18 レイプ事件
「エルム、お前はどうして俺を信用しないんだ?」
札束の入ったトランクケースを渡そうとしない女部下を見つめて、黒狸は低い声で言う。
「あなたはこの前私の前でファミレス代をトランクケースから出したじゃあないですか」
「あれは悪かった。だから女の子がそのトランクを持つのはオススメしない。貸しなさい」
「いやです。黒狸さんは私より強いって保障あるんですか? 実戦できびきび動けるわけでもない中年なのに」
ぐさっと刺さる言葉を言うエルムと返す言葉が見つからない黒狸を見て、スラム管轄のブローカーが苦笑いをした。
「レム、金額はぴったりだった。報酬はのちほど紅龍会のほうからいつもの口座に払っとく」
「ああ、よろしく」
虫歯のある歯でジェレミアはニカッと笑う。
黒い革ジャン姿だとバンド歌手か何かに見えるが、彼を信用しているのは商品の麻薬を常用していないことにある。
レムと別れて、隣にいるエルムと距離が離れないようにしながら車へと向かう。
「なあエルム、帰り道をかえようか」
普段歩く通りの向こうに、たむろしているチンピラの集団がいる。
あまり大金を持っている状態で遭遇したくない。
エルムは「チンピラを怖がるんですね」と嫌味に呟き、サイドの道へと入っていく。離れぬように彼女の後ろについていった。
「戦えないわけじゃあないでしょう」
先を歩くエルムがそう黒狸に問うが、たしかに戦闘技術がないわけではない。おそらく一般のチンピラよりは多少小回りもきくのだろう。しかし……
「戦うって選択は最後でいい。逃げたら死ぬときだけで」
「それは私も賛成ですが、男が言うと少し腰抜けに聞こえますね」
「そうですね」
とほほと思いながら、エルムが踏み越えたコートの男を確認した。
青い髪、眼帯をしていて、自分があげたコートそっくりのものを着てうなだれている。
「どうしました?」
キリシュはこちらに気づいていないし、エルムも彼のことを気にしていないようだ。
「エルムさん?」
「なんですか。寄り道はあとにしてください」
エルムの返事もキリシュに似て簡潔なものだ。
シンプルな回答を持っている人がたまに羨ましくなるが、ちらりとキリシュを見て、先をずんずん歩くエルムをもう一度目で追う。
二次的な悲劇を産まないためにも、先にエルムを車まで送り届けよう。
ごめんなさい。と心で唱えながらキリシュを踏み越えて、エルムを通り向こうにいる車まで送り届ける。
運転手をやっているトマスに「彼女を紅龍会まで必ず届けるように」と口添えすると、エルムが車に乗ってこちらを見た。
「私には一人でスラムに行くなって言うくせに、一人でスラムに残るんですね」
「知り合いが倒れていたから」
「さっきのコートの男ですか? 人を助けて自分が死ぬなんて馬鹿げた真似、しないでくださいね。上司がすげ替わると色々やり辛いんです」
「かしこまりました。お先にお帰りください、俺も必ず戻りますから」
エルムはこちらを信用していない目で見て、車を発進させるように指示を出した。
車を見送ってから、元来た道を急いでUターンして、キリシュのところへと行く。
キリシュはコート以外何も纏っていなかった。近くに服が散らばっている様子もない。
どこかからこの通りに逃げ込んできたのだろう。
黒狸はキリシュを覗きこんだ。様子がわからなかったから顎を持ち上げた。
顎に触れたことでキリシュは意識を取り戻したようだが、まだ少しぼんやりしているように見えた。
「あんたもやりたいの?」
うんざりしたように呟いて、キリシュが自分からコートを脱ごうとした。
黒狸はあわててキリシュの手を止めた。
ここまでくると痛々しい気持ちになるのはむしろ黒狸のほうだった。
「俺が今悲しい気持ち、わかるか?」
「わからない」
キリシュはうっすらと目を細めた。
キリシュは自棄になっている様子はなかった。目も正気そうだ。
ここまでされてまったく曇りのない目は、逆に怖いと感じた。
「わからなくていいよ。悲しいんだ」
キリシュがどう感じてようと関係ない。黒狸は悲しかった。
悲しくて、怖かった。
キリシュはわっと泣くこともしなければ、狂った目をすることもない。
こんなときまで、目の光は同じなのだ。
「そうなの? 悲しいのは、いやだね」
「そうだな。悲しいのはいやだな」
「痛いのも、いやなんだ」
「痛いのも嫌だ」
キリシュが悲しい目にあうのも、自分が悲しい目にあうのも、痛いのも、苦しいのも、全部いやで仕方がない。
それでよかったね、あれがあったから自分たち今こうしているんだとか、あのおかげでこうして巡り会えたとか、そんな後付けの理由なんていらないと感じた。
キリシュに差し伸ばした黒狸の手に、キリシュは無反応だった。
触られたくなかったのか、それとも拒絶されたのか、その瞬間はわからなかった。
キリシュはことりと壁に後頭部を預けて、眼帯のかかってないほうの片目でこちらを見上げてくる。
「……気持ち悪い。綺麗にして」
黒狸は自分の肺のあたりに嫌な感覚がこみあげてくるのがわかった。
過去、他の女性に何度か言われた台詞だった。
犯してと言われたこと、殺してと言われたこと、汚してと言われたこと……あまり気持ちのいい思い出ではない。
そして「綺麗にして」もあまり好ましい台詞ではない。何故ならば、大切な人が心と体に傷を負ったあとに言うことが多い台詞だからだ。
「帰ろう。綺麗にしてやるから」
体は綺麗にできるけれど、ぼろぼろになった心の修復方法を黒狸はいまだに知らない。
「腰、立つか?」
キリシュが腕に力をこめて立ち上がる。支える必要なんてないとばかりに、勝手に歩き出す。
――俺は一人で生きていける。
そう言った彼は黒狸を置いてすたすたと先を歩いて行く。エルムほどの不安定さもない足取りで。
後ろから見ていて感じた。歩幅がすごく一定で、重心の移動が確実なのだ。
立っていられるほどの状態ではないはずなのに、歩いていけるのは彼の鍛錬された体がかろうじて彼が立っていられるようにしているからだ。
「キーリ、腕こっちに……」
回せ、と言おうとして隣から手をのばすと、乱暴に振り払われた。
拒絶されたのかと一瞬思ったが、彼が今やっと歩いているのを考えるとこちらを黒狸と認識しているかも怪しかった。
昔から一人で生きているとは限らないじゃあないか。
愛を振りかざし、勝手に裏切られたと罵って離れていく人間もけっこういる時代なのだから、差し伸ばされる手を振り払う気持ちだって察してやらなきゃいけない。
表通りに出たところでタクシーをつかまえて、自宅までキリシュを運んだ。
キリシュは無言だったし、黒狸も何もしゃべらなかった。
彼が普段の棘のない雰囲気に戻ったのは、エレベーターを上がっている最中だった。
「黒狸」
今日ここに来るまで、一度とて呼んでもらえなかった自分の名前をようやく聞いた。
「……なんでもない」
何か言いかけて、キリシュは黙った。
聞き返す前にエレベーターが五階についたので、鍵を取り出して玄関を開ける。
キリシュに
「風呂で聞くよ」と言った。
言ったはいいが、女性の経口避妊薬やら洗浄方法は我流で知ってはいるが、男となるとまったく勝手がわからない。
しかし体の中に溜まっていたら気持ち悪いことくらいは想像がつくので、掻き出さなきゃいけないだろう。
「いい、自分でできるから」
黒狸が背広とネクタイを引きぬきながらどうしようか考えている間に、キリシュはさっさと風呂場に向かった。
コートを床に落として、そのまま風呂場に入っていく。シャワーのコックをひねる音がした。
対応に慣れている。つまりこれが一回目ではないということだ。
やっぱりというか、予想が的中したことはむしろ好ましくはなかった。
冷蔵庫からレモン汁とミネラルウォーターを取り出し、レモネードを作る。
自分の分で喉を潤して、キリシュの分をダイニングテーブルの上に置いた。
(何回くらいあったの?)
最初に思考したのは、何回くらい被害にあったのかということだった。
一回や二回じゃあない。何度も何度もなけりゃ、早く終わらせようと自分からコートを脱いだりはしないだろう。
ダメージの軽減方法を知っているということは、つまりそれだけ被害に遭い続けたということだ。
あまりにも腹が立った。女性に限らずそういう行為を無理強いする奴が嫌いでたまらない。
「神様は俺の大切な人を傷つけるの大好きですね」
誰か特定の人間を恨むことも難しいので、とりあえず神をあてこするように罵った。
胃より下に怒りを落としこむのに一日以上かかりそうな気がする。
「黒狸、服貸して」
風呂場からキリシュが顔を覗かせる。
クリーニングしたシャツに手をかけて、下着も何もなしにこれだけはマズいだろうと思って手を離した。
自分用に買った下着を渡すのは少し気持ち悪いが、新しいものがまだどこかにあったはずだ。
服も新しいほうがいいだろう。
たしか仕事で知り合った女性がくれた、好みと違ってタンスの肥やしになってる服があったはずだ。
引っ張りだした大きめの白いニットと、ジーンズ、袋を破いていない状態の下着をのせて、キリシュに渡した。
着替えを見るつもりはなかったので、ダイニングに戻ると、キリシュはゆるいニットを着ただけの格好で出てきた。
「下は?」
「黒狸のズボン、足短いんだもの」
「俺、足長いほうだと思うけど?」
「知らない。短かった」
「すみません」
足が短くてすみません。
だけどこんなときくらい短いズボンでいいから履いてほしいものだ。
レモネードに手をかけて飲んでいる後ろ姿を見ると、たしかに身長は同じくらいだというのに、脚が長い。
「黒狸、オレ服がないと困るんだけど、これもらっちゃっていい?」
白いニットの首くりを引っ張り、キリシュが聞いてくる。
「冬服、それだけじゃ足りないだろ。もうちょっと揃えるよ」
「服って高いし、何枚もはいらない」
「俺がその格好で歩かれると困るんです。男同士だからって目のやり場に困るし、俺のやつ脚が短くてはけないなら買うしかないだろ」
黒狸は自分でも口調が少し苛ついた気がして、声のなりをひそめた。
キリシュは「足が短いって言ったから怒ってるんだろ」
と言ったが、それは違う。
苛ついた一番の原因は、キリシュに暴行をした連中のことを考えていたからだ。
「明日、てきとうに服買って来るよ。あと、本当は被害届も出したいところだけど、警察に連絡しようにも今のシエル・ロアは司法機関麻痺しているも同然だし、あまり効果ないんだよな」
どちらかといえば、まだ鴉班に犯人の捜索を依頼して私刑にしたほうが決着がつく気がする。
しかし仕事の上では頼りになるニカはそんな私情で動いてくれるような奴ではないし、他の鴉班の連中はもっとマイペースに仕事をする上に、個人で判断する部分が大きい班なので自分に不利なことをサービスでやってくれる可能性は果てしなく薄い。
つまり、諦めるしかないのがとても悔しい。
キリシュは黒狸の言葉に返事をせず、ベッドに倒れこむともぞもぞとブランケットをかけて仰向けになった。
「黒狸。オレ、おかしいかな?」
キリシュはふう、と深呼吸をして、決意したようにこう言った。
「ひどく、頭がさめてるんだ。たくさんまわされたのに、あいつら全員、どうやって殺してやるかって、そればかり考えてる」
こちらに小首をかしげて問う仕草。
ただそれを言うのに、その感情を認めるのにすごく苦しんだことだけはわかった。
「自然なことだ」
腹が立ってるのは黒狸だって同じだ。された本人に憎しみがないわけがない。
「俺も同じこと考えてる」
いつ殺そうどうやって殺そう何で殺そうどれくらい時間かけて殺そう。
そんなことばかりさっきから頭の中でぐるぐるしている。
自分が冷静に戻らないと、キリシュの心のケアまで配慮が回りそうもない。
「そうなの? ふつうなのか?」
キリシュはきょとんとした目で、おそるおそる確認をとった。
「いいの?」
「いいんだ。すごく普通に感じることだ。許せないだろだって」
懐から煙草を取り出してライターで火をつける。
あまり美味しいと感じなかったのは感情が不味かったからだろう。
煙草はストレスを軽減できるが、不味い煙草は感情を再認識して終わるだけだ。
「キーリ、狙われてるならこの家から出るな。次は暴行されるだけで終わるとは限らない」
キリシュは答えなかった。
じっとこちらを見つめているキリシュの視線に違和感がなかったとは言えないが、自分の中のそれが何なのかさえ冷静に考えられない。
「シエル・ロアは情勢的に危険すぎる。お前は戦える、一人で生きていけるって言うけれどもな、弱い奴らが群れて生きて、危険から逃げて生きる方法だってあるんだよ」
「心配してくれてるのか?」
「当たり前だろ」
「オレの様子がおかしいから?」
キリシュは自分が悪いから罰を受けているとでも思っているのだろうか。
だけどこの言葉に「おかしくない」とも「悪くない」とも言えなかった。
そこまでキリシュのことを知ってはいなかった。
「ねえ」
もう一度答えを求めるかのようにキリシュが呼ぶ。猫がなーうと啼いているような目で、こちらを見て。
「傷ついてほしくないだけだよ」
それだけなのにどうして伝わらないのだろう。
まどろっこしいのは自分なのだろうか。だけど黒狸はずっとそんな生き方をしてきたから、今更何をどうすれば適切なのかなどわからない。
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