「アカツキって意外とお馬鹿さん?」
ビョークにそう言われて、アカツキはしゅんとした。手には漢字ドリルとペンを握っている。
「だって、外国語なんて勉強したことないんだもの。どうしてポスカトは共通語だけじゃあ駄目なの?」
「伝統だからって言えばわかる? 漢字って文字に誇りがあるわけ」
居間で珈琲を飲みながら読書をしていたビョークは金属のしおりを手でくるくると弄びながら、アカツキに説明する。彼が読んでいる本は共通語で書かれているものではなさそうだった。
「漢字が読めないと、ポスカトじゃあ生活しづらいぞ」
ポスカト方言、と呼ばれるものがある。ポスカトの文法は共通語とは少し違う。まず主語を省く習慣がある。次に繋がる動詞の活用方法で主語が何なのかを察する文化らしい。
主語(ただし、書かない)+動詞+目的語や補語。
この形式は共通語とほとんど変わらないが、共通語の間に漢字がはさまっていることがある。つまり、共通文字と、漢字という二種類の文字を使い分ける必要があるのだ。
「どうしてこんなややこしい形式なの?」
ビョークは言語に詳しそうだと思って、アカツキは聞いてみた。
「そうだな。まず山あり谷ありの奥地だから、言語が共通語とちょっと違うものになったんだな。今じゃあ共通語のほうが一般的だけど、昔は全部漢字でそれにあたる言葉があったわけだ。係(ハイ)という文字は共通語のA動詞にあたり、有(ヤウ)は持っているというB動詞だ。過去完了にしたければ過(クオ)をつければいい。そんな感じで置き換えようと思えば全部漢字に置き換えがきくんだよ」
ビョークの文法の説明はアカツキを余計混乱させるのに十分すぎるものだった。
「漢字の読み方はさらに細分化する。音読み、訓読み、文語読み。さっき言ったハイとかヤウとかは文語読みだ。今じゃあほとんど使っている奴はいない。音読みと訓読みが使えれば特に不自由はしないと思う」
「どこで音読みしてどこで訓読みするのかわかんない。たまに混ざってるのとかあるし……」
「そりゃ暗記するしかないな」
「そんな……」
「共通語を覚えるときだって、A動詞もB動詞も自然と覚えられただろ? あの要領だよ」
あっさりと言ってくれる。ビョークはきっと頭がいいのだ。頭の悪い人間にとって、勉強というものがどれだけ苦痛なのかわからないのだろう。
「お前はまだ若いんだろ? 俺がガキの頃なんて、図書館の本をほとんど読んだぞ。それくらいの気合でかかれば、ほとんどの言語は習得できる」
「頭いいんだね」
思わずアカツキは呟いた。ビョークは首をひねり、口を歪める。
「まあ俺は知識があるという意味では、馬鹿なほうじゃあない。だけど頭いいかどうかはわかんねぇな。知識を正しい方向に使っている自信もないし」
「頭いいだけいいじゃない。僕なんて、漢字ドリルで音をあげているのに」
小声でそう言って、うつ向く。ビョークは笑った。
「どっかに食いに行くか? 気分転換も必要だろう」
「いいの?」
「夕飯食えるスペース作っておけよ?」
アカツキはこくりと頷き、秋物のコートを取りに行く。コートと帽子をかぶって階段を下りているとエンジュとすれ違った。
「お出かけですか? アカツキ」
「ビョークがいっしょに出かけようって言ってるから」
「はあ。そうですか」
エンジュが生返事をする。アカツキはエンジュの中に流れる情報を読んで、小声で「ごめんなさい」と言った。
「甘えてますよね……僕。居候の分際で」
「いえいえ! そんな、ずっといてくださって構いませんよ」
エンジュが慌てたように手を振る。嘘ではなさそうだ。
「ただ、ビョークが甘やかしているなあって思っていただけです。ちょっと心配だなって、そのう……」
エンジュが小声で「アキエの代わりくらいに思ってないかと」と呟いた。
「アカツキ! 帽子とコート取りに行くのにどんだけもたついてんだよ」
ビョークの声にアカツキはびくっとする。エンジュにお辞儀をして、そのまま待っていたビョークと合流した。
「ポスカトの名物は色々あるがな、だいたいは不味い」
道をゆきながら、きっぱりとビョークはそう言った。
「元々こんな北の僻地で、火山しかないようなところに美味しい食物が育つわけがないんだよな」
「美味しい名物ってないの?」
「名物なんて、不味いことで名物なくらいだ。観光客は珍しいから買って行くだけで、俺たちはだいたい洋食が主流。だけどそれじゃあ観光客は満足しない、せっかくテールで唯一温泉のある観光地に来たのだから、そこの料理を食べたいと思うわけだ」
なるほど、それは言えている。どうせ観光に来たのならば、そこでしか食べられないものが食べたい。
「ポスカト麺というやつは、ここでしか食べられない名物だ。それを昔の漢字に置き換えるとなんと書くか知ってるか?」
「わかんない」
「蕎麦」
ビョークは短くそう言うと、小さな店の中に入っていった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えてくれた店員に愛想笑いをして、二人がけのテーブルへ案内してもらう。
「蕎麦、注文するの?」
「そんなもん食ったら、夕飯が入らなくなるだろ。あ、蕎麦饅頭ふたつ。イモ餡のほうね」
店員に注文して、ビョークはお茶を飲んだ。
「あ、このお茶を漢字で書くと何でしょう?」
「りょ、緑茶?」
「違う。これは普?(プーアル)茶、普通は完全発酵か炒っただけのお茶だけど、これは半発酵なんだ。これも名物だぞ?」
アカツキはそう言われて、普?茶に口をつけた。思わず咽せる。
「不味いだろ?」
「薬品みたいな味がする」
「慣れるとけっこう美味いんだけどな。つまりそれって不味いってことだよな!」
営業妨害としか思えない大声でビョークはそう言った。
「だけど体にとてもいい。体の毒素を外に運ぶ働きもあるし、ビタミンも豊富だから肌が綺麗になるし、ダイエット効果もある。カエデのババアなんて一時期ずっと飲んでいたんだぞ」
「カエデさん、綺麗だよね」
「普?茶さまさまだよな。『あなたもこのお茶を飲めばこうなれます』ってカエデの写真を載せておこうか。ビフォアーとアフターって」
きっとあまり差がないに違いない。カエデの顔はマネキンのように綺麗なのだから。
しばらくして、饅頭がふたつ運ばれてくる。灰色の饅頭をフォークで切り分けると、中から黄色い餡が見えた。
「俺が知る蕎麦料理の中じゃあ、これが一番美味い」
ビョークはそう言いながら、セスの前で一口饅頭を食べた。セスもつられて一口食べる。ほどよい甘みと、不思議な舌触りの皮。面白い味だと思った。
「美味いか?」
「おもしろい味。この皮が蕎麦?」
「そ。さっさと食べろよ、もっと注文するぞ。望月ふたつ!」
ビョークはそう大声で言って、蕎麦饅頭は食べずに横にやった。
「食べないの?」
「好きじゃあないし」
「もったいないから、ちょうだい」
「いいけどあとからあとからどんどん注文するぞ?」
次に運ばれてきた白いふわふわした饅頭を切り分けながらビョークは説明する。
「これは固いメレンゲでカスタードを包んで蒸すんだ。あまりにも不味い名物しかなかったから、アキエが開発部にレシピを提出した、それがこれだ」
半分に切ると、まんまるいカスタードが入っている。
「ネーミングは色々提案があった。望月、荒城月、十六夜、などなど。結局望月になったけど、今言ったのは全部、月に纏わる言葉だ。望月は満月のこと、荒城月は廃墟を照らす月のこと、十六夜は半月を少しばかり過ぎた頃の月。月を表す言葉だけで、ポスカト方言はどれだけあるかわからない」
「そうなんだ」
説明に飽きてきたが、饅頭を食べながら説明を聞いた。
「そもそもポスカトは陽暦でなく陰暦で動いていたからな」
「陰暦?」
「女の生理の周期に合わせて動いてた」
ぶっ、と食べかけていた饅頭を吹きそうになって普?茶を飲む。
「ともかくポスカトは変な文化なんだよ。わかったか?」
「うん」
「よし。次、肉まん。小さいサイズのほうな」
どんどん注文していくビョークにそろそろ夕飯が入りそうもないと説明しようと思った。彼は一口食べると自分のほうに饅頭を押しやる。
「胡麻と豚の油をいれて、ひき肉といっしょに練り合わせて、包んで蒸すだけ。これはけっこう美味い」
「ビョーク、食べ物といっしょに覚える漢字はもう……」
言いかけて、運ばれてきた肉まんに黙る。
「文化を知るためには食べ物から、だろ?」
ビョークがにっこり笑う。ビョークは食べることが好きだ。美味しいものに目がない。
「いただきます……」
漢字を覚えられない自分への、彼流の優しさなのだろうと理解して、いただくことにした。
夕飯はさすがに入らなかった。マスターにお詫びを言って、夜食用に少し包んでもらって部屋に持ち帰る。
アカツキは今日食べた料理を漢字ではどう書くのか辞書で調べた。ただ丸暗記するより、何か意味と関連付けて覚えるほうが効果的に覚えられるのはたしかだ。
ビョークが隣の部屋で音楽を聴いている。廊下から僅かに聞こえてくるものは、歌のついていない弦楽器の曲だった。
◆◇◆◇
「貴族趣味」
翌日カエデに言われた嫌味にビョークはすぐに反応できなかった。
「なんか気に食わないことしたっけ?」
「あんたが昨日聞いていた眠くなりそうな曲のせいで仕事中に寝ちゃったのよ。どうしてくれるの?」
「別の音楽をこの部屋でかけておけばいいだろ。俺が自室で何聞くかまで制限するな」
「クリュウが好きじゃあないって言うのよ。仕方無いじゃない」
だとしても、チェロの独奏曲を聴いているだけで貴族趣味とは言いがかりだ。
「クリュウが嫌がる曲って、カエデは何が好きなわけ?」
「激しくデス声のメタル」
「めちゃくちゃお前の趣味って感じするわ。お前の品性を疑う」
「メタルを馬鹿にするなんて相変わらず貴族かぶれね。どうせクラシックしか聞かないんでしょ、私ああいうだらだらした曲に癒された試しがないわ。シネシネシネシネってずっと繰り返しているような歌にカタルシスされることはあっても」
「もう一度お前の品性を疑うわ」
「私はあんたのそのすましたお洒落ぶってるところが大嫌い。メタル聞けば? お前のテーマソングは絶対メタルで決まりだと思う」
「どういうことだよ?」
カエデのメタルプッシュにうんざりしながら、ビョークは呟く。
「だーらだーらだーらだらーって曲よりも、ギギギギギガガガガガガガガガダダダダダギギギギギギってガギグゲゴとダヂヅデドみたいな音が続くほうがあんたらしいってことよ」
「よくわかんないけど、お前の中で俺が黒板引っかいたときの音ってイメージなのはわかった」
クラシックのメロディを全部だらだらで歌うカエデに呆れながら、彼女のイメージ曲を考えてみる。やっぱりロックかメタルのような気がした。
「クリュウはどういう曲が好みだって?」
「バラードとか、ラブソング。あっちもなんか巫山戯た趣味してるよね」
「お前の趣味が激しすぎるだけだと思うけど? エンジュは?」
「あいつ音楽はてんで駄目。ぜんぜん聞かないもの。何聞かせても『いい曲ですね』としか言わないし」
「あー、あいつらしいわ。コマーシャルミュージックとかあいつに向いてね? 『いっつもニコニコ雑用係〜♪』みたいなすぐ終わる曲」
「流れた瞬間みんなが『うっぜぇ』と思うような曲ね」
最後のあたりは同意見でまとまった。彼の登場シーンで毎回そんなCMソングが流れたらうざったくて仕方が無い。
「アキエはどんな曲聞いてたのかしら」
当然ここまできたら、アキエの好きそうな曲の話になる。カエデの言葉にビョークが沈黙する。
「あんた知ってるんじゃあないの?」
「あいつは何でも聞いてたよ」
ビョークはそうとだけ言って、踵を返す。
「いい加減、立ち直りなさいよ」
後ろからカエデのそんな声が聞こえた。
部屋に戻った。棚に並べてある、たくさんあるディスクの中からアキエがよく聞いていた曲を探す。
それをケースから出して、デッキにセットした。ベッドに座り、頬杖をついて曲が流れるのを待つ。
水を吸った紙のように
ぼろぼろと ゆっくりと崩れていく
人は言うよね
「もう一度幸せになればいい」
この心ももう一度
まっさらな紙にできるのだと
あなたのいないまっさらな紙
そこに誰かのインクをしみこませ
あなた以外の誰かを刻みこんで
あなたはいないのに
幸せになったふりをして
「これでよかったんだよ」
と明るく笑う
あなたはいないのに
幸せになったふりをして
「あいつもきっと元気さ」
なんて、嘘ついて
バラバラになった硝子みたいに
積み上げても すぐに崩れていく
人は言うよね
「幸せになる権利がある」
権利は誰が与えたの?
生活を保障する紙で愛を証明
あなたのいない広すぎる部屋
きっと新しいものが増えるよ
あなたじゃあない誰かとの絆も
あなたがいなくても
私は平気だったみたい
「昔こんな人がいた」と過去形で
あなたのことを笑った
わたしがいなくても
あなたもきっと平気よね?
「昔こんな女がいた」と過去形で
私のことを笑ってほしい
あなたがいても
わたしがいても
あなたがいなくても
わたしがいなくても
「……たるい」
思わず感想を呟いた。なんと女々しい失恋ソングだろう。
思い出した、あいつもバラードやラブソングが好きだった。クリュウとアキエの音楽の趣味が同じとは意外すぎる、認めたくない。
「なんでこの曲好きだったわけ?」
うんざりしてきて、一度曲が終わったところでディスクを取り出す。エンドレスで聞くと洗脳されそうだ。まるで幸せになるのは罪ですと言われているようだ。
きっと、アキエの人生にも、どうでもよくない人間がいるのだろう。その人を忘れて幸せになってはいけないと感じる、大切な誰かと別れたことがあるのだろう。
「なんかむかつく」
あいつが自分以外の誰かの尻を追いかけていることなんて珍しくもなんともない。だけどそこまで思われている人がいることがなんだか許せない。
「カエデ、メタルで一押しのディスク貸して」
ビョークはカエデの部屋を訪ね、ベッドに寝転がり雑誌を読んでいる彼女にそう言った。
「どうしたの? 珍しいね」
「今まで聞いたどんな音楽も忘れそうなすごく強烈なのがいい」
「ははーん、わかった。エンジュの歌聴いたんでしょ。あいつ音痴だし」
「すっげぇ鬱々しい女の呪詛を忘れたいだけだ。いいのあるか?」
「あるよ。ほれ」
カエデが棚からディスクを一枚貸してくれた。それを持ったまま、部屋に戻る。
デッキにセットして再生ボタンを押した直後だった。うっかり大音量で流れたその激しい声に、思わず耳をふさいで停止ボタンを押す。
「狂ってる」
すごい絶叫だった。伝説の植物、マンドラゴラの一鳴きもきっとこんな感じじゃあないだろうか。
「クソッ」
怨念のような歌詞が頭の中をぐるぐるしている。まるでアキエに「お前は俺を忘れて幸せになっちゃいけません」と言われている気さえしてきた。
「ああ、クソッ」
もう一度クソと呟く。なんだか苛々してきた。
「クソクソクソクソクソ」
「便秘? ビョーク」
的外れな心配をされて顔をあげる。部屋の入り口にアカツキがいた。
「アキエなんて車に轢かれちまえばいい」
「なんで?」
アカツキが不思議そうに首をかしげる。そりゃそうだ、便秘かと心配されてアキエの話題に飛ぶという会話の進行はおかしい。アカツキはどうして自分が苛々しているのかわかっていない。
「何の用?」
「アキエから手紙がきた」
アカツキが封筒を掲げてそう言った。
「見る?」
「お前に来た手紙だろ? 俺の分もあるわけ?」
「ない、けど……」
アカツキは口ごもりながら、こちらを見る。
「ビョークはアキエが心配なんじゃあないかなって思って。手紙見たら少し安心しないかな?」
「今読んだらきっとすっげぇ苛っとすると思うわ。だからいらね」
しっし、と手を振る。アカツキはしょぼんとした顔で部屋を出て行く。
八つ当たりしてしまったことを反省しながら、もうちょっと余裕のある大人になりたいと念じる。
「ビョーク」
今度は違う人間の声だ。再び顔を入り口に向ける。エンジュがそこにいた。
「なんだよ?」
「あなたの態度にアカツキが戸惑ってますよ。少しは大人になってください」
「戸惑うって?」
「すごく親切にしたかと思った翌日には邪魔扱いしたり、そういうとこですよ。あなたは機嫌がいいときはすこぶるやさしく、そうでないときは八つ当たりする癖をどうにかするべきです」
お説教されたくないときに限って空気の読めない男だとビョークは舌打ちする。
「エンジュ、一言言っていいか?」
「なんでしょうか?」
「死ねばいいのに」
「ひどいですね。どうしてそうも破壊的なんでしょう」
はあ、とエンジュがため息をつくのがわかった。
「誰もあなたに危害を加えてないじゃあないですか。あなたが勝手に尖ってるだけですよ。しかもよくわからない理由で」
「よくわかってらっしゃる。今の俺は、機嫌が悪い」
「何かあったんですか? ないんですよね、何もないのに何か気に入らないことを見つけて今日も腹を立てているのでしょう。迷惑なんですよ、そういう態度」
きっぱりと言われた。さっさと消えてほしいときに限ってエンジュはしつこい。
「わかった。注意する」
「本当ですか?」
「わかったから、消えろ」
「わかってないじゃあないですか」
エンジュが呆れた顔をした。
「誰もがアキエみたいに、あなたの面倒くさい性格にお付き合いできるわけじゃあないんです。そこんとこ理解してください」
アキエの名前にカチンときて、近くにあった本を投げつけて怒鳴る。
「出て行け!」
これは狂気じみていると思われたらしい。エンジュはもう何も言うまいと、部屋をあとにした。
頭の中が苛々で飽和している。アキエで飽和している。
「俺の中から出て行けー!」
ビョークは絶叫した。
忘れることもできないのに、あいつは今、ここにいない。
◆◇◆◇
「あの人、壊れていますよ」
執務室でエンジュが言った台詞にクリュウは「誰が?」と聞き返す。
「ビョークです。あれはビョーキです」
「洒落か? 面白くないな」
エンジュがどうしてそんなことを言い始めたのかクリュウにはわからない。
「だって、さっきからずっとキチガイみたいに絶叫したり、当り散らしたり……その日の気分によってころころ態度変えて。ああいうのきっと心の病気って言うんですよ、なんか障害でもなけりゃあんな性格にはなりません」
「そうかもな。病気かもしれない」
「治療したほうがいいんじゃあないですか? どこかいい病院探して」
「探してもいいが、それでどうするんだ。あいつをどこかに押し付けて終わりか?」
エンジュが不満そうに口を開きかけて、黙る。
「あいつに必要なのは薬じゃあない」
「何ですか?」
「愛情だろうな」
「クリュウは立派ですね。人格に欠陥のある人にどれだけ無条件の愛を注いでも付け上がるだけかもしれませんよ? どんどん『もっと受容するべきだ』って言ってこちらに無茶を要求してくるかも」
「こちらが区別すればいい。受け入れる内容とそうでない内容を」
「それでうまくいくでしょうか」
エンジュがため息をつく。クリュウはペンを置いて、エンジュを見た。
「何か不満そうだな」
「僕もあるんですよ。ああいう、ころころ態度を変える女の子に振り回されたことが」
「ほう。どんな?」
「まず、機嫌がいいときは人懐こい性格をしています。だけど一度切れるとずっと罵り続けます。こちらが怒ると自分は愛されてないと自分を傷つけ始めます。疲れて別れようとすると脅してきます。そういう人もいるんです」
「それは困った女性だな」
クリュウはビョークの態度と今の女性の態度を照らし合わせてみる。機嫌がいいときと悪いときでまったく違う態度なのはだいたい同じ傾向だ。自傷することはないが、相手に攻撃性をむき出しにしている。今のところクリュウは疲れていないが、もし疲れてビョークを捨てようとしたら、彼は自分に復讐するのだろうか。
「危険ですよ、あの人」
「そうかもな」
「どうしてそんな落ち着いていられるんですか? 信じられないです」
エンジュは心底不思議だとクリュウを見る。クリュウはどう説明すればいいのかわからず、困ったように笑う。
「私は、あいつが可愛いのだと思う」
「はあ」
エンジュの返事は曖昧な、しかも否定的な意味をこめた生返事だった。
「いじけているだろう? 愛情が欲しいって、これだけじゃあ足りないって。私に対して甘えているのだと思う。ビウさんはそういうものに頓着しない人だったみたいだから、あいつの心はとても不安定なんだ」
「甘え方がひねくれてます。もっと普通に愛情をほしがる素直さがないとクリュウも疲れるでしょう?」
「たしかにそうだな」
クリュウは苦笑いをした。
「こういうものはな、巡り巡るものなんだ。私が親からもらったものは、私から誰かに伝わり、またその誰かが違う誰かに伝える。そういう風にサイクルするようにできている」
「そうでしょうか。愛情の質量は変わらないのだとしたら、世の中では一定の量の幸福しかないということですよね? 納得がいきません」
「どうして?」
「少なくともクリュウほど力のある人は、ひとりの馬鹿な弟を救う労力でもっと多くの人にいいことができると思うんです」
エンジュの言っていることはたしかに正しそうだった。ビョークひとりを助けるよりもそっちのほうが幸福な人が増えるのだろう。
「お前の考え方は、ひとりの助からない確率のほうが高い重傷患者を救うよりも、もっと助かる確率の高い怪我人を治療するべきだという医者の考えに近いかもな」
「そうですね」
「それもありだと思う。そういう生き方をする人間もきっといっぱいいるはずだ」
「クリュウは違うんですか?」
「もしお前が救われないほうの患者だったとしよう。お前の意識は、もうないかもしれない。あとは死ぬだけだとして、もう意識もないから、何も感じていないと思うか?」
エンジュは何が言いたいのかわからないとばかりに首をかしげる。
「それでも心臓が止まる瞬間まで動いているのは、どこかで生きたいと感じているからなんじゃあないのか? 助けてほしいと感じているんじゃあないだろうか。その気持ちは合理性の前に無視していいものだと思うか?」
「難しすぎて、よくわかりません」
エンジュは重心を逆に傾けて、肩を竦める。
「心臓が止まるまで動いているのは、ただ止まるまで多少のタイムラグがあるからだと思います。どうせ助からないし、そこでおしまいだと思うんです」
「そうか。それもそうかもしれないな」
クリュウは何も言わず、もう一度ペンを握り直して仕事を再開した。エンジュは珈琲を置きにきただけだったので、そのまま部屋に戻って行く。
救われない、のだろうか。
ビョークをどんなに思いやっても、あいつは壊れたままなのだろうか。
「そもそも、壊れているのか?」
クリュウは誰もいない部屋で呟く。クリュウにはビョークが壊れているように見えない。むしろ、よく今まで生きてきたと、それだけでよかったのだと褒めてやりたい。
「甘いのかな」
クリュウは微笑して、ファイルするための金具を取りに立ち上がった。
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