02 「世界は誰を中心に廻っている?」

「……ク、……ーク」
  耳元で名前を呼ばれて、頬を軽く叩かれる感覚に目を開けた。開けた瞬間、間近に飛び込んでくる自分と同じ顔の男。
「アキエ?」
「よかった、起きた」
  まだ寝ぼけているビョークが名前を呼ぶと、彼は心底安心したように胸を撫で下ろした。
  なんだか今にも壊れてしまいそうな表情だったので体を起こしながら「どうしたんだよ?」と聞いてみる。
「このまま動かなくなるんじゃあないかと思った」
  ビョークはため息をつく。アキエはすぐ不安になる、ふたりきりでアパートに住んでいたときも一時間居場所を告げずに消えただけで探し回るほどだ。
「お前本当、馬鹿だ」
  死ぬわけがない。
「そう簡単に人間は死ねないんだよ」
  ビョークはアキエの背中に腕を回して安心させるように抱擁した。その瞬間である。
  ガチャ、と扉が開く。起こしに来たエンジュにばっちりと抱き合ってるところを見られた。

◆◇◆◇
「ふたりで抱き合ってたんですよ。どう思います?」
「どうって?」
「あいつら、その……ノーマルじゃあないんでしょうか?」
  言葉を慎重に選ぶエンジュに、トキがにっこりと笑い「ホモだって?」と聞く。
「わかんねえな。ただ単に仲好すぎるだけってこともあるだろうし」
「そうだといいんですけれどもね」
「もう、どっちだっていいでしょ。そんなの」
  隣で朝のコーヒーブレイクをしていたカエデが苛ついたように言った。
「あいつらがデキてても、世の中から不幸な女性が二人減るだけじゃない。問題ないわよ」
「あの人たちと結婚すると不幸だと言い切りますか、カエデさん」
「ったり前じゃない。男女関係なく見境無く遊びまわるキス魔と『うっかり』で人を殺してくる殺人鬼なんだし」
  それもそうだ。時間が経ってわかったことだが、アキエという男はともかくキス魔だった。おはようのキス、こんにちはのキス、おやすみのキス、ともかく挨拶の代わりにキスしてくる。エンジュももちろん被害にあっている。
  一方ビョークのほうといえば、何かあるたびに人を殺してくるのだ。買い物に行ったついで、おつかいのついで、いつも「うっかり」と言う。うっかりしすぎている。
  しばらくして服を着替えたビョークとアキエが地下からの階段を上ってきた。
  ポスカトの事務所は半地下の部分にあり、廊下をずっと行けば自宅の館につながっている。
「ツナクリームパスタ。あと今日のオススメの珈琲」
  そして廊下を逆の方向に来れば、この喫茶店に出てくるという構造になっている。
  マスターはヤカンでお湯を沸かしながら、パスタの用意を始める。
  ビョークは珈琲を受け取って、テーブルにつく。アキエは遅れて二皿のパスタをもって同じ席についた。
「俺、ツナクリームも食べたい」
「注文すりゃいいじゃん」
「茹で上がるまで待つのたるいし、くれよ」
「やだ。ってフォーク突っ込むんじゃねえよ!」
  皿のお向かいからパスタにフォークを突っ込んだアキエにビョークが抗議の声をあげる。
「上等だてめえ。俺のパスタに何しやがる」
「何って、食っただけなのに」
「はい、パスタ強姦罪でお前を殺してやる」
「強……」
  極端な言葉にびっくりしているアキエとフォークを武器にアキエの目を刳ろうとするビョークの追いかけっこが始まる。
「あいつらはきっと犬のじゃれあいの延長線上で生活しているんですよ」
  そこまで見ていたエンジュがトキにそう言った。
「ま、箸が転がってもおかしいんだろうさ」
  お前にもそういう時期あっただろ? とトキが肩を竦める。あそこまで落ち着きがない男ではなかったとエンジュはため息をついた。

◆◇◆◇
「だからさ、謝ってるじゃん。パスタ強姦罪ってポスカトの法律で刑何年なんだよ? 絶対処刑はおかしい」
  じりじりと壁の押しやられて釈明をするアキエにフォークを持ったままにじり寄るビョーク。
「俺の心の国の法律ではパスタは神聖な供物だから食べた奴は死刑なんだよ」
「珈琲奪ったわけじゃあないだろ。ビョーク」
「やかましい。四の五の言わずにやられろ、主にフォークの先っぽで」
  無茶苦茶な会話をしているとき、時計が九時を知らせる鐘を鳴らした。
「大学!」
  アキエはビョークを突き飛ばすと自分の部屋のほうに走っていった。
  壁にぶつかってずるずると落ちながら、ビョークは悔しさを噛み締める。あいつはわざと追いかけっこに付き合ってくれていたのだ。いつでも自分を負かすだけの腕力がありながら。
「くそっ」
  面白くなくてフォークを床に捨てると、アキエの部屋へと向かった。
  アキエは革鞄の中に辞書と弁当を詰めて、鏡で自分の格好をチェックしている。
「まだ大学行くんだ?」
  もう十分語学力はあるというのに、何がそんなに面白いんだとビョークは呟く。
「俺がいないと寂しいか?」
「全然」
「じゃ、いい子に仕事してろよ」
  アキエはビョークの頬に軽くキスをして、手を振りながら走っていった。すぐさま頬を拭いながらビョークはアキエの部屋の窓を開けて空気を入れ替える。
「ビョーク、マスターが新しいパスタ茹でてくれたわよ」
  一階からカエデの声がしたので、大人しく先ほど捨てたフォークを拾い直して階段を下りた。

 アキエが出かけたあと、ビョークは仕事を始める。
  クリュウから言い渡された仕事は金融関係だった。といっても、ビョークはまだ詳しいことがわからないため、クリュウの指示を受けながらやっている。少しずつ空いた時間で金融関連の本を読んでいるが、やはり自分にこの才能があるような気はしない。
「銀行の金が余ってるな」
「借りてほしいとお願いしても借りてくれないんですよ。クレイさんが昔すごく貸し渋りしたことに懲りたみたいで」
  部下が肩を竦める。十九歳の若造を上司と仰ぐのは部下にとっても苦痛なのではないだろうか。
「だけど金をプールしておくのは勿体無いな。どうする? クリュウ」
  そこでクリュウに話題を振った。
「お前の意見をまず聞こう」
  兄は最初から答えなどくれはしない。ビョークは少し考えて言った。
「別の金融組織を作ってもらうとかどう? 銀行は低金利で大量に貸すけど保証人とかうるさいし。街金みたいなのがこの街にはないんじゃあない?」
「余った金を保証人なしで高利で貸すのか?」
「そ。つっても回収できなくなったら問題ありだし、そこらへんは確実に返せる金額あたりが限度額ってことにしようぜ」
「なるほど。金利はどうする?」
「法律の範囲で最大レベルぐらい? あんま法外な金額設定しておいても、弁護士とかしゃしゃり出てくると面倒だし」
  ビョークの意見にクリュウは「なるほどな」と呟く。
「まあ、お前がやりたいようにやってみればいい。その代わり、街金のほうの管理はお前がしっかりやるんだぞ?」
「はいはい」
  余計な仕事が増えたな。そんなことを考えながらビョークは部下にその提案を銀行の店長に伝えておくように言った。
「企画書はあとで提出するから、まずは試運転用にいくら用意できるか聞いておいてくれ」
  そう言って部下を銀行に返し、部下が置いていった書類のほうに目を通す。次は昨日の株価の移り変わりをグラフに書き起こしてそれをクリュウに持っていく。
  クリュウはその表を見て、どの株を買うべきか、それがどんな理由かビョークに説明し、ビョークはそれどおりに指示する手紙を書く。
  ふと、手紙を書き終えて顔をあげるとクリュウがこちらを見ていることに気づいた。
「何?」
「お前とアキエはずっとふたりきりで暮らしていたのか?」
「どういうことだ?」
「微雨(ビウ)さんの話を聞いたことがないから」
  母親の名前が出てきて、ビョークは眉をしかめる。
「死んだ奴の話してもな」
「そうか? 私はたまに母のことを思い出すが」
「死んだ奴の悪口言ってもな、って言ったほうが伝わりやすいか?」
  クリュウが黙るような言葉を選んで、ビョークはドアノブに手をかける。
「質問に答えるよ。ずっとふたりきりだ。正直あんたよりあっちのほうが俺の兄弟って感じがするよ」
  じゃあな。と言ってビョークは部屋を出て行った。

◆◇◆◇
  クリュウはしばらく珈琲を片手に呆けていた。なんとなくお前なんて形ばかりの兄だと言われたような気がして、その答えが見つからずに困っていた。
「いきなり兄弟が増えるほうが戸惑うのかもな」
  そう呟いたとき、隣の秘書室の扉が開き、カエデが新しい資料をクリュウのデスクに置いた。
「クレイさん、ルーズな仕事だったみたいね。かなり法律的にぼこぼこ穴だらけなことをやっているわ」
「まあルーズでなかったら、あんなに計画性もなく伴侶を変えたりしないだろ」
「それもそうかもね」
  まったく父親を敬いもしないクリュウの言葉にカエデも同意する。
「どうしたの? 元気ないね」
  元気のない素振りは見せてないつもりだったが、カエデにはわかったらしい。クリュウは苦笑いする。
「いきなり血が繋がっているという理由だけでは、兄にはなれないものなのだな」
「何それ。愚弟が何か言ったの? あいつあんたがいないと何もできないくせに、口だけはいっぱしだものね。気にすることはないわよ、ひとりじゃ何もできないくせにさ、あんたに頼ってるところはいっぱいあるのに、あんたを認めていない。どれだけ必要としているのか、どれだけ必要とされているのか、どれだけ相手を認めているのか全然わかっちゃいないよ」
  痛烈なカエデの批判にクリュウは苦笑いする。珈琲を飲んで、笑った。
「いいじゃあないか。いつかわかりあえる日が来るかもしれない」
「どうかしら。あいつ二十歳になってもあんたの半分も立派じゃあないと思う」
「そうかもな。だけど最初に壊れてしまった家族だから、形だけでない家族に戻れるようにがんばりたいんだ」
  クリュウの言葉にカエデはため息つく。
「あんたは絶対マフィアに向かない。早死にするタイプだわ」
  クリュウはたしかにそうだと思ったので、笑って「そうかもな」ともう一度言った。

◆◇◆◇
  今日の仕事が終わったあと、ビョークは珈琲ショップに豆を買いに行った。
  普段ポスカトマフィアがお世話になっている喫茶店とは別の、正真正銘の珈琲専門店だ。
  ポスカトは輸入がしにくい環境のため、これだけの種類の豆を扱っているところはここしかない。
「カーレス、メレッサ、パロエの豆をそれぞれ百グラムずつ」
「これだけ豆買って行くなら、今日のオススメはいらないか?」
「何それ。いるに決まってるだろ」
「カーレスのさらに奥地にあるところが豆の栽培を始めたんだ。今年始めて出てきた」
「一杯もらってもいい?」
「アイスでよければな」
  冷蔵庫に仕舞ってあった珈琲をコップに注いで、マスターがくれた。
  ビョークはそれに鼻を近づけてにおいを嗅ぐ。一口含み、吟味してから飲み込む。
「酸味が強いし深みが足りない。味も薄いし、マスターの入れ方が失敗してないなら、相当ひどいな」
「そりゃ一年目だからな。どうする?」
「いらね」
  マスターは笑って珈琲豆を詰めた袋をビョークに渡した。
「坊やはまだひとりぼっちなのか?」
  いつもひとりで買いに来るからひとりだと思われたのだろうか。ビョークは笑って、
「ふたりぼっち」
  と答えて帰る。

 ずっと、ふたりきりだった。
  ふたりでひとつのように寄り添って行動してきた。いまさらひとりになったらどうしよう。明日からアキエが消えてしまったらどうしよう。
  ふと立ち止まって、朝起きたときのアキエの壊れそうな顔を思い出す。
  あいつも同じような気持ちなのだろうか。いまさらひとりにはなりたくないと感じているのだろうか。

 帰る途中、美味しそうな林檎を売っている店を見つけた。
  ビョークは林檎を手に取る。これでアップルパイを作ってもらったら美味しいだろうか。なかなか美味しそうだから、シナモンは控えめにしてもいいかもしれない。キャラメリーゼにしても美味しいだろう。林檎の表面を砂糖で焦がして、そのままの甘さで食べるほうがアップルパイよりも美味しいかもしれないと思った。
「三つ買うよ」
  店番をしていた女にそう言うと、彼女は林檎を詰めながらこちらに熱い視線を送ってくる。あまりよく見ていなかったが、頬まで林檎色をした、若い女だ。
「はい、おまけつけておいたわ」
  中を見れば林檎がひとつ多く入っている。
「また来てね」
  にっこりと商売用でないと思しき笑顔を向けてくてた女性を見て、ビョークは少し、いたずら心が働く。
「ありがとう。ところで今日このあと空いている?」
  女の頬がぽうっと赤くなったのがわかった。さらに続ける。
「俺さ、無職な上に借金だらけでギャンブルも好きで女遊びも激しくて性病ももっているんだけれども、それでもデートしてくれる?」
  赤くなった頬がみるみるうちに真っ青になっていく。ビョークはしめしめとばかりににっこりと頬笑み、「じゃ」と言っておまけでもらった林檎に齧りつきながら帰った。
  条件にそれだけ負がたまったとて「それでも」という女性とならお付き合いしてもいいかもしれない。

 居間で読書していたら誰かが帰ってきて、玄関の扉が閉まる音がした。
「ただいま」
  アキエが居間に顔を覗かせてそう言った。
「キャラメリーゼ作って。林檎買ってきたから」
  ビョークの言葉にアキエは二階に行く足を止めて、居間のソファの上に鞄を置くとキッチンの林檎を見に行った。
「美味そうだな」
  キッチンのほうから声がする。ビョークは珈琲を飲みながら「だろ?」と言った。
「お前、料理は下手くそのくせに美味いもんを嗅ぎ当てる能力はピカイチだよ」
「まー作るのはずっとお前のがずっと上手いしね。あ、キャラメリーゼには生クリームつけろよ? 少し固めに泡立てたやつがいい。粉砂糖は今回振らないでいてほしいかも」
「はいはい」
  細かい注文をいろいろとつけるビョークにアキエは返事をし、キッチンのほうで包丁を扱う音が聞こえる。
  ビョークはその音をBGMに、また読書を開始する。クリュウからもらった大学の教科書はとても面白い。だけど実践的なことは教科書よりも実用書を見たほうが詳しく書いてあるものだと思った。
  しばらくして、何かを焼くジューという音と共にバターのにおいがしてくる。
「できたぞ」
  焼いたらあとは並べるだけ。
  ビョークはあっという間に出てきた林檎のキャラメリーゼにフォークを突き立て、生クリームを少しだけつけて口に運んだ。
「んー。さすが俺の選んできた林檎、美味い」
「これで朝のパスタのことは許せよ?」
「まあ許してやるか」
  カラメルと林檎の焼けた表面と、酸味の調和が素晴らしい。
  ただ砂糖と片栗粉をつけてフライパンで焼くだけのものがどうしてこんなに美味しいのかわからない。
  夢中で食べているビョークの髪をアキエがいじって遊んでいる。最初邪魔だから手で払ったが、しつこくちょっかいを出してくる。
食べるのにも邪魔だし、読書するのにも邪魔だ。
「アキエ、部屋戻れよ」
「料理作らせたら帰れってか。ひどくね?」
「だって本読むのにも食うのにも邪魔」
「お前が林檎に夢中でなんか暇なんだよ。あそんでーあそんでー」
「うっぜえ」
  心底うざったいとばかりにビョークは呟いた。こりゃ無視を決め込んだほうがいいと思って食べ終わった皿を放置して本に目を落とす。
  アキエは抵抗しないビョークの髪を三つ編みにしたりしていたが、最後は退屈になったらしくビョークの肩を揺り動かす。邪険に払っても遊べと言ってくる。
「うっせ。なんだてめえ、かまって野郎!」
「そうだよ、かまってくれりゃいいんだよ!」
  ふたりが同時に携帯していた折り畳みナイフを取り出す。それを構えて居間でファイトが始まった。
  目の端に事務所から何かを取りにきたエンジュが目に入ったが、無視した。

 しばらくして、ビョークのナイフは暖炉の近くに落ちていた。自分の胸のあたりに馬乗りになって勝利のビールを飲むアキエ。うらめしそうに睨みつける。
「ビョークくん、まだまだ君は弱いのだよ」
「なんだそれ、お前の教授の真似か?」
「よくわかったな。『アキエくん、君はまだまだ未熟なのだよ』って言われる」
「自分がしわしわで嫉妬してんだろ、それ」
  はあ、とビョークはため息をついた。暖炉が目に入る。パチパチと橙色の火がゆらめている。
  暖炉なんてアパートに住んでいたときはなかった。もちろんストーブはあったが、そんなものだ。父親が生きていた頃、母親が生きていた頃とまったく変わらない暖炉。あそこの中で遊んでいたら母親にこっ酷く怒られたことを思い出した。今はこんなに図体が大きくなってしまったが、まだ暖炉に落ちて危ないなんてことはあるのだろうか。
「何考えてるんだ?」
  ビールを飲んでいたはずのアキエに聞かれて、ビョークは「火を見ていた」と答える。
「放火でもしたいのか?」
「違って、俺は火に触るまで熱いってことを知らなかったなあって」
「そりゃそうだろうな」
「だけど今は火に触ろうとは思わない。知る前には戻れないからな」
「当たり前だな」
  知る前には戻れない。火の熱さを知る前に戻れないように、アキエと出会う前の自分にも戻れないのだろう。それはきっと、アキエもそうなのだろう。
「俺が死んだら、ひとりで生きていけよ?」
  唐突にビョークが呟いた言葉に、アキエが黙った。自分を見下ろし、少し寂しそうな顔をしている。
「お前が死んでも俺は死なない。じいさんになるまでずっとお前の墓に花を添える」
「俺はお前が死んでも花を添えない。墓参りにも行かないかもな」
「いいよ。俺がいなくなったあとのお前がどう生活していようと、それは俺の知るところじゃあない」
「お前が心配だよ。俺が死んだら、寂しさで死ぬんじゃあないかって」
「俺はお前のほうこそ卵料理しか作れないのにどうやって生きていくんだろうって心配だ」
  別に今は収入もあるのだし、外食すれば食事はそれで済むじゃあないかと思って口を開き、黙った。それはつまり、帰ってきても誰も食事を作ってくれない生活になるのだとわかったからだ。
「まあ今はクリュウがいるから俺がいなくても生きていけるんだろうけれどもな」
  そうアキエが言って、ビョークの胸からどく。
「俺がいてもいなくても、生きていくんだろうな……」

(俺がいてもいなくても。社会は回っていく。アキエがいなくなろうと、それは同じ)
  世界は自分たちを中心に回っているわけではない。ましてや、自分中心のはずがないのだ。
  少し肌寒かったが、ビョークはバルコニーに出て、晩夏の夜風にあたりながら空を仰いだ。月が満月だった。
  あんな、ここから見たら小さな星に、メカポリス人がいっぱい住んでいるのだ。きっとその周囲に散らばっている星の中にもそんな高度な文明を持った、人類以外の何かが住んでいたりするのかもしれない。
  朝、太陽が昇らなかったらスノースタリン大陸のような寒い国の人間たちは死ぬだろう。それどころかテール中の人間がやがては死滅する。
  それだけ重要な意味を持つ太陽ですら、銀河の端にある、ちっぽけな存在なのだと本を読んでいて知った。
  世界は広すぎる。誰が中心なのかはわからないが、少なくとも自分を中心に世界は構築されていない。世界にとって、自分はいてもいなくてもいい、必要とされていない存在だ。
「眠れないのか?」
  振り返るとクリュウがいた。ビョークの近くまできて、にっこりと笑う。
「なんか兄貴って、気持ち悪い」
「そうか?」
「うん。なんかいつか『私は実は腹黒い男だったのだ!』みたいなしっぺ返しがきそう。信じられないほど模範的で、こんな奴が世の中にいるわけがないって思ってしまう」
「そうか」
  おかしそうにクリュウが笑った。顔まで美丈夫だ、そしてクレイそっくりの綺麗な紫色の目をしている。
  彼は、もしかしたら必要とされているのかもしれない。少なくとも小規模の社会という空間においては。自分はどうだろう。
(俺が明日消えたとして、困るのはアキエぐらいじゃあないのか?)
  いてもいなくても……そこまで考えて、思考を停止させる。
「月は寂しくないのかな? 太陽の光がないと輝くこともできない」
  ただ親がポスカトの地主だったからこんな環境にいるだけ。自分ひとりでは生き残る力もない、脆弱な自分。
  クリュウは藍色の空を見上げ、呟いた。
「私が母親から聞いた話ではな、太陽は月を深く愛しているんだ。月も太陽を深く信頼している。だからふたつの星は離れていても全然寂しくないんだよ。お前たちもそうなんじゃあないか?」
「誰と誰?」
「アキエとお前」
  ビョークは質問には答えず、顎で月をしゃくる。
「でも、あの月は寂しそうだよ。太陽と信頼しあっているけど、テールとも仲良くしたいんだとさ」
「テールはお前にとって、なんなんだ?」
「なんだろ、家族かな。よくはわからないけれど、引き合っている存在だと思う。光と影でなく、もっと違う絆で」
  クリュウはビョークの言葉に、少しだけ嬉しそうに笑った。
「不思議だと思うんだけどな、俺はよくアキエが死んだり、いなくなったりしたあとのことを考えるんだ」
「なぜ?」
「俺はひとりで生きていけるのかなって。生まれたときはひとりだったけど、ずっといっしょにつるんで生きてきて、あいつの力を頼りっきりにして生きてきた。ひとりでいまさら立てるのかな。支えあわずにひとりで立っていけるんかな……」
  そしてアキエも、自分という心の支えがいなくて壊れたりしないのか。
「まずはひとりで立てるようになればいい。必要ならば支えくらいにはなってやる。そのかわり、お前もいつか誰かを支える側に回るんだぞ?」
  クリュウの言葉には、暗に「お前もいずれ親になる」と言われている気がした。そこまで生きているのだろうか。少なくとも三十歳まで生きているのだろうか。どこかで野垂れ死ぬことだってありうる。ましてや、親になった自分が想像できない。
「あんたは俺にはできすぎた兄だよ。うしろめたくなる」
  話しているのが辛くなり、ビョークはクリュウを置いて自分の部屋に戻った。
  あんな誠実な男が自分の父親だったとしたら、少しは変わったのだろうか。それともやはり今と同じ、駄目なでっかい子供に成長したのだろうか。
  思い出すのは、父親の冷たい、何かを恐れるような紫色の目。彼の瞳は自分を見るとき、いつも何かに怯えていた。怯える視線に怯えていた自分は、彼の気に入るような言葉を選ぼうと必死だった。そこに母親がやってきて、自分や父親を怒鳴り飛ばす。
  美人だったが、気性の激しい母親だった。思い通りにならないことがあるとすぐに腹を立てるような人だった。
  何かビョークがいいことをすると、お前は自分に似たのだと言い、失敗すればその部分は父親に似たのだと言う。
  子供の頃はもっと内気な子供だったビョークはよく本を読んでいた。「受容」という言葉を覚えたとき、受容されなかったのだということがピンとこなかった。というよりも、受容という言葉の概念そのものが言語的にしか理解できなかった。
「受け入れて、許されるってどんな感覚なのだろう」
  それが疑問だった。親に受容されなかったと責めることすらできない、そんな子供だった。
  アキエと出会ったのは母親が死んでから数年経った、十三歳のときだった。
  彼は一時ですら自分を放置しておいてくれない。朝になれば起こしにくるし、少ない予算で美味しい食べ物を作ってくれるし、本ばかり読んでいるビョークの腕を掴んで外に連れ出すし、へとへとになって寝ていると枕元に湯冷ましをいれた瓶を用意してくれる。
  正直うざったいと感じることも多いのだが、それ以上に寂しさを埋める方法をアキエ以外で知らなかった。
  教えてくれたことのほとんどは悪い知恵、そして少しばかり規則正しい生活や体力づくり。
  もし、もうちょっと遅く生まれていたら、クリュウの息子に生まれていたら、こんなに弱い男に育たなかっただろうか。
  愛の力を信じることもできて、女性に怯えることもなく、薄っぺらなプライドを傷つけられることに過剰反応することもなかったのかもしれない。
  だけど、アキエには会えなかっただろう。
  クリュウと別れたあと、酒を一杯ひっかけて布団に潜った。
  自分がいてもいなくても。その続きになる言葉が、繋がらない文脈で浮かんできた。
――誰にも必要とされず、悲しまれず、消えていけるならば。それは理想的だ。

「あと一年動けなかったら、好きにしていいよ」
  目を瞑った状態の、瞼に声が響く。自分の声だ。
「どういうことだ?」
  これはアキエの声。
「モノだって思えってことだよ」
  ああ、いつの話だったかなあ。そんなことをビョークは考えた。原因不明の奇病でほぼ一ヶ月、飲み食いもうまくできない寝たきり状態になったときの話だ。
  このまま、ずっとアキエを縛り付けておくわけにはいかないと感じたのだ。あいつならばきっと、こちらから切り出さなければ自分の傍からずっと離れないだろうと思って。
  彼は悲しそうな顔をして、
「モノになるって意味がわかっているか? 痛くても、苦しくても、辛くても、そんなこと知ったこっちゃないと、お前は何も感じたらいけないんだってそういうことなんだぞ」
  そう言った。そうして窓際で花を剪定していた鋏をビョークの皮膚に突きたて、錆びた金属で何度もビョークの皮膚を傷つけた。
  この痛みに耐えればアキエがそれ以上苦しまないというのならば、耐えようと声もあげず我慢した。
  先に泣いたのは、アキエだった。
  絶望的だった。強がっていても、無力な子供でしかないことをふたりとも知っていた。
  大人の愛情を必要としていた――。
「お前が死んだらさ、折角だし首切っていい? 寂しくないようにホルマリン漬けにして飾っておきたいんだけど」
  そんなことを言った若し頃のアキエの言葉も思い出した。
「首は保存が難しい上に移動する時持ち歩くのが大変だから手首にしろ」
  これは自分の台詞。今考えてみると狂気の沙汰だ。
「お前が本当に人恋しい時は、キスじゃなくて手ぇ握るんだ」
  そうだった。今もあいつは、不安で仕方がないと自分の手を握る。
「そうだったか?」
「そうだった。これからは、ひとりで生きていけ」
  決して「別の誰かに握ってもらえ」とは言わないあたりが僅かな独占欲だったのかもしれない。
「……手首切る道具探さなきゃな。肉切るための冷凍包丁どこ置いたっけ?」
「それ痛そう、月製のレーザーブレードがいい」
  最後まで我侭全開な自分の台詞に思わずにやつき、そのあたりで意識が混濁してきて、深い眠りについた。

 翌日の朝食の席にて、ターキーのサンドを食べながらビョークが言う。
「昨日ちいせぇ頃の夢見たよ。俺が死んだら俺の手首をホルマリンで保存しておけって言ったあの話」
  食事中のエンジュがスープを吹く。ビョークは構わず話を続ける。
「あのときなんで手首切る案却下になったんだっけ?」
「直径五センチくらいのものを切るのにオススメの道具を日曜大工屋で聞いたらな」
  日曜大工屋で探したのか。店員もまさか手首を切る道具を探しているとは思わなかっただろう。
「チェーンソーくらいしかないって言われたんだよ。お前はチェーンソーの音を聞いたことがあるか? すげー音するんだぜ。木こりが木を切るのとはワケが違うんだ、あれでお前のかわいらしい手をちょん切るなんて俺には無理だな」
「ああそうか。お前がちょん切る道具のオススメを店員に聞いたから怪しまれると思ってしばらく音沙汰なしにしていたら、いつの間にか病気治ったんだっけ?」
  エンジュが「食事中にする話じゃあありませんよ」と注意する。
  アキエは「じゃ、大学いってくる」と喫茶店を後にした。

 ビョークは今日も珈琲を飲みながら部下の報告書に目を通す。
  現在の利率、事件の報告、回収できた金額と出て行った金額の報告に目を通している最中だった。昨日声をかけてきた女性が川で変死体になっていることに気づいた。
「俺とアキエの区別もつかん馬鹿女だからアキエに殺されるんだ」
  アキエは女の哀れさを消してやったのだな、と鼻で笑い飛ばしてビョークは次の書類に目を通した。

 夕方になって帰ってきたアキエにビョークは首を掻っ切るようなジェスチャーをしてグッと笑顔で親指を立てた。
「ああ、昨日の奴な? なんかお前と仲良くしててむかついたから殺した」
「全然仲良くしてねぇよ。あんな女」
  ビョークがへらっと笑ってそう言った。
  人をモノぐらいにしか思ってない自分たちの会話にエンジュが何か言いたげだった。カエデによしなさいと止められている。
「ビョークとアキエは自分たちとそのほかしかいないんですね」
  エンジュが言った嫌味にビョークが冷たく笑った。
「だから? 『世界は誰かさんを中心に回っているんじゃあない』なんてこと言いたいわけじゃあないよな」
  そんなこと、とっくの昔に理解しているよと笑って階段を下りた。アキエがそれを追いかけてくる。
「俺たちの敵って俺たち以外全部だし? あんたらも気をつけろよー」
  後ろでそんなアキエの声がした。
  そう、自分たち以外は全部敵だ。それぐらいでかからなければ、傷つくのは自分たちだ。

 居間でしおりを挟んだ本を広げ、本を読もうとしたら「なあ」とアキエに呼ばれた。
「お前、物語の主人公になれたとしたらどうする?」
「は?」
  変な質問だと思って素頓狂な声をあげてしまった。
「選択次第で人生を選べるとしたら、どうする?」
「ばーか、人生は俺たちの選択次第で変えられるなんてのはだな、おごりなんだよ」
  ビョークはアホらしいと呟いた。
「じゃあ、主人公になれるとしたらどうする?」
「まずモテる設定にしてもらって、お前の存在を消す」
「ひでっ」
  アキエがショックを受けたように呟いた。
「いいじゃん。世界は誰かを中心に回っているわけじゃあない。主人公が誰もいないから救われているんだろ」
  そう言って小説に目を落とす。
  そう、選ばれし人間のために人生が回っているわけではない。だけど本当に選ばれた人間はいないのだろうか。
  生まれつき才能があっても、身分が低ければ結局選ばれない。才能がそうなくても、バイオリニストを目指して弦を弾き鳴らす子供たちもいる。
  選ばれざる者はいる。
(俺は選ばれざる者ですらない、はみ出し者だな。)
  望んで選ばれることを拒絶している。
「誰にも悲しまれずに死んでいくってどんな気分なのだろう」
  アキエが昔そう言ったことがある。
  あのときもビョークは「理想的だ」と答えた。