13 甘いお弁当

 いつだったかボスの鳳が言っていた台詞だ。
「力は相手を交渉の席に縛り付けておくために便利なだけで解決そのものは力だけじゃあうまくいかない」
「解決するか否かは話術や交渉にかかっている。しかし有利に運べるかどうかは権力や暴力が大いに有効だ」

 紅龍会の財務を総括している立場ならば権力はそこそこあれども、暴力にいたってはほとんどない黒狸だ。
「残念ですがあなた方にお貸しできる銀行口座はないんですよ」
  いきなり某銀行からいくつもの口座を閉鎖されたことの確認がとれたときは驚いた。
  驚いたというのは、不当だと感じたというよりもどうしてバレたのだろうという意味でだ。
「どういう理由で閉鎖されてたのか当社のほうとしても理由を上司に報告しなければなりませんが」
「当社? 紅龍会は会社ではないでしょう」
「紅龍会とわたくしどもがどう繋がりがあるというのでしょうか」
「こちらでそれを立証する必要はありません。そちらで無罪を証明していただかなければ口座の再開はできません」
「わかっていませんね。疑わしきを罰するとシエルロアの法律には書かれていないんですよ。そちらで立証していただきたい」
  長引きそうな交渉だと黒狸は感じた。
  長引く理由は相手が感情的になっていることや、理屈がどうであれ筋を通す気がなさそうなこと、こちらが紅龍会と繋がりがあるとどこかで確信していることなどだが。
  黒狸は後ろに控えている実戦部隊、狼班のローレンスをちらりと見た。
  普段はスーツを着ないローレンスも今日は正装している。
「では、具体的にどのようにすれば口座を元の状態に戻していただけるのでしょうか」
「わかってないようだね。取引はあなた方とはしないと言っているんだ」
「賄賂とは一言も言っていませんよ」
  もう一度、ローレンスのほうをちらりと見る。
  ローレンスをうかがう仕草にローレンスのほうは反応しない。
「どんな取引にも応じる気はありません」
「本当に応じる気はありませんか?」
「何度も言わせないでください」
「最後にもう一度、本気で応じる気がないんですか?」
  銀行の責任者らしき男は大仰にため息をついて、首を左右に振った。
  黒狸は非常に残念そうな表情をして、ローレンスを三度目、振り返った。
「そういうことだ」
  三度、振り返るというのは狼班に恐喝、場合によっては殺してもらうための合図だ。
「また翌週、お会いできることを願っています」
  黒狸は丁寧にお辞儀をすると、ローレンスといっしょに応接室を出た。
  外に止めてあった車は豪華なデザインではないものの、防弾硝子でできている上に鉄板も二重構造だ。
  この車だけでも十分マフィア臭がするのに白々しい嘘を言ったものだと自分でも呆れる。
  運転手のトマスが後部座席の扉を開いてくれる。
  黒狸が先に入り、あとからローレンスが入る。
  車がスタートしても、ローレンスと黒狸は今面会した男をどう料理するかについて話し合わなかった。
  紅龍会にそのまま帰るのは不味いので、隠れ蓑に使っている分社のほうへ向かう。
  黒狸のために用意された分社のオフィスに入り、そこでやっとため息をついた。
  電話からエルムに今日は帰れないことを伝える。
――そうですか。じゃあこのお弁当は私のものですね。
  お弁当、と言われてそんなものを置いてきた覚えはないと思った。
「弁当?」
――お友達がさっき弁当持ってきてくれました。
「本当? 持ってきてくれよ」
――メールで添付しておきます。写真を。
  ガチャンと電話の切れる音。エルムは弁当を持ってきてくれるわけじゃあなさそうだ。それどころか写真だけ寄越すと言っている。
  ぐう、と腹が鳴ったのでローレンスを振り返った。
「物欲しげな目で見るなよ。ここの食堂美味いんだぞ?」
  ローレンスの慰めなど耳には入らなかった。

 その日は持ち歩いてた仕事を片付けたら帰るだけだった。
  仕事途中に受信したメールの中にご丁寧に添付してあったホットケーキの画像は携帯に保存しなおしたが、それで腹が膨れるわけではなかった。
「おかえり。お弁当どうだった?」
「美味しそうだったよ」
「あれ? 食べなかったのか」
「分社のほうに出張していて部下に食われた。『メープルシロップがたっぷりかかっていて、ふわふわでした。冷蔵庫にあった黒狸さんのバター借りたけれども問題ないですよね。美味しかったです』だそうです」
  非常にがっかりなテンションでそうお知らせして、弁当箱は明日エルムから受け取って持って帰ると伝えた。
  キリシュは気にしてない様子で「そうか」と言った。
「エルムレスさんだっけ? 美味しいって思ってくれたならよかった」
「非常に美味しそうなホットケーキの画像だった。わざわざ綺麗に盛りつけて写真とって送られてきた。くそう、俺が食うはずだったのにエルムの腹ん中だぞ」
「おいおい、ホットケーキくらいで拗ねるなよ。黒狸」
「エルムさんにやるホットケーキなんてありません。ホットケーキ今すぐ焼けよ、仕事中食えずに無性に食いたくて仕方なかったんだ」
「お昼に自分の分焼いたら小麦粉切れた」
  食べたいときに限って小麦粉が切れているようだ。しかし今から小麦粉を買いに行く元気はない。
  黒狸はキリシュを振り返った。
「今日夕飯あるのか?」
「ない」
「ホットケーキ食いに行くぞ」
「おい、オレのお昼ホットケーキだったっての覚えてるか?」
「違うもん注文すりゃいいだろ」
「どこで食べる気だよ? 今の時間カフェなんて全部閉まってるし、飲み屋にあるのはせいぜいお好み焼きだぞ」
「どっかないのか? ファミレスとか」
「ファミレスのホットケーキでいいのかよ」
  キリシュが呆れたようにため息をついた。
「なあ、明日ホットケーキでいいだろ」
「小麦粉ってコンビニで売ってるかな」
「黒狸……」
  キリシュの声が苛立ちを含んでいるのに気づいたときは遅かった。
  振り返るとキリシュが苛々した表情で近づいてくる。
「子供じゃないんだから、いい加減にしろよ」
「ええと……」
  歯切れの悪い返事をすると、キリシュの右手が黒狸の肩をどついた。
  壁際に追いやられて眼前にせまるキリシュの顔を見る。やたら怖い表情だ。
「おい、ホットケーキくらいでそんな怒るなよ」
「先にしつこかったのは黒狸のほうだぞ。謝る気になったか?」
「ああ?」
  思わず邪険な返事をしてしまう。ホットケーキが食べたいと言い続けただけでなぜ謝らねばならんのだと思ってしまう。
「キーリ、今日苛々しているだろ。満月だからか? 新月だと不安になって満月だと凶暴になるってか」
「ざけんな。お前が原因だ」
  キリシュの返答は簡潔だった。
  何がそんなに機嫌をそこねたのかもわからなければ、自分がそこまで怒られるようなことをした覚えもない。
「黒狸、謝れない大人は格好悪いぞ」
「だから何がそんな謝るような失礼なことだったのかって聞いてるんだよ」
「あれだけ引っ張っといて今更自分が都合悪くなるとそう重要でもなかったって言うつもりか?」
「キーリ、たかがホットケーキされどホットケーキだぞ」
「違う。たかがホットケーキにうるさい黒狸。されど都合が悪くなるとたかがと言い出す黒狸だ」
「ああ俺が問題ですか。すみませんね、苛ついてるのは俺ですよ。これで満足か?」
  正直な話、男からびんたをおみまいされることがあるとは思ってもいなかった。

「また、叩かれたんですね」
  頬にでかい手型をつけたまま仕事場に向かうのは恥ずかしかったが仕方がない。
  元凶のエルムは女性に叩かれたと思っているらしく、いつものことだとそう気にしていない。
「俺、そんな何度も叩かれてないです」
「一番ひどいときは魔法使いの傷が額にありましたが」
「あれは驚いた。シャーペンで額が割れるって知らなくて」
  エルムが原因と言ったところで彼女はくだらない喧嘩を聞いて鼻で笑うだけだろう。本当にくだらない喧嘩だった。
  それなのに昨日から口を聞いていないし、どのタイミングで何を言えばいいのかわからない。
  謝って叩かれたのだから、また謝ったら叩かれるんじゃあないだろうか。
「猫と女は秋の空模様だな。エルム」
「そうですね」
  きまぐれ猫が何を考えて怒っているのか黒狸にはわからない。