それから、しばらくレムの家に泊まることもあれば、あちらがエルムの家に泊まることもあった。
半ば自暴自棄だったのもある。時にはレムに求められる前に自分から服を脱ぎだすくらいにはもうどうなったっていいと思っていた。
好きにすればいい。好きだという理由だけで自分の日常を全部壊したレムめ。
どうせ欲しかったのはこのガリガリの体だけだろう。屈服させたかっただけだろう。
ゴミのように飽きたら捨てるのだったらさっさと飽きて興味さえ失ってほしい。
「好きにどうぞ」
と自棄っぱちに言えば、本当に好き勝手にする男だった。
たいていそういうときはどこか痛い。脚を持ち上げられるときや、羞恥心のあるようなやり方や、尖った言葉で責められたり、全然気持ちがよくない。
気持ちがよくないのに自分をいじめて惨めにすることで満足してしまう。これだけ罰を与えたのだから、少しは懲りたんじゃあないかと感じる。
ところがその半刻後にはレムのほうから
「やっぱり優しく抱きたい」
と言い出す。次は優しく抱かれて、甘く囁かれる。好きと繰り返され、体の奥までとろかすような快楽が突き抜ける。
自分が罰を求めているのかご褒美を求めているのかわからないと感じる。
ただ自分を壊したい、虐めたいだけなのに、どこかでずっと優しくして欲しい、愛されたいと感じる。
もう痛いのは嫌だ、傷つきたくないと思う一方、心が痛むと落ち着いた。幸せで包まれるときとは違う心地よさがあった。
「心まで好きにできると思わないことね」
と強がり、睨まれることもあった。
「痛いのはイヤなのに痛いと安心する」
心が壊れそうになって縋る日もあった。
ラッセルならどんなときでも笑って抱きしめてくれた。安心させてくれた。
レムは違った。全力で腹を立てて全力で嫉妬して全力で自棄になる。
「お前以外いない」と自身もエルムも追い詰める。「優しくしたいのに泣かせてばかりいる」と泣きそうな顔をする。それ以外のときは不機嫌そうな顔をしている。
もうこれは駄目だなと感じた。
相手に失望したり、自分に失望したりというよりもずっと深刻な問題だ。大人になりきれない自分が心底愛しくて心地よくて、憎くて苛々するという悪循環だった。
自分が愛しくていじめたくなる。
自分に苛ついて厳しく当たる。
どっちもうまくいくはずがない。どっちも自分を傷つけているだけだとわかっているのに止まらなかった。
自分が不安定になっていく。積み上げた経験の積み木がぐらぐらしているのがわかる。
ローゼルだった頃というよりも、名前を捨てたばかりの頃の不安定さに近い。子供っぽいというより捨て子のようだと感じた。
愛が欲しい。愛を乞う。
愛の求め方がわからない。愛する方法がわからない。
わからないのに縋ってしまう。わからないから拒絶するしかない。
距離がゼロになったり触れ合えなくなったり、そんな日々が続いた。
その日はスラムであった仕事の帰り、日が落ちたのでレムの家にそのまま泊まった。
風で窓がカタカタと鳴っていた。もうあたたかい季節なのに、日照条件の悪い家は狭くて寒い。
髪の毛から男物のシャンプーのにおいがするのは先程シャワーを借りたからだが、泊まるたびにたいていは二度目のシャワーを浴びる理由が出来る。
自分でも何をやっているのだろうと思うが、ベッドに腹ばいになってパソコンを開き、紅龍会のパソコンと同期してある部分だけチェックした。
「エルムって俺より仕事が好きだろ」
不機嫌なあいつは放置である。
外はいつの間にか雨が降っているようで、気圧の低下で頭がミシミシ言っている。
レムが不機嫌な理由はこの気圧も関係あるのだろうと考えた。自分のせいだと思わないようにすることに最近は意識してシフトしている。
「ねえ」
レムにパソコンの蓋を閉じられて、エルムが顔を上げる。遊んでばかりはいられないのだと言おうとしたところ、目の前にホットミルクが差し出された。
「今日寒波だって。体暖めろよ、女なんだし」
「お気遣いどうも」
女扱いするなと言ったところで通用しない黒狸とレムだ。
エルムはエルムだよなんて月並みだが理想的なことは言ってくれない。
ホットミルクははちみつが入っていて、尖った心と体を適度にあたためてくれた。
ホットミルクを飲んで体が温まったあとは、ベッドの隣に座っていた男に体を抱き寄せられた。
まだ夕食も食べてないのにいつまでこいつは自分にがっつき続けるつもりなのだろう。
すぐに飽きると思っていただけに半ばこの執着心は尊敬すらするレベルだ。
空腹の胃袋、潤うことのない心、満たされない気持ちの中で求め合う体はお互いをガツガツと食べ合う。
最近、搾り取っているのは自分のほうじゃあないだろうかと感じるくらいだ。
レムががっつくのはいつものことだが、早く終わると不満に思うときがある。自分からもう一度抱いてと言うのは馬鹿馬鹿しくて言えやしない。
首筋に唇のあたたかさが伝わってくる。痕を残さないなんて上品な真似ができる男ではないし、これは残るだろうと直感した。
「レム、寒いから今日はやめて」
言ったところで聞かないだろうと思いながら伝えた内容は、意外なことに聞き届けられた。
レムはエルムを抱きしめてベッドでいっしょに転がってるだけで満足しているようだった。
時折キスして、平らだと馬鹿にされる胸を撫でて、「好き」と呟く。
飽きないのかと思うほど、ずっと。
「俺、エルムが他の男に抱かれているって思うだけですごく腹立つんだよね。俺が邪魔者なのに勝手だよね」
勝手だとわかっていて言っているというより、「だから別れろよ」と言っていることくらいわかる。この強引さは恐れ入る。
「言ってなかった。もう別れた」
「……そうなの?」
「うん」
あんたのせいで。と言ったところで何も建設的なことがないことに気づき、その台詞は呑み込んだ。
「告白していい? 俺の悪いところ全部」
エルムの返事を待たず、レムは続ける。
「怪我で泊める前から、ずっと好きだった。奪う気まんまんだったし関係壊す覚悟で抱きました。ごめんなさい。でも、それくらい好きだから、あんたの恋人より 大切にはできないけど、ずっとずっと、ずっと誰より、あんたのこと愛してるよ」
「いつまで?」
恋なんて、期限付きの感情なんて信じて心は預けられない。
「わからない」
ずっととは言ってくれない。
「ずっとって言うほど長持ちしないな。今すぐ全部手に入れてしまいたい。一生エルムのことだけ思い出して生きていけるくらい強く刻みたい」
「まだ、どうしたらいいか分かんない」
この一途さにだけは、どうすればいいかわからない。目的や下心だけだったら割り切れたのに。
「どうしたい?」
どうしたいと聞かれてあれこれ答えが浮かぶほど、するべきこと以外を考える余裕なんてなかった。
「何も疑わずに好きになれたら楽なんだろうな」
好きはいつか、好きじゃあないになる。
うつろうことのない好きなんて存在しない。
ずっと好きだと思っていたものをあっさりエルムは嫌いになってきた。これっぽちの失望で大嫌いになれた。
「好きになることより、好かれることのほうがずっと難しいって今感じてる。愛されたい」
レムの言葉に応じるための感情はまだ準備できていなかった。
「……ごめん」
「いいんだよ。偽りの気持ちはいらない、全部本物のエルムがいい」
レムを好きじゃあない私でも愛してくれるのかと聞きたい。ずっとレムを好きじゃあない自分でも愛し続けてくれるのか。
「好きになってしまえれば楽なんだろうな。楽だろうけど、それじゃいけない気がする」
好きなままでいられたらそれに越したことはなかった。好きなものが増えたほうがずっとよかった。でも好きなものと同じくらい嫌いになったものがあった。
好きじゃあなかったら無関心になるなんて嘘だ。好きだったものは、好きじゃあなくなった瞬間憎しみさえ生まれる。
「何が邪魔なのか、何が必要なのか」
世間体が邪魔だとか、倫理観が邪魔だとか、言い訳が必要だとか、愛が必要だとか、いろいろ浮かんだがどんな障壁やニーズを並べたところで現実がそう簡単に変わるわけじゃあない。
「俺が欲張りなのかな」
抱きしめる力が強くなった。背中に張り付いている体温が上がるのがわかる。
「私が卑怯なのかな」
エルムレスは卑怯だ。エルムレスは傷つくのが怖くて、孤独を保つ。
心の隙間に誰かが入り込んだら最後、失ったときの痛みに耐えられないから。
「卑怯なエルムと欲張りな俺じゃだめかな」
「レムは口が上手いね」
「俺、口がうまいって思ったことないよ。やりたくないことはやりたくないし、言いたくないことは言いたくない」
言い切れたらどんなに楽だろう。迷わなかったらどんなに楽だろう。そんなふうに生きたいと思ってそう生きられたらどんなに楽だろう。
「一人は怖い。でも、傷つくのも怖い」
都合のいい相手を今日も明日も昔もずっと探している。そんな相手いるわけないのに、エルムだけでなくみんなどこかで探している。
レムは都合が悪いのに都合のいいところだけ欲しいと感じてしまう。レムの都合の悪いところは全部いらないと思ってしまう。
「傷つかなきゃいいし、一人でいなけりゃいい。でも怖いもんは怖い、それも事実」
何が言いたいんだよ、と毒づいてしまった。誰かといっしょに居ても傷つかないならばそんな恐怖と戦う理由なんてあるわけもなかった。レムといっしょに居て心地いいだけだったらこんなに苦しくはなかった。
怖いものを怖いと認められてたらこんなことにはならなかったか? 震えるだけで終わるのは嫌だと強がるのは自分がおかしいのか。
「人は平気で傷付けるよ」
自分の答えが正しいとは思わない。でも事実だ。
「そうだな。いっぱい傷つけて別れて、でも一人じゃなかった」
レムはエルムの髪を梳いて、つむじのところにキスをしてくれた。
人といっしょに居れば一人じゃないわけではないと反論したい。エルムは紅龍会の所有物だ。自分で志して働いている黒狸やメルティアたちとは違う。
その前だってそうだった。その前だってそうだった。人といっしょにいたってずっと寂しかった。寂しさは誰かじゃ埋められなかった。自分で埋めるしかなかった。
「いいんだよ。強くなくて、正しくなくて。疲れない生き方をしてもいいんだ」
「私を守れるのは私だけだし、私を正せるのも、私の味方でいられるのも私だけだ」
自戒のつもりで呟いた。このままでいいわけじゃあないと胸中付け足して。
「俺の両手が空いてた理由は誰かを抱きしめるためだけです」
返ってきた言葉が自分を否定するものじゃあなく、レムにはめずらしく自分を包んでくれるような気がした。
縋ってまた拒絶されたら。頼っていいよと言われて、拾ってあげると言われて、またあっさり売り飛ばされたり利用されたら。
そう考える。またそうだったらどうしよう。またそうならないように自分を守りたいと感じる。
「そんな風に言われたら、依存しそう」
依存されたら困るでしょう? そういう意味も含めて言ってみた。
「ただ相手に見て欲しいだけだもの。依存できるほど強くないよ」
依存してもいいとも悪いとも違う答えが返ってくる。
強くないことくらい知っている。レムも自分も心が弱くて、レムも自分も強がりで、そして自分のされたことは他人にしてることよりずっと痛いと感じる身勝手な性格だ。
「全部預けるには弱すぎる。それでも欲しいし、俺を見てって言う欲張りです」
「じゃあ、私は自分が傷つかないことしか考えてない卑怯者だよ」
こんなこと、ラッセルと付き合ってるときは言うことがなかった。言いたくなかったし、変われると信じてた。
結局変われなかった。何一つ自分は自分以外になれなかった。
レムが弱音を吐くから自分も弱音を吐きたくなるんだ。自分だけ強いと思えるほど、寄りかかられて支えられるほどまだ強くないのはわかっている。
だから防衛戦を張るのだ。私は卑怯だと。
「うまい方法を考えよう。傷つかない方法と、強くなる方法。弱い俺たちだけど二人ならちょっとだけ強くなれるよ、きっと」
目頭が熱くなるのを感じた。泣くのを必死でこらえて、こくりと頷いた。
「……うん」
絡め合った手を強く握り合った。
支えあうことさえできない中途半端な自分たちだけど、決して一人ぼっちじゃあなかった。
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