翌日。迎えに行く、と言ったとおり、仕事が終わる時間にレムは紅龍会の外に居た。
  連絡は入れてないはずだが、どれだけの間待っていたのだろう。
  足元には缶コーヒーの空き缶が3つ散らかってる。そのくらいの間、ということか。
「この時間にいつも終わるの?」
「もっと遅いときもあるから、帰ってもいいから」
「お疲れ様。渡そうと思ってたコーヒー全部飲んじゃった」
「いらない」
  エルムは空き缶を端に追いやるレムを追い抜き、まっすぐ自宅へと歩き出した。
「待てよエルム」
  後ろから足早に近づいてくる足音が聞こえたが、それでも無視して歩き続けた。
「何か怒った? 喉乾いてるんなら何か買ってくるけど」
「いらないって言ったはずだけど。寒いから早く帰りたいだけ」
  はあ、と両手にあたたかい息を吹きかけて背中を丸める。
  隣を歩いているレムが手を差し出すが、それも無視した。
「エルムってどうやったら笑うの?」
「怖いのに笑うわけない」
「俺さ、笑って欲しいって思ってるよ」
「そう」
  答えるべき回答を持ちあわせていなかったので、相槌だけ打った。
  しばらくエルムは無言で歩いた。隣を歩く男が静かにしているので、不機嫌になったのかと思って振り向いた。
  レムはコートのポケットに手をつっこんだまま、エルムのほうをじっと見ていた。視線がかち合って、エルムのほうが先にずらす。
  次の瞬間抱きすくめられ、一瞬何が起こったのかとエルムは硬直した。
「赤信号」
「言ってくれればわかる」
「ドキッとした?」
  エルムは答えるかわりにレムの腹にまわってる腕をゆっくりと解いた。
「それとも怖かった?」
  この質問にはエルムの動きが露骨に止まった。
「あんたなんて怖くない」
「また強がってる」
  エルムはレムを振り向いて、「警戒してるだけ」と低い声で言い切った。
「あと自宅まで百メートルないから、帰って」
「エルム」
「帰って」
「トイレ」
  帰ってきた返事にがくりとした。
「缶コーヒー飲み過ぎるからでしょ」
「立ちションしたくないからトイレ貸して」
「貸すだけだから」
  ペースが崩されているのがわかる。アパルトメントの鍵を開けて、中に入った。トイレの位置を教えるとレムはその中に消えていく。
  レムが帰ってから着替えよう。それくらいのつもりでコートだけ脱ぐ。
  トイレをすましたレムが出てきて、部屋を見渡した。
「女の人の部屋だね」
「そう。トイレはすんだんでしょ?」
  レムは思い出したようにズボンで手をふいた。そういうことを言いたかったわけじゃあないとエルムの中に軽く苛立つ感覚がのぼる。
「帰るよ。送るだけって言ったし」
「そう。さようなら」
  つんけんした返事を返すと、レムの眉間にシワが寄る。
「なんでそんな顔ばかりするの」
「エルムがそうさせてるんだよ」
「私のせいじゃあない」
「俺だって笑いたいし、エルムだって笑わせたい」
  困った男だ。お前が困らせなければ自分だって笑っていられるかもしれないのに。
「帰って」
  怖い。
  怖い怖い怖い。
  自分の部屋の中で怖い男と二人きりで向かい合ってる。
「帰って」
  涙がこぼれた。もうこんな思いはたくさんだ。
  ぼろぼろ涙があふれてきて、エルムはわっと泣くと床に座った。
  怖さが飽和してもうどうしようもなかった。
「帰るよ」
  諦めたようにレムがそう言ったのが聞こえても涙は引っ込まなかった。
「俺が泣きたいくらいなのに」
  レムは踵を返し、玄関のほうへと向かった。早く出ていってくれと願った。おとなしく出ていってほしいと望んだ。
  明日誰かに相談しよう。もう一人で解決できる気がしない。
「エルム」
  またか。どうしたら帰るつもりなのか。それともこのまま殺されるのか。
「俺あんたと会えるまでの間、ずっと楽しみだったんだよ」
「知らない……」
  喉の奥がひぐっと裏返る。物言いたげにレムが振り返って、こっちに一歩踏み出す。そして躊躇したかのように踏みとどまった。
「来ないで」
「俺がしたことってエルムの怪我を治して、好きって言って、デートの約束とりつけて送っただけなのにそんなに嫌いか!?」
  怒鳴られてももう関係ない。
「好きだって言ったらそんなに迷惑か!」
  こんなの自分の知ってる好きって感情じゃあない。
「あんたなんて嫌い」
  勇気を振り絞って呟いてみるが、怒鳴られるよりきつい無言が続いた。
「嫌いってやっと言ったな。いいよ、それで。ずっと嫌ってろよ。そうやってずっと泣いてればいい」
「嫌い」
「関係ない」
「絶対に好きにならないから」
「諦めない」
「諦めてよ。嫌いなの」
「……好きだ」
  好きと言われるたびに痛い。
「なんで私なの?」
  どうして、別の人じゃあないのか。どうして、自分なのか。
「顔」
「美人じゃない」
「すごく好み」
  答えるべき言葉がない。
  涙も枯れ果てて深く深呼吸をした。
「見送るから、帰って」
「ずっと帰るって言ってるけどタイミングのがしてるだけだよ」
  苦悩の滲んだ声がぐらぐらの脳に響いたが、やっとの思いで立ち上がり、玄関まで送りに出た。
  段差で躓いて抱きとめられてももう抵抗する元気がなかった。
  レムに顎をつかまれて上を向かされる。睨みつけたつもりが、泣いていた。レムが迷ったように眉をしかめる。
「俺だけが好きなんだな」
  レムが諦めたように呟いて、エルムの唇にそっとキスをした。
「ずっとこうしたいだけだったのに」
  唇と唇がぶつかる距離でそう言われた。
  もう一度キスされた。長く時間をかけて、唇が離れる。
  三度、角度を変えてもう一度。四度……
  抵抗するタイミングを完璧に見失って困惑するばかりだ。
「触りたい、知りたい、キスしたい、泣かせたい、なんでもいい。もっといっしょにいたい」
  いつの間にか壁に押し付けられるような形でキスの嵐はだんだんエスカレートしていく。だんだん唇を押し開いて、歯をこじあけて舌と舌が触れ合うこともあった。
  レムの手がブラウスにかかるのがわかり、思わず
「ここじゃイヤ」ととっさに言った。
「ベッド行く?」
  間近でかち合うレムの目は欲情している。
  どう返答するべきか迷っていると、太ももの後ろから体を抱き上げられた。思わず落ちそうになり、レムの頭にしがみつく。
  安定感のない足取りで普段寝ている寝室まで連れていかれ、ベッドの上に降ろされた。
「レム――」
  やっぱり嫌だと言うべきだ。
  隣に腰掛けてジャケットを脱いでシャツのボタンを外そうとしているレムの名を呼んだ。
  レムはシャツのボタンを外すのをやめてこちらを見てくる。
「俺、普段心が手に入らないなら体だけでもなんてタイプじゃあないけど」
  レムの右手がエルムの左手を握り、シーツごと掴む。
「あんたは別だよ。我慢できない、欲しい。好きになってくれるまで待ってられない」
  レムの左手がエルムの肩を押してベッドに押さえつけた。上にのしかかる体重に身がこわばるのがわかる。
「死ぬほど嫌なら死ぬ気で抵抗してよ。どんなに好きでも壊してでも手に入らないものがあるって教えてよ」
  脚の間にはレムの脚が割り込んでいる。左手はレムの右手と絡みついている。右の肩はベッドに縫い付けられている。
  覆いかぶさられて、エルムの唇をレムの舌が往復した。
  きつく結んでいた唇が薄く開く隙をついて舌が侵入してくる。
  上手なキスとは言いがたい、どちらかといえば乱暴なくらい動く舌が勝手に口の中を抉るようにかき回す。逃げようとしてもエルムの舌の根本から絡みつき、喉の奥まで舌が入り込んできた。
  口内というよりもっと奥の肉襞をいじられる感覚に、生理的な涙がこぼれた。
  思わず絡んでる手に力がこもる。強く握り返されて、骨が軋んだ。
  酸素を求めて肺が喘ぎ、気道を確保するために顎がのけぞる。鼻で吸えるだけ吸って吐くだけ吐く呼吸を繰り返してるうちに体から力が抜けていくのがわかった。
  ブラウスのボタンが外されて服の下に男の手が入ってくる。撫で回されて体温や感度が上がっていくのが自分でもわかった。
  ようやく唇が離れて、酸素が一気に肺を満たした。
  間近でこちらを見つめているレムを見上げる。いつもと同じつり目が突き刺すような視線でこちらを見ていた――。

 

 朝、目が覚めたとき、体のだるさ、粘つき、喉の渇き、狭いベッドで密着しているときの動きづらさ
  いろいろなものが昨日の行為を思い出させた。思い出すたびに子宮が鈍い甘さを覚えるのを自覚する。
「仕事行かなきゃ」
  自分を奮い立たせるつもりでそう言ったが、レムの腕をどけようとした瞬間、意思をもったそれがエルムをかき抱いた。
「エルム、まだ行くなよ」
  寝ぼけた低い声でそう言われる。
  馬鹿を言うな。ただですら目覚まし時計を仕掛けわすれて遅刻しそうだというのに。
「痛いところあった?」
  意識が飛ぶまで体を穿たれて途中から覚えていない。
  抱かれて痛かったか覚えていない。ということは痛くはなかったということなのだろう。
「大丈夫。仕事休むほどじゃあない」
「気持ちよかったよね?」
  その質問には答えられなかった。寝ぼけたままの掠れた低い声が昨日を思い出してうっとりするように呟く。
「可愛い声だしてたし、中ぐちゃぐちゃだったし、奥まで入ると応えてくれた。気絶しちゃって驚いたけど、気持よかったんでしょ?」
  事実を否定するわけにはいかない。
  感じていた。半ば手を縫いとめられて好き勝手やられたのに近いというのに、声を出して啼いて、体が悦んでいた。
「途中から腰動いてたし、手握ってくれたし」
「それ以上言わないで」
  認めるからどうなっていたか報告しないでほしい。
「もう二度としたくないほど嫌だった?」
  昨日の行為を体のほうが先に思い出したらしい。喉がごくりと鳴って、胸の内側に疼く感覚が生まれる。
「次、俺の家でね」
  レムはそう言ってエルムを手放した。
  シャワーを浴びて昨日脱ぎ散らかした仕事着に着替える頃にはレムのほうが先に準備完了していた。
  二人で外に出て、レムが入ってこないように鍵をきっちりかける。
  無言で歩いて別れるまでの間、ずっと考えていることがあった。
  ラッセルにどう言おう。言う必要なんてないが、どこからバレるかわからない。
  それに裏切った事実は変わらない。無理やり押し切られたなんて理由にはならない。
  自分はYESともNOとも言わなかったのだ。最後は体のほうは求めていたくらいなのだ。この事実を裏切りと言わずして他になんと言うべきなのか。
  全部、ラッセルに懺悔して許してもらったところで自分で自分が許せる気がしなかった。
「今度は俺の家で」と言われてもうそれはないと言わなかったのも自分だ。可能性は一切ないと言い切らなかった。
  認めるべきなのだ。心がラッセルを好きなままでも、別の男のことを受け入れたことを。
  エルムは狐班のオフィス前で立ち止まった。
「おはよう、エルム」
  後ろから聞き覚えのある上司の声がして、びくりと振り向く。
「今日はまだセクハラしてないぞ」
「自覚あったんですね。セクハラしている」
「ちょっとやりすぎたと後で反省することはたまに」
  黒狸はエルムの背中を軽く押して、いっしょにマネーロンダリング班の執務室に入る。
「お、バームクーヘン届いてるぞ。食うか?」
「食べます。何も食べてきてなくて」
「おいおい、また家で仕事してたのかよ。ラッセルの分も切ってやるから蛇班に持っていけよ」
  黒狸がナイフを構えて、三等分する。
  間の悪い上司が皿の上に恋人の分のバームクーヘンを置いた。
  エルムは蛇班のオフィスまで歩いて行く途中、やっぱりこのまま黙って付き合い続けるのは無理だと感じた。
  あまりにラッセルに対してそれは失礼に当たる。それはしてはいけないことだ。

「好きな人ができたから別れて欲しいの」
  バームクーヘンを渡したタイミングで、なるべく理由として納得しやすそうな嘘をついた。
  お菓子に喜んでいたラッセルの顔が氷りついたのがわかった。
「そうか……」
  ラッセルには珍しく、生返事がかえってきた。そのまま沈黙が少しだけ続く。
「ラッセルのことはもう好きじゃあない」
  まだある未練を断ち切るようにそう言い切った。
  ラッセルは困惑したような顔をして
「研究ばっかりにかまけててごめんな」
  と謝った。こっちのほうこそ雑務にかまけてラッセルを放置しっぱなしだったというのに。
「その新しい奴、エルムのこと好きなの?」
「すごく好いてくれてる」
「よかったな。ちょっと悔しいけど、エルムが幸せならいいや。元気でな」
  だんだん小さくなっていくラッセルの姿が、だんだん遠くなるのを感じた。もう会えない、もう接点はない、もう戻れない、もう終わったんだ。

「エルムさんすみません。実はさっきの書類ミスがあったんだけど、今からでも修正きくかな?」
  オフィスに戻ったときの光景があまりにいつもどおりすぎて、自分だけが非日常に置き去りにされたような気持ちになった。
  エルムの目からぼたぼたと涙がこぼれる。黒狸がぎょっとしたような顔をしてハンカチを差し出した。
「すみません。ひどいミスでした」
「黒狸さんは悪くありません」
  黒狸が悪いわけじゃあない。ちゃんとこの上司でいいから、事前に相談していたらこんな結果にならなかった。
  強がったのは自分だ。忠告を聞かなかったのは自分だ。
「馬鹿なのは私です」
「何か……あったのか?」
  黒狸が心配したように聞いてきた。
  どう答えるべきだろう。
  レムにしつこく付きまとわれた挙句半ば強引に寝る形になって次回の予約まで入っていると正直に言ったらどんな反応をするだろう。
  理由を話してラッセルと別れたと言ったら、「お前は悪くない」とこの上司なら言うだろう。
  そんな言葉、自分を甘やかすために黒狸を利用しているにすぎない。悪かったのは自分だ。
  今更取り返しのつかない事実の尻拭いだけ黒狸にさせるわけにはいかない。もう起こってしまったのだから。
「プライベートごたごたしっぱなしなんです。それだけだから」
「困ったときは言えよ?」
「困ってませんから」
  助けて欲しい。何もかも起こる前に巻き戻してもらいたい。日常に戻りたい。戻れない。
  仕事で致命的なミスをしなかっただけまだマシだろう。これで左遷させられたら泣き面に蜂のレベルだ。