俺を叱って欲しい、やさしく抱きとめてそれくらいじゃあ嫌いにならないよって言ってほしい。
俺を嫌って欲しい、最初から嫌われていたなら愛情なんて期待しないから。
俺を受け止めて欲しい、傷が癒えるまで。
俺を信じて欲しい、これでも変わろうとしているんだ。
どうすれば傷を癒せるのか、俺にはわからない。
どうすれば強くなれるのか、俺にはわからない。
どうすれば愛を信じられるのか、もちろん俺にはわからない。
どうすれば自分を許せるのかも、もちろん俺にはわからない。
「ビョーク」
呼ばれる声にはっとして、自分の手が仕事もせずに止まっていたことに気づいた。中央のデスクに座っているクリュウがこちらを見て、首を傾げる。
「考え事をしていたな。何か悩んでいるのか?」
「いや、大したことじゃあない」
「そうか? 思いつめていたように見えたが」
「俺の慢性的な思春期病を治癒するための方法を考えていたところ。別にそれ以外考えちゃいないし、考えたくもねえよ」
「お前は始終ものを考えすぎだから疲れるのだろう。仕事がきついならば今日は休んでもいいぞ?」
ビョークはことさら眉をひそめた。この兄は何を言い出すのかと。
「甘やかすなよ。弱小組織とはいえ、この街の書類を全部カエデと兄貴で処理させるわけにはいかない」
「仕事に関してだけ真面目だよな。お前」
「まるでそれ以外のところは全部駄目みたいな言い方しないでくれます? 立派なお兄様」
嫌味もこめてそう呼ぶと、クリュウは苦笑いした。
「何か悩んでいるんだろう? 話してみる気はないか?」
「……ないね。悩みくらい自分で解決しなきゃって思ってるし」
「相談すらしないでか?」
「答えの出ない質問をされたときほど回答者の困った顔ってないぜ」
何も考えたくなかったから、かわりに仕事を要求した。クリュウは要求されたとおりに余っていた仕事をこちらに回してくれた。
ペンを構えて、資料を見つめた。情報としては飛び込んでくるのだが、何が書いてあるのかまったく頭に入ってこない。
ビョークは苦しそうに唇を結ぶ。思考がまとまらならい、何も仕事が手につかない。
「何を考えているんだ?」
クリュウにもう一度聞かれて、観念したように「アキエのことを」と答えた。
「いなくても案外、俺はひとりでも生きていけるんだなって。あいつがいなきゃ何もできないバカじゃあなかったんだって。たまにあいつが存在しなくても平気でいられる自分が少しだけ許せなくなる」
ビョークの言葉に少しだけクリュウが笑った。何がおかしいのかわからないから、ビョークとしては不愉快だ。
「当たり前だろう。お前はひとりの人間なのだから、誰かがいなくちゃ完璧に駄目だなんて、そんな不安定な存在のはずがないんだ」
不安定だ。そう言いたい気持ちを押さえ込む。どうせクリュウはそんなべったりした存在がいないから平気なだけなのだ。エンジュでさえ、ただの友達くらいの感覚なのだろう。だから誰かがいなくなるだけで、息が止まりそうになる感覚や、寂しくて死にたくなるような感覚がわからないのだ。
「あれから二年も経ってるんだぞ? アカツキがロースクールを卒業するっていうのに、お前はあいつを卒業できないのか?」
「卒業したらどうするんだ? ハイスクールに進むように、俺も別の誰かに寄生するのか?」
「それもいいかもな。恋でもしてみたらどうだ。誰か大切な人ができればお前の人生も変わるかもしれないぞ?」
ビョークはむすっとした表情でクリュウを見た。恋ときたか、よりによって恋と。女という、あの不可解な生き物といちゃいちゃすればアキエのことが忘れられると、そうこのお兄様は思っているらしい。
「俺は女という生き物が苦手だ。あの自分を中心にその周囲というミクロスパンにしか興味のない生物のことは一生理解できない」
「女性のことを理解しようとしない男は男としても中途半端だな。自分たちだけでこの世が成立していると思っている。今の世の中は男社会になりすぎだ、ジオを見ても女性が男社会にあわせているだけ。片方だけの思考が極端に支持されるのはよくない傾向だ」
男性社会に女性が適応するという男女平等は全然平等じゃあないと常々口にしている兄のクリュウ節が発揮された。
あーやだやだ、と顔をそむけたところでビョークは考える。
「昔とある医学書で読んだんだけど、人間の体ってのは生まれつきポジティブとネガティブを知っているんだとさ。たとえば好きって言うと肉体は強化され、嫌いと言えば虚弱になるような。ところが極少数の人間だけはその反応が逆になる」
「それで?」
「つまりそういう価値観で人を殺す奴もいるってことだよ。人が苦しんだり絶望したりするのが喜びに繋がったりするという、そういう種の殺人鬼たちが。俺のような快楽殺人鬼でもそいつらのことを考えると反吐が出る」
「お前は自分が苦しいから楽になるために誰かを否定しているようだしな」
兄の言葉には返答せず、先ほどの話題に戻ることにした。
「さっきの話に戻るけど、大多数の思考が支持されるのはよくない傾向だと言うけれど、こういう存在についてはやはり多様性を認めるべきだと思うか?」
ビョークの質問に、クリュウは目をしばたたかせた。
「ゴミのような人間は存在しないほうがいいと、お前は考えるのか?」
「どうだろう。少なくとも近くにそういう奴がいたら、周囲は不幸だと思う」
きっと、自分の近くにいるクリュウやカエデ、エンジュは不幸なのだ。この上なく不幸だから本当は自分なんてどこかに消えてしまうか、心の清らかなビョークになってほしいと思っているに違いない。そんな自分は想像できなかったが、きっとそう思っているのだろうと思った。
「また別のことを考えているな?」
クリュウがにやにやしながらこちらを見ている。食えない男だ。
「俺さ、昔ちょっとだけ『いいな』って思った子がいたわけよ。図書館で知り合った、控えめな子で。ゆるーい三つ編みで今考えればこのうえなくマニアックなタイプの女なんだけど」
「ほう?」
「俺が十六のときにそいつがデートした相手に強姦されかけてさ、そのとき俺がたまたま通りかかったんだよ。だからそいつを殺して、上着を貸して、泣いていたから夜食用のハンバーガーを渡してさ、いっしょにそこで食べたんだ」
「血のにおいのするところでハンバーガーか。お前の無神経さにレディは辟易としただろうな」
「まあ俺に気を使って食べようとしたけどあの女ゲロりやがったな。せっかくレタスの美味いところのハンバーガーでトマトもからしマヨネーズもはさまってたのに」
あそこのハンバーガー屋さんはもう潰れてしまった。美味しい店が宣伝も上手いわけではないのは残念なことだ。
「そのお話にはオチがあるのか?」
「その子が数日後に死んだ。未遂で終わったのに、強姦未遂を苦に自殺ってのもおかしいよな」
クリュウはにやにや笑っていた顔をやめて、「ふむ」と呟いた。
「繊細な子だったんだろう」
「俺の周囲はいつも人が死ぬんだ。俺が大切にしたいと思っている人ほど死んで行く。呪われてるのかな?」
だから、自分の傍にいるとクリュウもそのうち死ぬんじゃあないだろうか。死神のほんの気紛れで、今まで大切だった人が奪われていったように。
「そんなことはない」
クリュウは真顔でそう言った。ああ、巫山戯て「そうかもな」なんて言う性格の男ではないことは知っていた。
「二十歳をこえたあたりで、誰かがもっと不幸になるくらいだったら、傷つけてさっさと嫌いになってもらうことにしたんだ。それから俺の人生は人の嫌うことを意識しっぱなしの人生、ネガティブにもなるわな」
「つまりさっきの理論を適用すると、お前の心は年々弱くなっていっているというわけだな」
「最近じゃ、傷つく前に傷つけたくなる。過剰防衛だとわかっていてもな」
「迷惑な主張の仕方だが、傷つきたくないから傷つけるということは、その相手の愛を請うということじゃあないのか?」
まるで傷つけたい相手というのは私のことだろう? という意味を含めたようにクリュウは頬笑む。
ビョークはこれは劣勢だと思い、「やっぱ疲れたから仮眠とってくる」と自室に逃げた。
カーテンにすがりついて、うつむく。
完全に無力になってしまうか、強くなりたい。そうすればこんなに苦しくないはずだ。どうにかしたいのにどうにもできないから苦しいのだ。
何もかも壊れてしまうくらいなら、自分や他人を傷つけることで守ってしまいたい。
いいや違う、強くなりたいよりも、もっと素直になりたいのだ。だけど弱く傷つきやすい心がそれを邪魔する。
どうすれば傷が癒せるのか自分ではわからない。どうすればもっと強い人間になれるのかも。
クリュウの顔を思い出す。誰かの強い心に触れられれば、この傷は癒えるのだろうか。ひとりで存在することに罪の意識を感じず、素直に笑えるようになるのだろうか。
そこでビョークはかぶりを振った。
「俺にはやっぱり、あいつが必要なんだ」
アキエのことを終わったことにして、自分だけ幸せな人生なんて歩んじゃいけない。
涙を流して泣けば少しはすっきりしたのかもしれない。しみったれた感情は涙を呼び起こすのには少し足りない。
悲しくはないんだ、ここにあるのは弱弱しく傷ついた自分の心すら、見つめられない自分だけ。
自己憐憫に陥る価値すらない――
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