12 蝶恋登場
キリシュが黒狸の家で暮らすようになってもう一ヶ月が経とうとしていた。 家にキリシュがいるのはもう当たり前のような気さえしてきた。
黒狸はネフリータが家を出ていったあと、誰も家にずっと住まわせていなかった。
自分でもおかしいと感じる。住まわせるのが女性ならいざしらず、自分の得意としない男にタダで間借りさせているのだから。
――黒狸、枇杷が食べたいわ。今日そっちへ行くから買っておいて。
仕事中、唐突に入った幼馴染の蝶恋からの電話に、黒狸はぎょっとした。
枇杷がこの時期高いことにぎょっとしたわけではない。自宅に今もいるキリシュのことをどう幼馴染に説明するべきか迷ったのだ。
「あ、明日にしてくれないか? ちょっと今女が家に泊まってて……」
――女が家にいるから何? 今日行くわ。枇杷のコンポート食べさせてくれないともうあんたと口きいてすらやんないわよ。
「そちらにお伺いして好きなだけお作りしますから、頼むからうち来るな」
蝶恋がどうしても家に来たがるのを止めるために途中まで下手に出たが、やっぱり最後は偉そうな命令口調になってしまった。
携帯の向こうで蝶恋がふふんと笑うのがわかった。
――どんな嫉妬深い女なの?
「ともかくコンポートは今夜作りに行くから、家で待ってろ!」
思わず大声になりかけたので声を小さくするのを意識しようとした。蝶恋の返事は簡潔だった。
――今夜、あんたの、家に、行くわ。枇杷を忘れず買っておくように。
一方的にそう言われて電話が切れる。蝶恋は昔も生意気な女の子だったが、オペラ歌手になってからさらに高飛車になった気がする。
携帯を鞄に放り投げて「かしこまりましたよ、女王様」と呟いてボールペンを構えた。
なんとしても仕事を早めに片付けて、蝶恋より先に帰らねばならない。
キリシュに少しの間どこかで時間を潰していてもらおう。
早めに帰宅しようとしたらエルムは「裏切り者」と聞こえる大きさの声で呟いた。
こちらも不機嫌、あちらも不機嫌。女性というのは機嫌とりが大変難しい。
スーパーでコンポートに向きそうな大きさの、熟してない枇杷を見つけるとそれをカゴに入れる。蝶恋の好きなフルーツトマトと、クリームチーズ、そしてキリシュの好きなはちみつもカゴに突っ込んでレジに並んだ。
金を支払うときに自分の好物を何も買ってないことに気づいたが、今更買いに戻る時間もなかったのでそのまま急ぎ足で帰宅した。
扉を開けたとき、肉を焼いたいい香りがして、もう夕飯をキリシュが作り終わったことに気づいた。
この状況で女が来るから帰れと言うのも失礼な話だよなあと思い、言い訳を考えるが、あまりうまいものも浮かばない。
「お帰り、黒狸」
キリシュがぱっと明るい顔をして廊下に迎えに出てきた。黒狸は少し口がひくついたことを自覚した。この嬉しそうな表情に「帰れ」という残酷さを考えて。
「今日ハンバーグ焼いたんだ。あとこの前黒狸が作ってくれた温野菜が美味しかったから、市場で一番美味しそうな野菜くださいってお願いしたらな、蒸したにんじんがめちゃくちゃ美味しくて……」
「ははは。ありがとう」
どうしよう。ものすごくがんばってご飯を作ってくれた主夫に帰れを言うのはよくないとわかっている。
無理やり笑顔を作ったまま、蝶恋への言い訳を考えだした。
「今日、幼馴染が家に来る予定でな」
正直にキリシュに話して、口裏合わせてもらうのが一番だろう。
「黒狸の幼馴染?」
「そう。粘着質な女でさ、家に行くって言ったのにどうしてもここで枇杷のコンポート食べたいって言いはるわけ。だから――」
説明が終わらないうちに玄関のほうで音が聞こえた。
振り返れば、ぱっつん黒髪の女がこちらを見つめている。
ジーンズにシンプルな生成りのカットソーを着て、下はローヒールのサンダルだ。スタイルがよくなければ芋臭くなって終わりの格好をいともあっさりと着こなしている。
「誰? その男」
黒狸のエプロンをつけているキリシュを見て、蝶恋が開口一番そう質問した。
「幼馴染って彼女?」
背後からキリシュの声がするが、黒狸は振り向かずに蝶恋の眉間にシワが刻まれることに注目した。
蝶恋はゆっくりこちらに歩いてくる。もう次に何があるのかわかっているので、体に力をいれた。いれた瞬間頬をでかく殴打される。
「あんた、ついにホームレスの男まで連れ込むようになって!」
「痛っだ!」
「しかもこんな若い子、病気になったらどうするの!?」
「キリシュは病気じゃねえよ」
「あんたの悪い病気が感染ったら……!」
「俺は性病じゃない」
「不潔!」
「色々勘違いなさってるようですが蝶恋さん、俺はこいつにいやらしい真似なんてしていませんから!」
「見苦しい言い訳よ!」
蝶恋は手にもっていたビニール袋で黒狸を横殴りした。壁によろめきつつ、蝶恋を恐ろしいとばかりに見た。
「たまねぎで殴る奴あるか」
しかし黒狸の言葉は無視して、蝶恋はキリシュと向かいあった。
キリシュもきょとんとした目で蝶恋を見つめる。
もうここは、キリシュの機転に任せるしかないと思った。どうかマズい発言だけはしないでほしい。
新月の夜にいっしょに寝たとかそういう誤報だけは避けてほしい。
「キリシュ?」
「ええと、蝶恋?」
二人はほぼ同じタイミングで相手の名前を確認した。知り合いらしい。
「キリシュ! 久しぶりじゃない」
蝶恋の顔がぱっと明るくなる。
そして彼女には珍しく、キリシュをハグして頬にキスをした。
「やだ、小さい頃の面影あるわね。でもいい男になったわ」
「蝶恋は随分美人になったね。ぱっつんなのはあの頃と変わらないけれど……」
置いていかれてると感じて、黒狸は昔話に華を咲かせる二人からそろりそろりと離れた。
離れる際に蝶恋にもう殴られないようにたまねぎを回収して、そしてダイニングに入る。
廊下で会話している彼らは放置して、綺麗に並べられたハンバーグと温野菜を見つめる。
二人分だ。当然蝶恋の分がない。
「蝶恋、ハンバーグいるか?」
後ろで会話している蝶恋に声をかければ「いるわ」と返事がかえってきた。
二人の邪魔をしないように焼こうとしたら、慌ててキリシュが戻ってくる。
「ああ、オレが焼くよ。黒狸着替えてていいから」
そう言って奥の部屋まで押しやられる。
部屋着に着替えるわけもいかず、シャツとパンツを取り出して着替え、洗濯物を洗濯機に突っ込みに行く。
みっつ目のお皿が用意されていて、蝶恋が勝手に黒狸のお気に入りのウイスキーを炭酸で割っていた。
「「乾杯」」
声を重ねて、盃を重ねて、渇いた喉をハイボールで潤わせた。
キリシュの焼いたハンバーグは和風のタレがかけてあった。黒狸はどうしても洋風にしてしまうことが多かったので大根おろしという手もあったかと素直に感心する。
蝶恋が幸せそうにハンバーグを頬張っている。
キリシュが美味しそうに人参を食べている。
何も心配する必要はなかった。素直にキリシュという居候がいると蝶恋に言えばそれで済んだ話なのに、何を焦っていたのだろうと思ってしまった。
「お前らどこで知り合ったの?」
今このタイミングなら聞ける。そう思って蝶恋とキリシュに聞いてみた。
キリシュが「幼馴染だよ」と言った。
顔がひくつくのがわかる。蝶恋と自分も幼馴染だが、蝶恋とキリシュが幼馴染らしい。
そして自分だけ仲間はずれである。面白くない。
「キリシュは私の王子様だったのよ。十歳の時、あんたの家にチョコレート持っていったでしょ。あのときチョコレートくれたのがキリシュ」
「覚えてないし、今の説明文脈おかしい」
いちいち蝶恋が何歳のときにチョコレートを持ってきたかなんて知らないし覚えていない。
「私、それまでチョコレート食べたことがなかったのよね。それでキリシュがたまたま板チョコ持っていたから、『それよこせ』って言ったの。『半分じゃなく全部よこせ』って」
「カツアゲだろ、それ」
蝶恋が現在二十七で、キリシュが二十五のところを逆算すればキリシュは当時八歳じゃあないか。蝶恋のがめつさに驚いてしまった。
「そしたらね、笑顔で『はい、どうぞ』ってくれたのよ。これはもう王子様よね」
「へーえ……すげーな。子供なのに」
「それを祥家に持っていって自慢したら、雪狐の奴『そんな細菌だらけのチョコレートいらない』って言うし、おまけにあんたは私がよそ見してる間に半分残してたチョコ食べちゃったし」
「非常に格好悪い祥兄弟の情報はリークしないでください」
蝶恋の初めて食べる、しかもキリシュからプレゼントされたチョコレートをけなしたり勝手に食べたりした過去の自分と雪狐を軽く脳内で叱った。
キリシュは遠慮なく黒狸をけなす蝶恋と、たじろく黒狸がおもしろいらしく笑いながらボイルしたじゃがいもを口に運んでいる。
「美味いな」
「本当、美味しいわ。キリシュは料理が上手なのね」
蝶恋と黒狸は口々にキリシュの料理を褒めた。キリシュは照れ笑いするだけで、否定も肯定もしない。ただ嬉しそうに照れているだけだった。
「俺の彼女、たいてい料理得意じゃあないんだよな」
「ネッフィーは料理上手だったじゃない?」
「あれは恋人じゃあないです。俺の天使です」
蝶恋がかつて同居していた少女の名前を出したので、丁寧に言い訳をする。キリシュはびっくりしたように
「ネッフィーと付き合ってたの?」と聞いてきた。
「言ってなかったっけ? ネフリータは俺のところに八年くらい寝泊まりしてたって」
「聞いてないよ。あれ、彼女の年齢から八年引くと十二歳以下……」
キリシュの質問にどう答えるべきか悩んでいるときに、蝶恋が簡潔かつ誤解のある説明を追加する。
「ロリコンなのよこいつ」
「リータコンプレックスは自覚あるがロリコンじゃあない」
黒狸の台詞にキリシュが「へ、へえ……」とぬるい生返事を返したが、黒狸は何がいけなくて彼らが自分をロリコン扱いするのかがわからなかった。
ネフリータに一度も手を出したことはないし、二十歳を超えるまで手を出すつもりもなかったというのに。
それにしても不思議な縁だと感じる。
蝶恋とキリシュのつながり、黒狸とネフリータのつながり、キリシュと黒狸のつながり、蝶恋と黒狸のつながり……
そういえば最初にニカが言っていた。ネフリータの恋人であるジュリオともキリシュは接点があったようだ。
色々と話をしながら食事を食べ終わったあと、蝶恋の目的であった枇杷のコンポートも作り、蝶恋は枇杷を食べたあとに黒狸の買ってきたフルーツトマトも遠慮なく食べた。
その間黒狸は食器を洗い、キリシュは洗濯物をたたんでいた。
「所帯じみてるわね、あんたら」
蝶恋の言葉には歯切れの悪い生返事しかできなかった。
夜も更けて、帰ると言った彼女を駅前まで送っていく。
そろそろコートが必要な時期なのに、彼女はコートを持って来なかったらしく、黒狸に手を差し出して
「カーディガンを買うお金をちょうだい」と言った。
「なんですか? この手は。俺はお前の人間ATMじゃございません。カーデは自分のお財布から買いやがりください。ソプラノ歌手サマ」
「ドレス買うお金しかないのよ。知ってるでしょ、金のかかる世界でかつかつなの」
蝶恋の手は引っ込まなかった。仕方がないので財布からお札を二枚出す。最近余計な出費ばかりだ。
「黒狸、私の王子様不幸せにしたら許さないわよ?」
「俺からカーディガン代もらった手と罵るお口は連絡とりあってないのか? 腐れ縁にしたって失礼すぎるだろ」
「私の王子様にいやらしいことしたら許さないわよ?」
蝶恋は構わずもう一度釘を刺してきた。
「ふざけんな。俺はヘテロだ」
そこはきっぱりと誤解を解きたかった。
蝶恋は怪しいとばかりに睨みつけると、「じゃあね」と言って駅の改札の向こうへと消えていった。
自分はヘテロだ、ノーマルだ。
同性愛に偏見があるわけじゃあないが、決して自分がそっちの世界に踏み入りたいわけではない。
しかし蝶恋の言いたいこともわかる。
黒狸は何のメリットもない、肉親でもない人を養うような性格ではない。
今まで世話を見たのといえば、弟の雪狐とネフリータくらいだ。
どちらも他人と言い切るには近すぎる存在だし、これは黒狸の中では例外といっていい。
じゃあキリシュは三人目の例外に当たるのだろうか。
(キリシュが居ていいことってなんだろう?)
その一。夕飯がある。
ただしごはんは自分で作ることもできる。
そのニ。寂しくない。
ただし相手は女性ではない。
その三。思いつかない。
つまり寂しくて仕方なかったというのが一番の理由な気がする。
寂しさを埋める相手はキリシュでなくてもなんとかなるが、現れたタイミングと、保身の上での理由。
つまり、キリシュが適役ということだ。
ぐるぐると思考を巡らせたあとに、今考えたことを軽く頭の中でおさらいしてみた。
自分でも言いたいことが理解できなかった。
その上言い訳じみているとさえ感じる。
(必死になって理由探してないか?)
キリシュに気を許していることに理由を見つけようとすると、いきなり頭の中が普段よりややこしくなる。
どうして、と考えるのはよすことにした。
帰り道、異邦人街のごちゃごちゃしたブティックの入り口にあったコートが目に止まった。
スタンダードなベージュのトレンチコートだ。
サイズもキリシュのものとそんなに違いがなさそうな気がした。
しかし財布を見れば金はもう残ってなかった。
余計な出費があったから仕方がないか、と諦めて家へ帰ろうとした。
「いくら持ってるの? そのコート、他にサイズがないから有り金で売ってあげる」
ピアスをつけたあまり素行のよろしそうもない店員がそう言った。
お金に困ってそうな顔をしている。たぶん、現金が欲しいのだろう。
「お札が三枚です」
「ひどいな。貧乏なおにーさん」
苦笑いして、有り金全部といっしょにリーズナブルな価格でコートを手に入れた。
紙袋に詰めてもらって家に持って帰る。
「ほれ」とキリシュに紙袋を渡すと、キリシュは中に入っているものを目で確認して、「いいの?」とおそるおそる黒狸に聞いた。
「安かったから」
実際は逆の順序だが、結果的に安かったのには変わりはない。
「何か、お礼したいな」
キリシュは買ったばかりの真新しいコートに袖を通し、サイズが間違ってないのを確認しながら言った。
黒狸はお礼なんてそんなことは考えてもいなかった。蝶恋がカーディガンの値段を要求するように、キリシュにもそれくらいの感覚でコートを買ってきただけだった。
「最近、弁当作ってる時間なくてな」
食べ物が傷む時期でもないし、それくらいの願いだったらいいだろう。
「コンビニに買いに行く弁当が味気ない上に飽きるんだ。暇なときでいいから、作ってくれるとありがたいなあ……って」
ずっと作れなんて言うつもりはないから。そう付け加えて、キリシュにお願いをした。
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