自棄になるのと縋るを往復するのをやめることにした。
すぐに脱出できるとは思わなかったが、ともかく意識してやめようと思った。
レムに笑いかけてみようと考えた。うまく笑えなかったけれどもレムが笑ってくれた。
そういえばこいつアイスが好物だったことを思い出して、レム宅へ行くときにおみやげを持っていけばレムは素直にはしゃいだ。
1つずつ、誤解を解いていった。
レムはそこまで怖い男じゃあなかった。レムはそれほど酷い奴でもなかった。ただ何も考えずに自分を欲しがってるだけの子供っぽい男だった。
なんだか肩から力が抜けて、仕方がないねという気持ちになる。
そうして自分の仕方がないところを許すでも叱るでもなく、いっしょに失敗して反省して考えて、全力ですべてに付き合ってくれるレムだった。
笑い合う数は1つずつ増えた。
軽口を叩き合う数も増えてきた。
帰り道に手をつなぐこともあった。
人目に隠れてキスをされて恥ずかしがることもあった。
安心の数が増えていった。
99%駄目だろうと思っていたのに、大丈夫かもしれないと思った。
エルムがシャワーを浴びているときにレムが顔を洗うために入ってきてお互いびっくりしたなんてこともあった。
「どうやったら入る前に気付かないの?」
「わり、寝ぼけてた」
つまり、何も考えてないときはこんな感じだ。
レムはたまに人が躊躇するところを迷わず実行する。非常識といえばそれまでだが、ノンストップなのがたまに羨ましいと感じる。
年末は二人で旅行に出かけた。
酒に弱いくせに冷蔵庫にあるのがビールしかないからと二人で飲んで、チェックアウト寸前に起きて朝風呂もできずに温泉旅館をあとにした。
付き合えば付き合うほどぐだぐだになっていくのがわかった。
肩から力が抜けていく。
頑張らなくていいとは思わないが、疲れるほど気張らなくていいんだと知った。
部屋のソファで二人寄り添って寝て、手をつなぎ合ってお互い狸寝入りだとわかっていてもしれっとしていて問題ない。バレたところで問題にさえならない。
「レムといっしょにいると楽」
と言ったときは自分でも驚いた。
最初は怖くて怖くて許してほしくてびくびくしていたのがここまでなるとは思っていなかった。
「あ、そうだ」
随分経った頃にレムが唐突に思い出したように言った。
「ローゼルに名前戻す気は?」
今更すぎる話題に肩がこけるのがわかった。レムは「当たった!」と素直に喜んでいる。
「デート一回な!」
「何度デートしたあとに言ってるんだか」
「一発で落とす」
「もうニ桁以上抱いてるでしょ」
「そっちの一発じゃねえ。エルムったら」
言い合ってる内容も半分本気で半分どうでもいいと感じる。
「花の名前の中で女性につけそうなのは限られてるしね」
「でもよく分かったね。姉さんはアイリスだけどそっちの方が一般的かも」
「アイリスって柄?」
レムの失礼な発言には軽くイラァとしたが、それも事実だ。姉のアイリスには敵わない。
「昔は名前通りの人だった」
「お姉さん優秀で美人で賢かったんだね」
「それから優しかった。軍学校に進んだけど完璧だった。歳も離れてたしね」
アイリスという名前にふさわしい姉だった。
「花の名前ってさ、親が娘につけるとしたら花言葉を託すもんだろ」
ローゼルの花言葉なんてそういえば知らなかったと思ったら、レムが笑った。
「微妙な美しさってあった」
「微妙な……」
「微妙らしい。たしかに垢抜けてねー」
「あっそ」
「まあ冗談はさておき、信頼と勇気ってのが正しいんじゃあないかなって思う」
ローゼルという名前に託されたメッセージは信頼と勇気。なんだか名前負けしているのを感じ、唇が変な形に歪むのがわかった。
「……果たせてるのかなぁ」
「エルムレスのほうがしっくりくる?」
「今はね。どっちでも自分だと思うことにしてるけど」
「孤独で保守的なエルムと信じて進むローゼルと、使い分けりゃいいわな」
進むばかりで無謀なのも良し悪しだ。それに臆病で疑う自分を置き去りにもできない。
「名前二つもあるとどっちで呼ぶべきか迷うね。思い切ってハニーとかにする?」
ハニーと呼ばれて返事をする自分を想像して恥ずかしさにめまいを覚えた。
「エルムでいいよ。こっぱずかしい」
「じゃ、エルムで」
ハニーと呼ばれるよりはそっちで呼ばれたほうがまだいい。
こんなこともあった。
「ちょっとレム」
風呂場の鏡で確認したら臀部の蝶の刺青にマジックで羽が付け足してあったのだ。しかもすごく下手くそに歪んでいて、刺青に描き足したのがわかるのだ。
「お尻に落書きしたでしょ!」
「うん」
少しはしらばくれろ。少しは反省しているところを見せろ。
「いーじゃん俺以外見ないんだし」
「そういう問題じゃない!」
「飛べない豚はただの豚なんだぜ」
「飛べない蝶はただの蝶で問題ないよね」
「ちがった、蝶だった」
もう馬鹿馬鹿しくなってきて、叱ったところでケロッとしているのだろうと思うとこのタチの悪さは天性のものだと感心するばかりだ。
「標本の蝶からエルムって花にとまる蝶にもどりゃーいいじゃん」
「レムって蜘蛛だね。完全に自分の都合で罠はって捕まえるわがままな確信犯」
「そうか。俺の巣に来るってことだな」
標本箱から逃げたら蜘蛛に捕まったとか間抜けな自分すぎて笑えない。
罠を張ったのはお前だと言ったはずなのに蝶が蜘蛛の巣に飛び込んできただけみたいな言い草がふてぶてしすぎる。
「前言撤回。ただの蜘蛛じゃない。ナゲワグモって知ってる?」
「投げるんだろ? 俺もできる」
さすが蜘蛛男。粘液自由自在、罠を張るのも自由自在どころか罠を飛ばすようだ。
「災難というか不可抗力と思えばいいのか」
罠に完全にはまったとしか言えない。出会いを思い出せば思い出すほど、自分は悪くなんてなかった。
追い詰められて罪悪感抱えて別れてぼろぼろになって泣いて啼いて最後は心を持っていかれた。その後はずっとこんな感じだ。
「じゃあ俺は蜘蛛らしくこう言えばいいのか」
レムは指先から粘液を出してナゲワグモの如くエルムを引き寄せると、抱き止めてニヤリと笑った。
「つかまえた」
完璧に逃げられないなと諦めた瞬間、続きがあった。
「いただきます」
唇に噛み付くようにキスをされて、そのままソファに押し倒される。
これって良かったんだろうか? なんて愚問である。
蜘蛛は雌ですら同じ蜘蛛の雄を食らうのだから。
蜘蛛が蝶に恋をしたらまず食べることを考えて、捕まえることを考えて、つまりこうなるのだろう。
羽をもがれた蝶の刺青にはいびつな羽が付け足された。
不器用な蜘蛛が一生懸命彼女のために用意した、手作りの羽が。
(了) |