14 お弁当事件昼
キリシュにごめんなさいを言う機会はそこから三日以上なかった。
口をきかないなんて子供っぽい真似はその日帰ったときには終わっていたが、ぎこちない空気はいつまでも続いた。
もう原因だったホットケーキはどうでもいいとお互い思っているはずなのだが、何をすればこのぎこちなさが解消されるのかわからないために普段の二人に戻ることができなかった。
仕事をしている間は仕事のことを考えるが、弁当を食べる時間はつい家に置いてきたキリシュのことを考える。
最初に考えるのはたいてい、キリシュがお昼を食べているか、食材はまだあったか、そんなことだが、次第とどうやったら険悪な状態から抜け出せるのか、テンションの低い日はこのままキリシュが愛想を尽かせて出ていくことまで想像していた。
「やっぱりどこかで仲直りするべきだよなあ」
ぽつりと呟いたとき、エルムがこちらをびっくりしたような表情で見つめた。
「まだ、仲直りしてなかったんですか?」
「タイミング見つからなくて」
「黒狸さんってたまにすごく幼稚ですよね」
たまに幼稚も何も、いつも幼稚だと思うのだが。エルムの前で格好いい上司だったことは一度たりとてない自覚がある。
「どうやったら仲直りできるかなあ」
「なんですか。いつも喧嘩したあとは、お花持って謝って甘いムードつくってベッドインすればたいてい機嫌直るって言ってるじゃないですか」
「いや、それは……」
さすがに男にできるのは、せいぜいがお花を持っていくところまでだ。それですらどうかと思うくらいだ。
「プレゼント……いや、あいつ物の価値とか知らないしなあ。ケーキ? いや、仕事終わったらケーキ屋閉まってるし……」
「相手の女性のプロフィールは?」
「身長177センチ、好物はホットケーキ、趣味は筋トレ、質実剛健って言葉が似合いそうな……お、女だ」
危うく男と言いそうになって嘘をつく。
エルムは不自然さを若干感じたようだが、「まるで男みたいな豪快な女性ですね」と付け加えた。
「そういう女性を攻略するにはどうすればいいと黒狸さんは思います?」
「あんま女性に通用する方法は信用ならなんな」
「じゃあ男性と仲直りするための方法を実行してみたらどうですか?」
「男とあんま付き合いないわけよ。どうすりゃいい?」
「黒狸さんだったら相手がどうしてくれたら仲直りしますか。プレゼントをくれなきゃ仲直りしませんか? 謝らずにケーキで許しますか? お花はあなたにとっちゃあげるものでも貰うものじゃないでしょう」
「そうですねそうですね。きちんと何が不満だったか聞いて話し合うのが一番でしたね。エルムさん、エルムさまさま」
「わかったら仕事してくださいね」
本当に優秀な部下に助けられる毎日である。仕事から私生活から何から何まで。
彼女にもいつかお礼をしなければと思いながら、三年間も何もお礼をしていない。それどころか借りばかり作っていた。
そのとき携帯が鳴った。見ると、自宅と表示されている。
「キーリ?」
通話ボタンを押して第一声相手の名前を呼んでみる。
――黒狸、今日は紅龍会にいるか?
「いる。あ、今日早く帰るわ。出かけずにいてくれるとたすか――」
――今から弁当を持ってくから、出かけるなよ。
相手からかえってきた返事に、思わず沈黙する。
――ホットケーキだから。あったかいうちに届けたいし。
「あ、うん。待ってる」
――それでいいだろ? ホットケーキ食いたかっただけだよな。
「うん」
――じゃ、持ってくから。紅龍会のホールで会おう。
通話が切れた。
携帯をじっと見つめていると、エルムがぽつりと「一件落着ですか?」と聞いてきた。
「解決しそうです」
「子猫ちゃんにどうぞよろしく」
キーリをキティと聞き間違えたんだろうか。
さすがにキリシュは成猫だろうと思いながら、エルムがわざわざ聞き間違ったように気を遣ってくれているのかもしれないと思ってお礼を言った。
「じゃ、相棒くるみたいだから、弁当とってくる」
「すぐ戻ってきてくださいね。今晩彼女のところに行くなら仕事をきっちり今のうちにやっておいてください」
エルムの口癖。
その一。わかったら仕事やってくださいね。
そのニ。仕事しやがり下さいカス上司。
その三。何をミスしたのかリスト化しておいてください。
導き出される答え。黒狸よりエルムのほうが仕事量が多い。彼女は仕事ジャンキー。
黒狸はボールペンを置くと執務室を出て、キルシュと待ち合わせをしているホールまで向かった。
ところが、紅龍会三階のホールにキリシュは来なかった。
かわりに弁当を持ってきたのは赤毛の男だった。眼鏡をかけていて、軍服に身を包んでいる。
紅龍会に軍人が来ること自体は異例だが、ないわけではない。
人によっては紅龍会とコネを作っておきたい軍人もいるし、紅龍会としてもそういう軍人は重宝している。
その男のニヤつきかたは爬虫類のような無機質さ……とも違う気がした。
しかし生理的に何か受け付けない薄笑いを貼り付けて、迷いのない足取りで黒狸の前までやってきた。
そうして弁当箱を黒狸に渡す。近くで見下ろしてみても、数日前にエルムから回収したお弁当と風呂敷と見間違いがない。
つまり、これはキリシュが持ってくるはずだった黒狸の弁当だ。
「どうしたのかね?」
何も反応しない黒狸に、男が「失礼な奴だ」と呟いた。
黒狸は本能的に危険なものを感じ、反射的に思いっきり嘘だとわかるくらい笑顔を作った。
「お弁当を届けてくれてありがとうございます。ところでこの弁当はどこで?」
「すれ違いざま落としていったので、拾って届けたまでだ」
「わあ。弁当落とすとかよほどびっくりしたんですね。その落した奴は」
黒狸はへらへらと笑いながら、余裕満面の眼鏡軍人を見つめた。
異能が効かないということはないだろうが、自分と同じ洗脳系異能の持ち主のような気がした。
しかも自分より数段上級の使い手のようだと直感の部分が判断する。
逆らうまい、逆らうまい。
相手がどんな異能を持っているのかわからないが、間違いなく黒狸より格段に悪質な異能を使いこなす男だ。しかも異能はその人間の本質ときた。
つまり、この男は危険だ。
「びっくりさせるようなことがありましたか? その、事故とか」
そしてキリシュのことも心配だ。
相手が機嫌を損ねぬように気を配りながら、弁当を持ってくるはずだった男がどんな様子か窺った。
男はフフンと笑うと媚びるような黒狸を小馬鹿にした目で見下ろした。
「そうだな、いまにも吐きそうなほどに顔色がわるかった。失礼きわまりない」
「なるほど。吐きそうだったなら仕方がないですね。ええと、お名前をうかがっても? あなた軍の方のようですが、お客様ですよね?」
キリシュは間違いなく、この男を見て逃げたのだろう。
つまりキリシュの過去と関係のある人間だ。
名前くらい知っておくべきだ。本名を名乗るかどうかはさておき、調べる方法はスパイ管轄の鴉班なりなんなりを利用するとして、まず名前を知っておかなければ何も行動が取れやしない。
「ラスト・エルデムテン。鳳くんに用があってね。通してもらえるか黒狸くん」
「社長室までご案内します。こちらです」
さりげなく自分の名前を当てられて口元にシワが出来たような気がした。
今無理やり笑っているのが自分でもわかる。
ボスの鳳のことを親しげに呼ぶあたりもよくわからない。
ともかくヤバい裏があるのは確かだ。軍としての地位はよくわからないが、確実にトップシークレット級の秘密が絡んでいる。
下手に探れば殺すと脅されたのだろうか。それともただ鳳の友達だと自慢されたのだろうか。
そんなに馬鹿そうな男に見えないところを見ると、明らかに前者の目的で鳳の名前が出てきたようにしか思えない。
何故なら黒狸などに聞かずとも、鳳のいる社長室くらいわかるだろう。三階のホールまで弁当を届けられたのがその証拠だ。
うねうねとした廊下を歩いている足取りも、初めて来たという素振りではない。むしろ黒狸がどう行動するか見ている余裕さえある。
こいつはもしかして心を透視するタイプの異能の持ち主だろうか。だとしてもどうすることもできない。
何故なら、こいつに自分の異能を使ったとしても、確実にそれを上回る意思の力で跳ね返されるか、逆に黒狸が自分の術をかぶるぐらいのペナルティが来そうだからだ。
「こちらが社長室になります。鳳とはアポイントメントをとっていらっしゃるでしょうか?」
「急な用事だと言っても快く承知してくれる仲だ。君に心配されるまでもない」
なるほど。鳳とはかなり関係が深いようだ。
「それではこれで僕は失礼しますね」
鳳の前ですら一人称は「俺」のままだというのに、うっかり「僕」と言ってしまった。自分の道化っぷりが自分で馬鹿馬鹿しくなってくる。
ラストは去り際の黒狸にぽつりと聞こえるように呟いた。
「アレの料理は、どうだ? 口にあうかね?」
さっと血の気が引くのがわかる。キリシュの弁当を自分に届けたことや、この質問から察するに、ラストに黒狸は監視されている。
「飼い主の趣味が悪い。餌を与えるのも気まぐれでは来年の春を待たず逃げられよう」
言っている意味がわからないが、とりあえず飴と鞭の扱いが下手だと過去のご主人様が言っていることくらいはわかった。
「このお弁当持ってきた奴のごはん、美味しいですよ?」
精一杯抵抗してそれを言うのが限界だった。
ラストは黒狸を見るとニタリと笑った。それだけで鳳の部屋をノックもせずに開けて中に入った。
黒狸は彼が扉を閉じるのを確認すると作り笑いをやめて、その場から脱兎の如く狐班のオフィスまで走って逃げた。
バタン、と扉を閉める。
狭い小部屋でずっと仕事をしていたエルムが、チョコレートの粒を口に咥えようとしたまま振り返る。
「顔、真っ青ですよ」
上司の様子がおかしいことにエルムは気づいているようだ。
「仲直りしたんじゃなかったんですか?」
エルムは黒狸の様子がおかしいのは件の相手とトラブルを起こしたと思っているようだ。
「なんだ。弁当もらってるじゃあないですか。じゃあなんでそんな顔してるんですか?」
黒狸の手にいつもの風呂敷が握られていることに気づき、エルムは首をかしげる。
「エルム。コードネーム愛妻の料理の味をしっている、俺より下衆そうな、それでいて俺より偉そうで、俺の言うことより愛妻がそっちのご主人様の言うこと聞いてそうな場合どう考える?」
エルムは黒狸の質問に怪訝な顔をした。
「夫婦喧嘩の相手の、元ご主人様VS黒狸さんですか?」
「今もご主人様かも」
「悪夢ですね」
勝ち目ないじゃあないですか。口には出してないが、エルムの表情がそう言っている。
「悪夢だ……」
黒狸はエルムの言った単語を繰り返した。
悪夢のような男だった。
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