11 新月
「今夜は新月ですよ」
仕事帰りに部下のエルムがそう言った。鞄を小脇に抱えて振り返り、「占い?」と聞き返す。彼女が占いなどあてにしていないだろうことは知っていたが。
「夜道に気をつけてくださいってことです」
「それ、普通は俺がお前を心配して送り届ける役じゃないの?」
「送り狼って言葉知ってますか? あなたに送り届けてもらうくらいならばタクシー使います」
相変わらず痛烈な切り返しをしてくるエルムに、「お疲れ様」を言って執務室を後にする。
もうすぐ十月になろうというのに、暑い日が続く。かと思うとたまに大寒波が来るから油断ならない。
ちなみに今日は暑いと感じる。夏物のスーツでも通気性のよさを感じない程度には蒸し暑い。
とはいえ、もう夏とはいえないと感じる理由は、もう外がすぐに暗くなることだ。夏ならばもうちょっと薄明るかったはずなのに、あたりはもう真っ暗だった。
毎年ならば、バーで一杯マティーニをひっかけて帰る季節なのだが、一人でつまみだけ食べて帰るよりは家で二人で晩酌しようと思い、ビールを二本買うとつまみの類を買うかどうしようか迷い、たぶん何か作っていてくれることを期待して買わずに急ぎ足で帰った。
自宅に入って最初に感じたのは部屋中の明かりがついているんじゃあないかということだった。
玄関の明かりはもちろん、バスルームも明るい。トイレももちろん明かりがついている。ただしバスルームもトイレも使用者がいる形跡が見られない。
リビングに入ると、キッチンの明かりはすべてつけられているし、奥の部屋も煌々と明かりがついている。
そんな不経済なことをしている張本人のキリシュはテーブルでうなだれていた。
どうしたのだろうと黒狸は首をかしげる。
「キーリ、飯は作ってない……よな?」
キリシュの反応は薄い。もしかして病気なんじゃあないだろうか。
「キーリ、病院行くか? 風邪なら薬もらって治したほうがいいぞ」
「風邪じゃない」
キリシュは小声で「新月だから」と言った。
そういえばそんなことを部下も言っていたなあと思いながら、キリシュは新月が駄目なのかと素直に納得した。
「飯は食った?」
「いらない」
「食べたくないの?」
「いらない」
わかりやすい、機械的な指示に黒狸は口がへの字に曲がるのを自覚した。
自分だけ食べるのはどうかと思ったが、食べずにいるのもお腹が空く。
着替えたあとにリビングを見ると、まだキリシュは項垂れていた。洗濯機にシャツを突っ込み、戻ってきてもぴくりとも動いた形跡がない。
「キーリ、もう寝ちゃえよ」
起きていたっていいことがなさそうなキリシュを気遣い、そう声をかけた。
「夜が怖い。怖くて眠れない」
「ずっとそうしてる気か?」
そうしているつもりならば止めないが、あまり体にも精神にもよくないだろうと続けようとしたところ、キリシュが顔を上げた。
「へいりー……」
きた。不安そうに自分の名前を呼ぶときは最初から最後まで鼻から抜けたような音で発声するのだ。
この呼び方で呼ばれると、不安が肌から伝わってきて今すぐ不安を解消しなくてはと思ってしまう。
「いっしょに寝てくれないか」
キリシュの台詞を判断するのが一歩遅れた。黒狸がキリシュから伝染してきた不安に動揺して「いいよ」と答えたあとに自分の答えた意味に気づく。
キリシュは静かに立ち上がると、いつも寝ているマットレスではなく、黒狸が寝ているベッドへと歩いていった。
先へ潜ったキリシュにあれは嘘でしたと言うのもはばかられ、というのもキリシュが本気で怖くて眠れないというのが黒狸には十分すぎるほど伝わっていたからだが、結局やや考えたあとに隣からベッドに潜り込んだ。
キリシュが眠るまでは起きて様子を見ておこうと思ったが、ベッドで間近でキリシュの顔を見るとぎょっとしたものだ。
男といっしょにベッドインしているという事実が奇異すぎてたまらない。
思わず助けてと言いたくなるのは黒狸のほうだが、キリシュはいっしょに寝るだけじゃ不安を払拭できないようで、黒狸の手を握った。
黒狸は思わず手が汗ばんだのを感じる。彼にその気がないとはわかっていても、ベッドで男の手を握れるということは、まったくそのケのない男としてはありえない行為だ。
つまり、キリシュは男に対してその手の垣根が薄いということになる。
(ベッドインするだけですから。それより先はないから!)
思わずそう胸中呟くも、キリシュの握る手の力はよりいっそう強くなり、骨がみしりと鳴るくらいだった。
「大丈夫」
キリシュが大丈夫と言って大丈夫だと感じられないのは、キリシュの緊張がじっと伝わってくるからだ。
「黒狸は襲ってこない。安心」
ぽつりとそう呟いて、キリシュは手を握ったまま、しばらくして眠りについた。
キリシュが完璧に寝てしまったことを確認して、手から力が抜けて離れるところまで見守った。
そうしていったん体を起こし、もう一度キリシュを見下ろす。
キリシュは完璧に安心しきったような顔をして眠っていた。
黒狸は今の今まで強く握られていた手を握ったり開いたりして、きつく握られていた事実をもう一度自覚した。
ミネラルウォーターを冷蔵庫から出して、飲んだ。
食事もしたかったが、匂いでキリシュが起きると厄介だからそうするわけにもいかず、また布団に潜るはめになりそうだと思った。
「黒狸は襲ってこねーも何も、男は襲わねえし」
当たり前だ。それが普通の男だ。同性に興味のある男だけが男の据え膳を食べるものだ。あれは自分とは別の人種だとさえ感じる。
キリシュのことをそれで軽蔑するわけじゃあないが、同性とベッドに入っても何の抵抗もなく、男に襲われたこともあるであろうということは自覚しておこうと思った。
宿なし生活がどれくらい続いたのか知らないが、仕方のないことなのかもしれない。このシエルロアで食べ物に困って手っ取り早く寝るところと食べるものを手に入れようとしたら身を売るのが一番手っ取り早いのは確かだ。
よしんばそのつもりがないとしても、衣食住をやると言って騙して襲う奴もけっこういるんじゃあないかと予想がつく。
新月もそれと関係があるのだろうか。例えば新月の夜に襲われたとか、新月の夜に身を売る羽目になったとか。
ふいにエルムの「夜道に気をつけてください」がリアリティを帯びて、黒狸はぶるっと体が震えた。
殺されたり恐喝されたりは考えたことがあったが、男の自分がそういう目に遇わされるであろうことは想像もしたことがなかった。
月のない夜には気をつけよう。そしてキリシュのために少しだけ早く帰ってこようと心で小さく誓った。
翌日、黒狸より先に起きたのはキリシュだった。
ホットケーキの匂いで目を覚ました黒狸がお皿に盛り付けているキリシュに「おはよう」と言うと、いつもの調子で「おはよう」と歯切れよく返ってきた。
今日のキリシュに昨日のキリシュの怯えは見えなかった。
歯を磨いてテーブルに腰掛け、今日もはちみつをたっぷりかけているキリシュをじっと見る。
「キーリの七不思議」
「黒狸は七不思議じゃ終わらないよ。いつも言ってる意味がわからない」
ホットケーキを切り分けて食べだすキリシュを見ながら、黒狸はいちごジャムをホットケーキにかける。
キリシュの七不思議はたいてい、どうやって生活していたのかという点において不明なことだらけだった。
ただひとつ、キリシュは普通の人じゃあないということだけはわかっていた。何かそういう匂いが出ているのを黒狸は感じ取っていた。
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