17 光なんかじゃない
「あまり睡眠とってないでしょう」
エルムがじっとこちらを見てそう言った。あくびをしたつもりはなかったが、気づかれてしまったようだ。
「文章にミスが多いんですよ。こんな子供みたいな誤字」
「誤字なら普段からしてるけど?」
「あなたの誤字はわざとやっている悪ふざけの誤字です。だけど最近は本当に間違ってる。いったいどうしたんです? 愛妻と喧嘩でもしたんですか」
「愛妻と夜夢中すぎて睡眠不足は考えないのですか」
「それだけ体力のある黒狸さんなら元気なはずです。今のあなたはどちらかというと毎晩NOをもらってる時の黒狸さんですから」
部下にどう思われているのかが気になったが、そこには突っ込まずにエルムに質問した。
「月が太陽を愛するためにはどうすればいい? エルム」
「詩人になったつもりですか? バカ上司」
即座に痛烈かつ幼稚な批判が返ってくる。ここまでは期待したとおりだ。
「おひさまは孤独だよな。月は夜にのぼるんだぜ」
「昼間の月もあれば太陽が夜を照らす白夜だってあるじゃあないですか」
そういえばそうだった。
理科の質問をしたわけではなかったのだが、エルムの知り合いが理科オタクなだけに彼女にも理科の知識が移ってきたようだ。
でも、いいアイデアだと思った。要はいっしょにいられるようにすればいいのだ。
月ならば夜を照らす太陽になればいい、太陽ならば昼間に昇る月になればいい。
いっしょにいよう。ネフリータのときもそうしたはずだ。
お前は一人じゃあないと思わせればいいだけだ。
そう思った日の晩、家に帰れば玄関は閉めてあったがベランダが開きっぱなし。その上キリシュは留守ときた。
(女か仲間のところに行ってるのかな)
キリシュだって男なんだし、ずっと自分といっしょに生活していると異性が恋しくなったりするだろう。
何かあったときに頼るのは友達ではなく、仲間だと考えているかもしれない。
黒狸はキリシュが帰ってきても何事もなく接しようと決めた。
そうしてキリシュが言いたくなったときに言えるような環境を作っておけばいいんだと考えた。
だけど、あの事件以来、キリシュは十日間以上黒狸の前に姿を見せていない。
ギルドが忙しいということもないだろう。
シエルロア最大のイベントはついこの前、軍の勝利という形で決着がついたばかりだ。
つまりキリシュは、自分を避けている。
何が避けられる原因だったのかか黒狸にはわからない。何かマズいことをしたということだけはわかっている。
だけどホットケーキ事件の時以上に、どうやって話しあえばいいのかわからなかった。
謝るにも原因さえわからない謝り方は今回ばかりはしたくなかったし、第一相手はシエルロアのどこにいるのかわからない現状だ。
家に帰れば誰かが待っていることもなく、自分で冷凍していたごはんを温めてリゾットやお粥を作る日々が続いた。
キリシュが大量に消費する小麦粉は使う相手がいなくて減らないし、キリシュが大好きだった牛乳は賞味期限が切れて捨てることばかりだ。
そうしてキリシュに買ってやったコートだけは彼は持っていった。
これは本格的にお別れの合図かもしれないとさえ思っていた矢先のことだ。
真夜中にキリシュは戻ってきた。
「……どうした? 息荒れてる」
「扉、閉めて」
キリシュに言われて扉を閉める。
鍵を急いでかけるキリシュに、誰かに追われていたのだろうことに気づく。
「ここしか、来る場所がなかった」
キリシュはやっぱり姿を消そうとしていたのだろう。
他に居場所もないのに、どこかへ消えようとしていたんだとわかった。
「俺、何か悪いことした?」
何か悪いことをしたなら謝りたい。そう思って聞いた。
キリシュと玄関で向かいあい、見つめ合う。
キリシュが先に視線をずらしたが、その視線の先に扉があったので、キリシュは今は外に出られないことを思い出したらしい。
諦めたように、独白に近い調子でこう言った。
「オレはそんなに綺麗じゃあない」
何のことだろうと黒狸は首をひねる。
「光なんかじゃない」
説明を追加されて、ようやくこの前の台詞をキリシュに聞かれていたことがわかった。
なんだあれか。
そう小さく呟くと、黒狸も気恥ずかしさから視線をずらした。
「まああれは言葉のあやってやつで……」
ぼそぼそと言い訳を開始すると、それを遮ってキリシュは
「オレは汚いんだよ。黒狸」
と低い声で言った。
そう言って身も心も本当に汚かった奴を黒狸は知らない。
たいていは自分のほんのちっぽけな汚さが許せない、きれい好きだったりする。弟の雪狐がいい例だ。
「じゃあ、どこが汚いの?」
全部汚いところ否定してやろうぐらいのつもりで聞き返すと、キリシュは「やめてくれ」とかぶりを振る。言いたくないとばかりに。
「俺くらい汚れてからでも汚れたって言うのは十分間に合うよ」
たぶん綺麗じゃないと本人が感じる理由があって、それはきっと人に言うには憚られる内容なのだろう。
黒狸にももちろん自分が汚れてると感じる色々な理由があるし、元軍人ならばキリシュにもそういう思い出があって当然だ。
「意地はらずに戻ってこいよ、悪いとこあったなら謝るし」
黒狸の言葉に、キリシュが息を呑み、こちらを見つめ返してきた。
返ってきた言葉は反撃にも近かった。
「オレは、一人でも生きていける」
扉を開けて、キリシュは外へ出ていってしまった。
かける言葉を間違って機嫌を損ねてしまったようだ。
ここしか来るところがなかったなどとしおらしいことを言った口で、一人で生きていけると強がるのだから困ったものだ。
追いかけるべきかどうか悩んだが、結局連れ戻したところで機嫌を損ねるのがわかっていた。
束縛するのもそんなに好きじゃあない。いつかキリシュのシャツについていた口紅の女のところに行くのもありだろう。
キリシュにはキリシュの生き方があると頭ではわかっているつもりだ。
――オレは一人で生きていける。
キリシュの言葉が頭の中でリフレインする。
そう思って生きてこれたらどんなによかっただろう。
ずっと、ずっと幼稚園の頃から運命の相手を探していた。それが誰なのかわからなかったが、ずっと探していた。
黒狸の運命の相手は今も見つからないし、今も一人ぼっちだ。
「俺は一人でも生きていける」
自分の中で諦めるように、呟いた。
運命の女性なんて現れるわけがないのだと、刻もうとして。
「やっぱり一人じゃ生きていけねーわ、俺」
しかし根性のない自分には、一人ぼっちでずっと生きていくなんてタフな真似できるわけもないとすぐに諦めた。
シエルロアで背丈が黒狸と同じくらいの男を襲う集団があると知ったのは翌日のことだった。
なんとなくキリシュが自分とほぼ同じくらいの背丈だったことを思い出し、そして彼が追われていたことも思い出したが……
一人で生きていけると啖呵をきられた挙句、今はどこにいるのかもわからないキリシュを見つけるのは難しく、連れ戻すのはもっと難しいと感じた。
それに彼は元軍人で自分よりもずっと強そうだった。
一人で生きていけるというのもあながち嘘じゃあないのだろう。
ならば黒狸には付け入る余地などどこにもないじゃあないか。
「あーあ、つまんね」
黒狸は悪態をつくと、近くにあったダンボールに脚を上げて煙草に火をつけた。
エルムがそれを咎めるような視線で一瞥し
「あなたはチンピラですか」と呟いた。
こんなときに悪態ひとつついちゃいけないなら、紅龍会の中間管理職なんかになるんじゃあなかったなと思った。
大切な人ひとり探しに行くにもスケジュールを調節しなきゃいけないなんて、なんて生きた心地がしないのだろう。
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