16 お弁当事件夜

 その夜、市場にもスーパーにも寄らずにまっすぐ自宅へ帰った。
  なんとなくキリシュを一人にしていてはいけない気がした。
  黒狸のこういうときの勘はたいてい正しい。

「ただいま」
  玄関を開けて、帰宅の合図を送ったが迎えに来る姿も返事もない。
  ダイニングに入ると、いつかの新月のように、項垂れたキリシュがいた。
「ただいま」
  もう一度キリシュに言ったが、反応はない。
  おかえりと言ってもらいたいわけじゃあなく、かける言葉が見つからなかったための沈黙を埋めるための単語だった。
「……おかえりなさい」
  キリシュの声は透明で尖っていた。どこか割れた硝子の破片のような刺々しさを感じる。
  あまりいい状態ではないことが声から窺えた。
  黒狸は小脇に抱えていたお弁当を流しに持って行きながら、何事もなかったかのようにキリシュに聞いた。
「びっくりしたぞ。キーリがお弁当持ってくると思ってたのに、お父さんが持ってきたみたいで。どこで会ったんだ?」
  もちろんあれがお父さんなわけがないとわかっているが、そう言えばキリシュから反応が来るだろうと思った。
「やめろ」
  返ってきた返事はやや苛ついた、それでいて黒狸の冗談を受け付けられないというメッセージだった。
「お父さんじゃなかったり?」
  それでもしらばくれたまま、茶番を続ける。
  キリシュは青い前髪を垂らしたまま、大げさに頭を抱えた。
「……聞かないで」
  怯えている。腫れ物に触れるのが怖くて、思わず黒狸は即答した。
「聞かない」
  キリシュがこちらを振り返る。即答した黒狸を信じられないという目で。
  拒絶したかったわけじゃあないが、キリシュが話したくないという内容をこちらから根掘り葉掘り聞くようなことはしたくなかった。
  もし話したいなら、話せそうな空気は作ろう。だけど自分からほじくっていい内容ではないことぐらい察しがつく。
  しばらく、弁当を無言で洗った。
  黒狸は夕飯を食べていなかったし、キリシュもおそらく何も食べていない。
  このあと作るにしても、まずは話を聞く空気を作り、食事を食べられるような雰囲気を作ってからじゃあないと食べても美味しいと感じられそうもない。
「元、上官だよ。軍時代の」
  キリシュがやっとそう呟いた。おそらく暗殺者時代の上司なのだろう。
  あの様子からただの上司でないことぐらいは察しはつくが、これは探ってくれという合図だろうか。
「あの人さ、軍の上官ってのは建前だよな?」
  何か人じゃあない気配がしたのは確かだ。
  キリシュが言えないならば、自分の気持ちという形で吐露しよう。
「すっ…………………………………………………っげ、怖かった」
  溜めて言った言葉に、キリシュが反応しない。
  あとひと押ししよう。そうすれば何か言ってくれそうな気がする。
「職業柄人のことはわかるほうだ。なんか人だけど人じゃない」
  正確には職業柄というより、異能も関係あるわけだが。
  これで喋りたくないならばつついてはいけない内容なのだと思い、水道を止めた。
  タオルで手を拭いていると、キリシュが口を開いた。
「恐いなんて、もんじゃない」
  キリシュの声は震えていた。
  黒狸は指の先についた雫を完全に拭き取り終えると、ダイニングのキリシュを確認した。やはり頭を抱え込んでいる。
  ラストはキリシュのトラウマと何か関係があるようだ。
  これは慎重に探る必要がありそうな気がした。言いやすいように何かとっかかりを作ろう。
「悪夢ってああいうのを言うんだって部下が言ってた」
  正確にはエルムの表現はちょっと違うが、便宜上部下がそう言ったと表現してみた。
  キリシュはどう反応するだろうとうかがっていると、彼は頭を抱えた姿勢から、斜めにずるりと崩れて床に倒れた。
「キーリ!」
  まさか気絶するとは思わなかった。
  慌てて駆け寄り、頭を強打していないか調べる。
  下手な角度でぶつけたところはなさそうだったが、手を握るとやたら冷たい。急激に体温が低下していっている。危ない。
  毛布でくるんで保温するか、シャワーを浴びせて熱を与えるべきか――。
  命に別状はなさそうだし、保温して病院に運ぶのはマズい状況な気がした。キリシュを抱き上げると風呂場へと連れて行く。
  シャワーの温度を少し熱めに設定して、蛇口をひねる。風呂場は湯気で充たされて、キリシュも自分も服を着たまま濡れ鼠になった。
  キリシュの体温は少しずつ上昇しているように感じる。頭を変なところにぶつけぬようにキリシュの体を支えていると、握っていてやった手に力が少しこもったのがわかった。
「んっ……」
  キリシュの顔が傾く。起きたか? と思ったが、そのまままた動かなくなる。
  こいつの心の傷は尋常じゃあない。自分の手に負えるレベルを超えている。それだけは黒狸にもわかった。
  手術の道具が揃っていないところでオペをする医者はいない。何も準備せずにキリシュの傷口に触れれば、彼は自殺するかもしれない。
  脳裏に最初に浮かんだのは乱暴を受けたばかりの頃のネフリータだった。若い頃の黒狸も傷だらけのネフリータは持て余した。どうするべきかもわからず、ただいっしょにいることしかできなかった。
  それでもネフリータの傷は時間とともに、少しずつやわらいだ。
  時間をかけよう。そうして愛情をたくさん、シャワーの熱のようにかければいい。傷と向き合う準備ができた頃でも間に合うはずだ。というよりも、それぐらいしかしてやれることはない。

 キリシュがうっすらと目を開けた。
  ぼんやりとした眼で、黒狸を見上げる。しかし黒狸だと認識しているようには見えなかった。
「まだ、おわらないの?」
  キリシュがぼうっとしたまま、うわ言のように呟いた。
  何が? と思った。
  だが、それを確かめるよりも先に、黒狸はキリシュの手を握った。
「終わったよ」
  キリシュには聞こえている様子じゃあないが、それでも繰り返した。
「もう終わった、終わったから」
  聞こえているはずもないが、何度も。
  終わった、終わった、終わったよと。
  ここは黒狸の家だ。お前を傷つける人間は誰もいないと繰り返し呟いた。

 キリシュをベッドまで運び、濡れたシャツとベストを脱がした。ズボンも脱がすべきか考えた挙句、引き剥がす。
  キリシュはまだうたかたの世界にいるようで、黒狸を見上げたまま、時折か細く「まだ?」と先ほどと同じ単語を繰り返す。
  タオルで水分を拭きとって、眼帯が重そうだったのでそれも外した。
  そういえば彼が眼帯をしている理由さえ聞いたことがなかった。
  普段見ている側の目とは逆の瞳は、黄色が薄くなって金色がかっていた。
  まるで日食の日の太陽のようだと感じる。これは普通の目ではない。初めて皆既日食を見たときのような不安さが胸にこみあげてきた。
「お前は光だよ。もう怖くない」
  キリシュの髪を梳いて、言葉をかけた。なんとなくキリシュは光だと感じたからだ。月光であれ、欠けた太陽であれ、お前は光だと。
  静かにキリシュの体にブランケットをかけた。
  濡れた自分のスーツを脱ぎ、キリシュの服といっしょに乾燥させる。
  戻ってきてもキリシュは目を半開きにしたまま、どこともつかぬ天井を見つめているだけだった。
  黒狸は服を着替えて、胃に食べ物を詰めた。
  いつでも同居人のために動けるように。
  しかしその晩、特にこれといって体に大事になるようなことは起きなかった。
  キリシュは翌朝意識を取り戻すと、ベッドサイドで見守っていた黒狸に気づいて無理に笑顔を作ってくれた。
  何も力になってあげられなくてごめんなさい。
  そう言いたいのを黒狸は呑み込んだ。
「喉渇いたろ、何飲みたい?」
「ミルク」
  キリシュの要望はいつもと同じだった。
  結局キリシュとラストの関係については聞けないままだった。