記されたディスク。パッケージには知恵の林檎に鍵穴のCG。
  ディスクをインストールし始めるまわりの運営エージェントたちから少し遅れて、雪狐はパッケージの裏を見る。

 エデンの鍵のルールは単純である。
  これは異能と知恵で解決していくエニグマなのだ。
  そして君たちは気づくだろう。エデンの鍵とは、エデンとは、知恵の林檎とは――

 雪狐は大げさだなあと思った。
  得られる情報といえば、これは異能以外の能力は全部制限されるゲームだということくらいだ。
  雪狐の異能は目に入るものすべての情報を一気に把握すること、忘れないこと、それくらいだ。知恵というにはいささかコアな能力だし、わかると思うがこれによって雪狐は神経質な性格になった。
  手袋なしでは物に触れられないし、食べること排泄すること、セックスすること、空気を吸うこと、すべてが雪狐にとっては拷問に近い。
  それでも雪狐は生きている。兄の黒狸は「お前は生きているだけでいいよ」と優しく言ってくれる。しかしそんな兄の歯についた歯垢が雪狐には気になって仕方がない。皮膚に浮いた脂が気になって仕方がない。髪の毛が落ちたスーツが不快で仕方がない。
  当然そういう余計な一言はほとんどの関係に亀裂さえ生じさせるわけだが……。
(僕と組んで仕事してくれる人なんていないんだろうな)
  運営の中でも雪狐は少し浮いている。基本激情型の少ない同僚たちは口には出さないまでも、雪狐の神経質さが癪に障っているはずだ。
  雪狐はパッケージを開いた。中には真新しいディスクが入っている。中古でなくてよかったと思った。だとしたら触ったあとに手袋を変えなければいけなかったところだ。
  雪狐がヘッドホンをはめようとしていると、後ろに影ができた。
「隣、いい?」
  今回用意された運営の会議室は、二人ずつ座って隣にいる人間とペアになるようにできている。つまり一人ではクリアできないゲームだからなのだが、多すぎても意見が割れる可能性、犯人が確定してないため、標的を分散する目的などを踏まえて少人数制かつ、複数送り込むという作戦になったようだ。
  自分に話しかけた男女は、たしか虎子(フーズー)と言ったはずだ。女のように美しい顔――と周囲は言うが、雪狐から見たら汚いメイクをした男にすぎない。運営の仕事のときはメイクを落とすので少しマシになると思うくらいだ。
「虎子、僕と組んでくれるの?」
「君、どうせ一人ぼっちでしょ。僕は誰と組むかは特に気にしないんだけど、この任務失敗したらログアウトできなさそうじゃない? それはちょっと勘弁だよね」
  虎子は隣に腰掛けて、ヘッドホンを手にとる。雪狐はインストール画面が終わるのを待ちながら、虎子を横目でちらりと見た。髪の毛にちりちりのソバージュがかかっている。あんなにちりちりしていたら埃がつきやすいのに、何がいいのか雪狐にはわからない。
「僕の異能は知ってると思うけれど、ほとんど役に立たないよ? 虎子」
「知ってる。僕の異能も重力を操るだけだよ。特に役には立たない」
  虎子の異能のほうがまだ役に立つような気がしたが、たしかに目立って役に立つような気はしなかった。
「異能と知恵しか使えないって言うけれども、だったら僕は『知恵』をパートナーにしたいんだ。ハサミなんてゲーム中に見つけりゃいいんだよ、ハサミを握るコントロールできる人間は僕と同じか、僕より頭のいい人がいい」
「買いかぶりすぎだよ」
  自分が頭がいいと思ったことはない。兄が馬鹿だと思ったことはあっても、雪狐が賢い証拠にはならない。世の中の人間のたいていは些細なことで悩んでいると思うが、雪狐はきっと人が一切スルーしている小さなシミひとつで悩んでいるのだから人のことは言えない。
  つまり自分は馬鹿じゃあないかもしれないが、賢い人間だとは限らない。それが雪狐の自己認識だ。
「得意科目は?」
  虎子の何が目的なのかわからない質問に「理科と算数」と答えた。虎子は「僕は英語と国語」と答えた。
「理系は実際役に立つから素晴らしいね」
  虎子の言葉の意味がわからない。雪狐は理系じゃあない。文系じゃあないだけで、理系ではない。
「理系ってそんなに役に立つかな? 人生を生きる上で大切なことのほとんどは文学が知ってる気がするけれど」
「僕はそう思ったことあまりないけれども?」
  たぶん虎子も文系ではない。雪狐はインストールが終了したのを確認して、画面を起動させる。虎子もインストールが終わったようで、ヘッドホンをはめてアイマスクをつけた。
――新規登録いたします。名前をご入力ください。
  snowfoxと安直に入力すれば当たり前だがそのIDは先にとられていた。少し考えて、何も考えずに乱数を作って入力する。それを暗記した。
――異能をスキャンします。画面を落とさずお待ちください。
  どういう構造をしているのか雪狐にはよくわからないが、ソフトは異能をトレースしだした。それが終わるのはほぼ一瞬だった。
――アバターを作りますか?
  NOを選択する。自分の顔と身体をそのままデータに採用するようにチェックをつける。
――パスワードを入力してください。
  ここには管理者だけが知っているパスワードを入力するように司令にあった。パスワードを入力すれば自然と管理者モードに移行するようだ。
――エデンの鍵へのログイン準備が完了しました。シエル・ロアの世界へようこそ。楽しんでいってください。
  雪狐もアイマスクをつける。目の上にごわっとした布があるのは気に入らなかったが、何も見えないというのは心が休まった。
  次第と意識が埋没していく。意識がフェードアウトしたかと思ったら、次にいたのはシエル・ロアの街だった。
「うわあ、そっくりだね」
  隣で虎子がそう呟く。彼はアバターを作ったらしく、彼そっくりの女子高生っぽい格好をしたアバターが世界を見渡している。
  雪狐も世界を見渡した。たしかにそっくりだった。そっくりだったが、よくよく見つめればすべてが0と1で組み合わせてあるのがわかる。目眩がするほど01010101が続いていて、雪狐はこの世界に慣れるまではちょっと時間がいりそうだと思った。
「どうしたの?」
  虎子はゴミなんてあるわけないのに雪狐が何に目眩を起こしているのかがわからなかったようだ。
「世界はあまりにうるさいんだ」
  雪狐の端的な説明に、虎子は
「強弱なくすべての情報を同じ大きさで拾ったら、たしかにキツイだろうね」
  と雪狐に同情的な言葉をくれた。
「君はいいね。普通の異能で」
「僕は異能以外のところで苦労してるんだよ」
  虎子は雪狐の自分勝手な言葉に腹を立てた様子もなくそう言うと、しゃなりしゃなりと道を歩き出した。雪狐も後ろをついていく。
  影が動くたびに、レンダリングの演算がされているのが雪狐の目には映る。そんなこと気にしていない虎子は「シエル・ロアそっくりだ」と楽しそうだった。
「さて、どこから不自然なのか、原因をつきとめないとね」
  虎子が唇に手をあてて、面白い仕事だと笑った。仕事の始まりの合図だった。