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  少し歩けばこの街の住人がおかしいことに虎子も雪狐も気づいた。小学生くらいの女の子が、シエル・ロアの異常っぷりに泣いているのも聞こえる。女の子が泣いているのに、シエル・ロア市民は話しかけられるまで反応を返そうとしていない。
「僕、RPG作るときにああいうの勉強したよ。プレイヤーから話しかけないとイベントが発動しないんだ」
  虎子が披露するオタクっぷりに雪狐は無視という反応を返す。つまるところ、気になるのは女の子。
「連れていけないよ。わかってるでしょ?」
  虎子の言葉に、雪狐は目を伏せた。
「あの女の子……」
「可哀想だけれどもね」
「ツインテールがよれてるんだ。あんなバランス悪いツインテール初めて見た」
「雪狐、僕は君にスルーされたこと恨んでるからね? 突っ込まないよ」
  どうでもいい会話をして、女の子の目の前をBotのフリをして通り過ぎる。女の子はこっちに助けを求めることなく、また違うほうへと走りだした。
「可哀想だけれど、仕事が先だ。僕らだって帰ることができるか分かんないんだもの」
「僕は目の前から一人うるさいのが消えてちょっとすっきりした」
「雪狐突っ込まないよ」
「虎子、可哀想だなんて思っていたらそのうち足元掬われるよ」
  お互いぬるいよりも低い体温をしていそうなのに、さらにお互いのなまぬるさにいちゃもんを付け合った。
  雪狐は見落としてるものはないかとあたりを見渡す。虎子は重力を反転させて、空へと舞い上がる。
「空から何が見える?」
「光が地下鉄に吸い込まれている」
「地下鉄? いやだな。あそこ不衛生だし」
  重力を元に戻して下りてきた虎子といっしょに地下鉄の階段を下りた。
  改札口にはいつもどおり切符を通す。本来の地下鉄はいつも人でごった返しているが、この地下鉄は虎子と雪狐以外いなかった。
「光、トンネルの向こうに消えたね」
「電車で移動しようか」
  頭上の電子掲示板にはあと一分で各駅停車が来ると書いてある。虎子は地べたに座り込み、頬杖をついて待っている。雪狐はよくそんな汚い床に座れるものだと思いながら、世界のうるささに目がようやく慣れてきたことにほっとした。
「電車が参ります、電車が参ります」
  アナウンスが流れて、電車がプラットホームに入ってくる。雪狐と虎子は誰もいない電車に乗った。
  二人で並んで座っていると、暗闇に突入した電車の景色が、海に変わった。
「これ、見たことあるよ。カオナシが出てくる映画で。タイトル日本語だから忘れた。なんとか賞とったっていう古い映画」
  雪狐は映画に興味がないが、虎子は面白いものを見ていると目を輝かせている。虎子のように世界が見えたら楽しいのだろうなと雪狐は少しだけ思った。
「雪狐、見て! スライムが手をふってる」
「スライムに手があるの? 気持ち悪い」
「雪狐、見て! お月様に顔がある」
「人面月? 気持ち悪い」
「雪狐、見て!」
「嫌だ、見ない」
  座席で子供のように窓の外を眺めている虎子に、どうしてこんな反応しか自分は返せないのだろうと自己嫌悪しながら、目を閉じる。虎子はそのあとも何度か
「雪狐、見て!」
  を繰り返したが、すべて無視した。
「見てよ雪狐、森に入ったよ」
  そう言われて初めて目を開けた。ずっと続くと思っていた海が、森にかわった。そうしてしばらくいったところで、電車が止まる。
「ここが終点みたいだね」
  虎子は電車からぴょんと飛び降りた。雪狐はプラットホームの隙間を気にしながら、ゆっくり降りる。
  電車は二人を置いてまた元来た線路を戻っていく。まぶしすぎる太陽が、本来暗いはずの森を地面まで照らしている。雪狐はあまりのまぶしさに目眩がした。
「大丈夫?」
  虎子の声は抑揚がなかったが、とりあえず気遣ってはくれているようだ。
「毎日のことだ。慣れてる」
「毎日あるからって慣れてるわけじゃあないよ。僕だって病気に慣れたわけじゃあない」
  虎子は鼻をくんくんとさせて、
「人のにおいがするな」
  と呟いた。彼が獣人なのは知っている。
「病気なの?」
「獣人特有のね。獣の姿を維持しようとすると、だんだん獣になっていく。身も心も。だから僕は薬でなるべく人間の姿に近くなるようにしている。僕が獣人の姿に戻らないのは、虎の自分が嫌いだからじゃあないよ」
「……そうか。薬で人間の姿にって、けっこう強い薬だよね」
「細胞をいじるからね。僕は獣人でもなく、人間でもなく、獣でもなく、中途半端なんだ。でも心は見失ってない」
  虎子は自分の種族としてのアイデンティティが確立していないだろうな。雪狐はそう思った。自分は何の疑問もなく人間だが、虎子は常に自分は何者であるか、人なのか動物なのかを確認してそうだ。
「女の子の姿をしているときは気持ちがいいよ。僕が選択して、女の子になったってわかるから」
「虎子は虎子だよ」
  陳腐でありきたりな言葉しか言えない自分にも嫌気がさしたが、それくらいしか言えることはなかった。