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  最初は楽しく遊んでいたのだ。いつからだろう、この街の不自然さに気づいたのは。そして隣を歩いている友達がおかしいことに気づいたのは。
「ねえ、なんか変じゃない?」
  ヒューゴがギルドの友達にそう聞くと、友達は「そう?」と返してきた。
「うん。おかしい」
「おかしいってどういうもの?」
「え? おかしいは、おかしいだよ」
「おかしいは、おかしいだよってどういうもの?」
  ヒューゴは変な反応だと思った。
「俺はヒューゴです」
「よろしくヒューゴ」
  お前、友達なのにその反応ってどうなんだと思うような返事が返ってくる。ヒューゴは言葉にできなかったが、これと似ているものがあることになんとなく気づいていた。
  これはBotだ。人工知能だ。入力された単語以外に同じレスポンスを繰り返すだけのプログラムだ。
「うわーん!」
  ヒューゴは棒立ちして大泣きした。自分もいつか友達みたいになっちゃうんじゃあないかって。ログアウトしようかと思ったが、ログアウトすると言ってから友達はおかしくなった。ヒューゴはログアウトするのも怖くてできない。
  街では人が歩いている。人がランダムに、全員同じスピードで歩いている。まるで、てきとうに作られた街の人々のように。
「ここから出して! 出してよ!」
  ヒューゴは逃げるように本来自分の家のある方向に走りだした。お隣の黒狸さんならなんとかしてくれるかもしれない。ヒューゴは困ったときはいつも黒狸をあてにする。
  マンションのエレベーターを昇って、インターホンを押した。何度も押した。ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん。いつもなら困った顔をした黒狸が出てくるはずなのに、今日は留守のようだ。
「黒狸さん、黒狸さん!」
  大声で呼んで、ドアを叩く。しばらくして、扉が開いた。中に入ると、部屋の中はもぬけの空だ。
  ここは現実の世界じゃあない。便利なお隣のお兄さんはログインしていない世界なのだ。ヒューゴは絶望にうちひしがれた。
  一人でできるとタンカ切って家を飛び出したあとも、家賃を払い続けてくれた両親。ひとりで出来ない時、手伝ってくれたお隣さんの祥黒狸。どっちも今はいないのだ。そして誘ってくれた友達も、ヒューゴを知っている知り合いも。
  とぼとぼ、と元来た道を戻った。戻ってなんとかなるとは思わなかったが、まだまともな心をもった人がいるかもしれないと思った。思ったけれどもその人もきっと自分と同じようにこんな気持ちになっているだろう。途方に暮れているに違いない。
  ヒューゴの目に、噴水に腰掛けて絵を描いている女が目に入った。黒髪を姫カットにした、綺麗な女性だ。彼女の手はカリカリと動いて、次々とスケッチブックのページをめくっている。
「それにしてもこいつら同じパターンで動いて観察してる意味が無いな。美しくない」
  女はそう呟いた。ヒューゴの目に希望が宿る。彼女はBotじゃあない。
「なんかもうちょっとこう、ちょろちょろ動く面白い生き物はいないのか。仕方ねえな、そろそろログアウトしよう……」
「だめ! ログアウトしちゃだめ!」
  ヒューゴは思わず叫んだ。叫んだけれどもまわりの人は振り返らない。女は顔を上げて、ヒューゴを見つめた。
「よく公園走ってた奴だっけ? えーと名前はなんかかくかくした名前だったはず」
「ヒューゴだよ!」
「そうか。俺は王玉麗(ワン・ユーリー)」
  彼女は女なのに「俺」と言った。男のような格好もしている。胸も平らだけど、声が女の子なので、玉麗はたぶん女だとヒューゴは思った。
「この街、おかしいですよね? 玉麗」
「んー。おかしいとは思わないけれども、たしかにつまらないな」
「だって、誰も話しかけてまともな反応を返してくれないし」
「俺にまともなレスポンス返してくれた奴なんて人生に何人いたかわからない。だからそこは問題じゃあない」
「黒狸さんはいないし」
「黒狸? そいつは美形か?」
「黒狸さんは便利な人なんです。俺がかわいいです」
「そうか。俺は格好いい。俺くらい美しくない奴には興味ないな」
  二人はちぐはぐな会話をしたが、ヒューゴは生身の会話をしていると感動したし、玉麗は近くのBotよりは少ししゃべるが、やっぱりちぐはぐな奴だと思っていた。
「ログアウトした友達が変になっちゃったんです。こいつらといっしょになっちゃった。だから、玉麗さん、ログアウトしちゃいけません」
「わかった。ログアウトしたあとどうなるかはちょっと気になるけれども、ひとまずログアウトは今しない。でもこのままずっとここにいるのもつまらないな。どこか出口を探しに行こうぜ?」
  玉麗はスケッチブックを小脇に抱えて、ペンを胸元に指すとそう言った。
「え? 助けを待ったほうがいいんじゃ……」
「誰が助けにくるんだ?」
「誰か……」
「誰かってどういう姿をしているんだ。美しいのか?」
「きっとスーパーマンみたいなのが」
「あれは骨格筋の訓練にはなるが、美的センスがない」
「助けにきてくれると」
「会えるのか。筋肉を見てみたいものだ」
「玉麗! 誰か助けにくるまで待っていようよ」
「馬鹿だな。スーパーマンは俳優がやってるんであって実在しないんだぞ。ヒューゴ」
  ヒューゴはガーン! と頭の中で呟いた。スーパーマンはいないのか。
「もしかしてトトロもいないの?」
「トトロ? あれはいるぞ。俺が出してやろう」
  玉麗の言っている意味は理解不能だった。ヒューゴからすれば、トトロはメイとサツキの裏森に住んでるはずだったのだ。玉麗からすれば、現実の人間よりも絵のほうが存在がでかいのだ。ズレは当然生じた。
「ログアウトしたらおかしくなるのはわかったけれど、ログアウトしたらどうなるか気にならないか?」
  玉麗はヒューゴのほうをくるりと向いた。
「ログアウトしてみて? ヒューゴ」
「いやだいやだいやだいやだ!」
「いやだを今四回言ったな。不吉だ」
「いやだ!」
「五回になった。安心したぞ」
「玉麗はわかんないよ!」
「奇遇だな! 俺もヒューゴがわからねえ」
  お互いそう言ったところで、目の前を人魂のような光が移動していくのが見えた。玉麗はヒューゴから興味が失せたように、それを追いかけて歩き出す。
  光は壁を突き抜けた。玉麗は走ってそのあとを追う。ヒューゴもわけがわからず、そんな玉麗の後ろを追いかけた。
「あれを追うぞ! ふははははは」
「置いてかないで! こんな気持ち悪い世界に一人ぼっちにしないで」
  たとえ狂人であれ、狂った世界に一人でいるよりは狂った人の隣で突っ込んでいたかった。
  人にぶつかりながら光を追い続ける玉麗を追いかける。玉麗は地下鉄の階段を段飛ばしで下りていく。ヒューゴもいそいで降りようとしたが、途中で蹴躓いて玉麗の影を踏んでしまった。玉麗が動けなくなったところに、ヒューゴが倒れこむ。
「玉麗! 助かったよ」
  すごく無理な体勢で固まった玉麗をクッションにして、慌ててどくと、無理のある体勢からいきなり解放された玉麗が階段下まで転がった。
「すみません!」
「謝れ! 俺の美しい顔が」
「玉麗、鼻血!」
  スケッチブックで鼻血を拭くが、止まる気配がない。紙を最後まで消費して鼻に栓をしっかりすると、玉麗は間の抜けた顔でキリッとした。
「どうやらここに人魂は逃げたようだ。俺は人魂を描いたことがない。見つけるぞ」
「紙、今全部血に染まったし、残ったのは玉麗の鼻にぐりぐりねじ込まれたよ?」
「俺は紙がなくても空間に描ける。安心しろ」
  何もヒューゴは心配していないから安心する必要もない。ヒューゴはそれが玉麗の異能なのだと知った。
「俺の異能、影踏みです。影を踏むと動けなくすることができて、逆に踏まれると動けなくなる」
  玉麗は返事を返さなかった。玉麗の興味は完璧に人魂に向かっていた。ヒューゴはため息をついた。玉麗は変人だ。そう思っているヒューゴも人から見たらたぶん世間知らずだった。