07 「真鍮の音色」

 月の綺麗な晩のことでした。
  私は月を梳いたかのような綺麗な髪のおじさまをゴミ溜めで見つけました。
  幼くして両親をなくした私への神様からの贈り物だと思い私はそれを拾ったのです。

◆◇◆◇
  テールの主な移動手段は鳥と爬虫類の間のようなヌーと呼ばれる生き物だ。
  乗り心地は悪いのだが、どこにでも生息していることからこれが主流となった。
  ウォールは緑色の絵の具に少しだけ青を足して、そこに少しだけ黒を足して……そうやって鱗の色を調節していた。
  背中をドン、と叩かれてウォールは振り返る。
「ウォール、ヌーなんてどこにだっているじゃない。そんなの描いたって売れやしないわよ」
  金茶色のゆるいウェーブを描いた長い髪をそのままにした、スーツとカッターシャツのシンプルな姿でさえよくわかる見事な体型の女性だ。
  二十代に入ったばかりと思われる彼女は、顔つきこそもう子供のそれではなかったが、その目はいつもどこかしら好奇心に満ちている。
「リジー、これは絵画として売るんじゃあないんだ。ヌーの研究者達に頼まれた表紙にするための絵だよ」
  ウォールと呼ばれたその中年は、年の頃は四十五か五十ごろ。絵を描いたらとても上手だったので自分はおそらく画家だったのだろうとリジーに言った。しかしその体は画家の繊細さからは程遠く、しなやかで強靭だった。
  ゴミ捨て場から拾ってこられた時はさすがに臭ったものだが、体をきれいに清めると、蜂蜜色の髪からは何か甘やかなものが馨ってくるのではないかと思ったほどだ。
  リジーはすこし憤慨したかのように腕を組むと
「またそんな小物の仕事受けたの? 画家として認められたいならばそんな才能の安売りなんかしちゃあダメじゃない」
「キャンバスに向かい合っている時が落ち着くんだ。それでお金がもらえるんだから贅沢は言わないさ」
「ああそうね。あなたは物欲とご縁のない人だったわね。私とは大違い」
  大げさにやれやれと肩を竦めて馬車から大きなトランクケースを下ろすリジーを見ながらウォールは絵の道具を畳んだ。
「まあ金を稼ぐのも若いうちほど躍起になるものさ。歳をとれば若いうちよりはすくなからず金が手に入りやすい。自然と野心もなくなるものだ。それはともかくとしてリジー、せっかく休暇で来ているんだ。あまり本業のほうは考えるなよ?」
「わかっているわよ。今回は静養に来ているんですもの。ゆっくりしていくわ」

 観光街ポスカト、そこは今やテールどころか月の住人も一度は行ってみたいと思う観光名所となっていた。
  そこには温泉という世にも珍しいお湯が地面から湧いてくる泉があるのだ。
  大きな沐浴場には大人も子供も老人も、みな水着姿でお湯を楽しんでいる。ウォールはここ暫くの疲れを癒すためにゆっくりと熱い湯に浸かった。
  体の筋肉を揉み解していると自分の筋力がどれだけ退化したかわかった。しかし逆に太腿の筋肉は発達している。自分の足であちこち歩くようになったせいかもしれない。
湯浴みを終えて一人宿の個室でちびちびと酒をやっていると部屋をノックする音が聞こえた。
「私だけど、入ってもいいかな?」
「もう体が半分以上入っているようだが?」
「あはははは、まあそういうこと」
  笑いながら入ってきたリジーは髪を大きくアップしてピンで留めて、浅く焼けた肌に真紅のドレスを纏っていた。ウォールはやれやれとため息をついて
「……幾ら欲しいんだ?」
「んーそんなに遊ぶつもりないし、フールレラの金粒を4つくらいくれればそれでいいかな。倍にして返すからさ」
  きっと止めても聞かないのだろう。財布係をこの娘にまかせては散財もいいところなので、ウォールが管理しているが、金を稼いでくる比率は圧倒的にリジーが高かった。皮袋から金を取り出すとリジーはそれを自分の財布の中へと移し、軽く手を振った。
「ありがとう。十二時前には帰ってくるから。じゃあね」
  リジーはひるがえる赤い裾を抓みあげると、にょきっと生足を出してぱたぱたと階段を下りていく。
  その姿を見送りながらウォールはイーゼルを立てた。
  幾つかあるキャンバスの中から一枚をイーゼルに立てかけるとまじまじと覗き込む。そこには貝殻を箱から出して床に並べている少女の姿があった。
  少女の目は輝いている。少女にとって貝殻は宝石にも勝る宝物なのだ。
  絵の中の少女をウォールは知らなかった。少なくとも、貝殻をこんなに無邪気な表情で見つめる少女をウォールは知らない。じゃあ何故こんな絵を描いたのか、自分でもわからなかった。
  ウォールは記憶喪失者だ。すべての記憶を失ったわけではないが、ここ十数年の記憶がすっぽり抜け落ちている。この絵の少女がもしかしたら自分の記憶の鍵のひとつなのかもしれない。
  時を忘れて暫しの間その少女に筆を入れていたところ、にわかに雨が降り始めた。
  リジーは傘を持っていっていない。それにあのロングドレスでは雨の中を一人で帰ってくるのは難しいだろう。
  ウォールは大きく伸びをするとリジーの向かいそうなカジノへと足を運んだ。

◆◇◆◇
  ポスカトが観光地だからといって、それは治安がいいということとイコールではなかった。
  あまり勝ちが回りすぎると目をつけられるので、リジーはてきとうについているところで切り上げて帰路につこうとした。
  外は雨がぱらぱらと降っている。
「もう、ついているんだかついてないんだかわかんない!」
  長蛇の列を見ていると、馬車待ちは随分と時間がかかりそうだ。どうせすぐそこの距離である。ドレスの裾を持ち上げるとそのままリジーは歩き始めた。石畳でよかった、土だったら泥がはねていたところだ。
  細道が横にいくつもある中、真ん中の大きな通りだけを歩いた。こんな真夜中に細い横道を歩いたりするのは月から来た世間知らずの観光客くらいである。
  と、そんな間抜けな観光客の一人だろうか。細道のほうから出てきた人影があった。
  烏玉(ぬばたま)の闇を梳いたかのような黒髪はウォールの光の粒子を縒ったかのような髪とは正反対だった。黄色人種特有の肌に仄暗い光を宿した紫暗の瞳を持った、若い男だ。
  向こうもこちらに気づいたようで、にっこりと愛想笑いをしてきた。
  リジーは笑わなかった。
  男が愛想笑いしてくるのに不用意に笑顔を返すものではない。これが月の観光客だったならば微笑み返してカモにされるわけだ。
  そのまますれ違おうとした時、男の左手が街燈の明かりにぬらぬらと輝くのが見えた。
  それが何なのか、見て理解するより先に臭いで理解してしまった。
「――!」
  男が出てきた路地のほうを反射的に見てしまったのが致命的だった。そのまま通り過ぎれば、何事もなくやりすごすことができたのに、リジーは死体を見てしまったのだ。そしてその瞬間を男にも見られてしまった。
  男は陽気に笑ったままその血に濡れた手でリジーの腕を掴んできた。リジーは体が粟立つ思いだった。
「こんな時間をあんたみたいな若い姉ちゃんが歩いているのは感心しないけど?」
  振り払おうか振り払うまいか迷った。相手は武器を握っていたわけではなかったが、どこに隠しもっているかわからない。不自然な様子が他の人間の目に止まるのを待ったほうが、危険が少ないかもしれないからだ。
「俺はビョーク、あんたはなんて名前?」
「…………」
「名前だよ。もしかして言葉違うのか?」
「……エリザベス」
  嘘をつくのはやめておいた。男の目は何か嘘をついてもすぐに見透かすような、そんな目だったからだ。
  まずこのまま殺されるのは最悪のケースだ。 時間を稼がねばならない。
「あだ名とかある? リズ、ベッツィ、リジーとか……」
「リジー」
「そうかリジー、今日つけている香水だけど、あんたはオリエンタル系よりグリーンノートのほうがいいと思うよ。もちろんその格好には、爽やかな香りより蠱惑的な香りのほうが合うけれどもさ」
  もし、リジーが殺人を犯して、その現場を誰か他の人間に見られたとしよう。こんな長話をせずにさっさと力に任せて裏路地に引きずり込んで口封じをしてしまうだろう。
  このビョークという男が何を考えてこんな世間話をし始めたのかリジーにはまったくわからなかった。
「近くに珈琲の美味しい店知っているんだけど、いっしょにどう?」
「……その血に濡れた手で行く気?」
「ああそうさ。何、あっちだって気にしたりはしない。なんせ珈琲専門店っていうのは表の顔で、俺達のアジトなんだからさ」
「離してちょうだい」
「離したらいっしょにお茶してくれるってか?」
  あっさりと腕を解放してくれたのにリジーはまたしても戸惑う。
  腕のあたりは生暖かい感触がまだ残っている。怯えるような目をしてはいけない、だが過度に挑発的であってもいけない。なるべく表情を表に出さないように心がけながらリジーは少しずつ距離をとった。
「傷つくなあ。ちょっとの間お話したいだけだって」
  ビョークは心底ショックだという表情をつくった。
「残念だけど私、用事があるの。ここでお別れしましょう」
「また会える?」
「どうかしら……」
ビョークはやや俯いたあとにおもむろに自分の手を見た。まだ汚れたその手を乱暴にシャツの裾でごしごしと拭くとそのまま差し出してきた。
「じゃあせめて握手しよう。俺は左利きだからこっちが正式な挨拶よ――」
  ビョークが最後まで喋り終わる前にリジーとビョークの間を掠める黒い軌跡があった。それは明らかにその腕ごとへし折る勢いで振り下ろされたが、ビョークは紙一重でそれを避けると後ろにたたらを踏むとおどけるように万歳をした。
「ごめん、恋人のキミ。彼氏がいるなんて知らなかったんだ」
「期待に添えず恐縮だが、保護者だ」
  静かにビョークとリジーの間に割って入ったのはウォールである。
  振り下ろされた蝙蝠傘は石床を僅かに削っていた。
「そうか、どうりで歳が離れているわけだ。おじさんはリジーのお父さん?」
「だとしたらどうだっていうのだね? 結婚の承諾ならばお断りだ。娘をこんな真夜中に血をつけてふらふらしている男にやるわけにはいかんからな」
「俺としても地面を傘で削るような怖い人をお父さんと呼ぶのには勇気と覚悟が……」
  そう言いながらビョークの左足が動く。
  軌道を捉えたかのようにウォールの傘がビョークの脚と交差した。大げさなくらい足をかかえて「痛てぇ、痛てぇ」と騒ぐと、そのあとは何事もなかったかのようにけろっとした表情に戻る。
「まぁいいや。夜道には気をつけなよ? ボスのほうには誰にも見られませんでしたって言っておいてやるからさ。おじさんもその怖い顔やめてくれよ、どうせその傘じゃ次の攻撃は避けられないだろうし?」
  言われたとおり傘は真ん中あたりからへし折れている。細いとはいえ、鉄でできた骨を折るような脚力のビョークはそのまま別の細道へと消えていった。深追いするのは危険だと思ったので、そのままウォールは後ろで固まっているリジーを見た。
「それで、今度は幾ら負けたんだ?」
「負けてないわよ。今回私何にも悪いことしてないんだから!」
「何も悪いことしてないのに、いかにも危ないギンギラ目をした男に付き纏われていること自体が不自然だろうが!」
「殺人現場見ちゃったのよ。ほら、あれよあれ! あそこのあの死体」
  感覚が麻痺してきたのか、昂然と死体を指差し捲し立てるリジーにウォールは深くため息をついた。休暇は休暇でなくなってしまった。

◆◇◆◇
「だぁーかぁーらぁー、誰にも見られてないって言っているっしょ?」
「ビョーク、お前が嘘をついているかどうかはわからんがな……今まで、殺した次の日に見つかるってことがあったらだいたいはその現場を見られていたってことだ。そうだろう?」
「まぁそらそうだな」
  あふ、と欠伸を噛み潰しながらビョークは頷いた。
  店のマスターが入れてくれたカプチーノの香りが脳を刺激してやっと頭が働いてくる。
  さて、昨日は何をしたんだったか。そういえば誰か一人殺したような気がする。たった今そんな話題が出た。
  ビョークの年齢は二十九。今年が最後の二十代というわけだ。誕生日を迎えればこのお向かいに座っている自分の兄(ボス)のように三十代おめでとうである。長かったモテない二十代もこれで幕を閉じて、晴れてモテない三十代の始まりだ。
「じゃあクリュウは俺がまたミスったって言いたいわけね?」
「要点だけつまんで言えばそんなところだな」
「クリュウ、軍部の情報を手にいれてきました」
  自室の扉を開けて入ってきた男目掛けてビョークはボールペンを投げつけた。耳のあたりを掠める時、僅かに皮膚を千切りとってボールペンは壁に突き刺さる。
「ココ俺の部屋なんだし、ノックは忘れないでね? 新人」
「お前は。大切な人材に損害を出しやがったらお前の首のほうをハネてやるからな」
「そんで、犬どもはなんてぇー言ってんの?」
  クリュウの言葉などどこ吹く風とビョークが新人に聞く。新人はひりひりとする耳から手を離し、メモを読み始めた。
「ええと、やっぱり見られていたようです。男と女。女のほうがビョークの名前を出しています」
「お前は! どこの馬鹿が殺した挙句ご丁寧に名乗っていくんだ。ちゃんと身元の確認ぐらいできているんだろうな?」
「やーそれがねぇ、目と耳が一つずつあって口と鼻が二つずつってところあたりは覚えているんだけど……」
「パーツが多すぎたり少なすぎたりする福笑いかそれは!? 逆だろうが、逆!」
「エリザベスと名乗る女性だそうです」
  続く新人の言葉にビョークは「あちゃー」と呟いた。鬼のように怒り心頭の兄の笑みが目の端に入る。

◆◇◆◇
「こんなところにいたら私、殺されちゃいます!」
「大丈夫です。我々が全力で警備にあたっているのでそんなことはありません」
「ヘサで毎日どれだけの人が死んでいらっしゃるか知っていて? あそこの軍人たちが怠けているかっていったらそんなわけないでしょう。頑張ったって限界っていうのはあるの! 私をアルカロイドに帰してちょうだい」
「証人に消えられるわけにはいきませんので」
「ああもう、ウォール! どうにかしてちょうだいよ」
  そのまま新人兵に噛み付きそうな勢いのリジーを兵士から離すと、ウォールはリジーを宥めすかすように言った。
「リジー、人間は立場を超えてものを言えないものだ。この兵士相手にがなり立てたって何も進展しない。ここは目上の者に直訴しなくては……」
「新人兵、今すぐ話のわかる上の者を連れてきなさい!」
「は、はい」
  待合室から新人兵が出て行くのを見送りながらウォールはもうひとつ付け加えた。
「上の者というのは、話がわかりにくいということだ。ゆめゆめ忘れぬよう」
「知っているわよ! でも最悪なのがくるよりかはまだマシだわ」
  リジーは昨日の赤いドレスのまま深いスリットから覗く脚を組んだ。ウォールは周囲の視線も気にして注意しようか考えたが、あまり多くのことを言い過ぎるとリジーがまた癇癪を起こしそうなのでやめることにした。
「現時点で帰れる可能性はかなり低いな。ここで過ごすことを考えて着替えを宿に取りにいこうか?」
「ちょっと私をこんなところに置いていく気なの?」
「軍に言わせれば安全なところなんだろう?」
  まったく信じていないようにウォールが返す。扉の近くに歩いていく途中で新聞を持った男からそれを奪い取るとその中にはさまれた銃を取り出す。新型である。
  そのまま男を銃で殴り倒すとウォールは言った。
「なるほど安全ではなさそうだ。荷物は新人くんにとりに行かせるとしよう」

軍は一人に一部屋ずつ用意すると進言してくれたが、リジーは一人になるのは怖がった。
とりあえずウォールと同じ部屋で食事をしている間も、この食事に毒が入っていたら……そんなことを言っていた。しかしウォールは黙々と食事を続ける。
「食事も摂らんようでは毒に殺される前に衰弱死するぞ。私を見てみろ、毒が回ったように見えるか?」
「遅効性だったりしたらどうするのよ?」
「毒が入っているかどうかくらい時間をかけて噛めばだいたい分かる。心配しすぎだ、お前は」
  ウォールの言葉にリジーは少しだけ首を傾げた。
  毒が入っているかどうか、時間をかけて噛んだくらいで普通の人間は分かるものなのだろうか。
「ねぇ、ウォール……」
「なんだね?」
「私、前々から隠していることがあるのよ」
「誰にだって隠し事のひとつやふたつあるだろう?」
「ウォールが、記憶喪失だと言ってたあれ、実は嘘だってことわかっているんだけど」
  ウォールの眉が少しだけ跳ねた。リジーは続ける。
「それにね、ウォールはあまりにもヤバイ事情に詳しすぎるのよ。アングラ系の本から得た頭でっかちな知識なんかじゃない、本当にヤバイことについての知識がさ。正直、たまに、怖い」
  もちろん今はそんな自分を頼りにせねばならない時なのだろうが、いかんせんリジーの一度頭を持ち上げた好奇心は容易に頭を引っ込めてくれなさそうだ。
  気を悪くするどころか、ウォールはあっさりとその話をした。
「私のこの金髪碧眼でわかると思うが、私は月の人間だ」
「うん。それはなんとなく分かっていた」
「月で私がどんな仕事をしていたかといえば、数えきれないくらい色々な仕事をしていて覚えていない。画家になりたかったんだ。時間にゆとりがあって実入りのいい仕事がしたくて、なんとなく借金取りの代理人をやっていた時がある」
「……それで?」
「体力には自信があったんでな、楽な仕事だと思った。ただ楽して金が手に入るということは、正規の職業じゃあないということだ。それはギャンブラーのお前でもよく分かっていることだと思うが……こういう仕事にはリスクが伴う。ただこの仕事のリスクは私自身に直接降りかかってくるものではなかった。私がこの仕事を辞めなければならなくなった事情を話すとだな、ある家族への取り立てへ行った。貧民街にあるわけでもなく、富豪の家というわけでもない、どこにでもあるような平民の家庭だった」
  コップに入った水を口に含んでウォールは続ける。
「別にどうってことない取り立てだった。脅しもしないうちにあっさり金を出した。ただそこに子供がいたんだ。小さな箱を抱えたままこちらを睨んでいる。まるで自分の大切な宝物まで持っていかせはしないぞ、とそう言っている目だ。もちろん子供の宝物なんぞに興味はないのでそのまま帰ったわけだが……数日後、そこの夫婦は自殺して、子供だけが残された」
  淡々と事実を話し続けるウォールの目が僅かに曇った。
「他の場所からも借金をしていたのだろうな、二進も三進もいかなくなったんだろう。あの子供が大切そうに宝箱を抱えていたワケもその時になればわかるってものだ。つまり毎日のように親が取り立てにあっていて、いつ自分から奪われるのかと気が気でなかったんだろうさ。しかし、その家族の借金は全部返し終わったわけではない。堅気の商売ならば当事者が死亡した時点で回収は終了なわけだが、生憎とそういうところばかりから借りていたわけではなかったようだ。そのままだと子供の臓器でも売り始めそうな勢いだったので、私は子供を誰の手の届かないところに逃がすことにした。月は狭いからね、テールに密航させることにしたんだ」
  舞台はいきなりテールへと引き戻された。ウォールは続ける。
「ずっと子供の面倒を見るなんて真似、当時の私には考えられなかったのでね。金とチケットだけ握らせて銀河鉄道に乗せた。あとはどうなったか知らない。ただそれが、上の人間にバレて私はクビになって、あとは連鎖式にもっと汚い仕事に就いていったわけだ。そこらへんは話すどころか思い出すのも嫌だ。まあそういう仕事からも足を洗う機会だったのかもしれない、ヤキが回って始末されかかったところを這々(ほうほう)の体でテールまで逃げたところを……お前に助けられた」
  そこまで話したウォールの心は穏やかだった。テーブルの向こうにいるリジーの心とは正反対のように。
  リジーは静かに席を立った。
「今の話聞いて、助けるんじゃなかったって思った。絵を描きたいからって人の命を食い物にして、それで最後は自分の命を狙われたですって? そりゃあ記憶喪失ってことにしておきたいわよね。自業自得じゃない、ウォールの汚れた手で描いた絵なんて売れるわけないわっ!」

◆◇◆◇
  吐き捨てるように言うとその場を後にしたリジーにかける言葉も見つからず、ウォールはぼんやりと見送ってしまった。
  一生隠しとおすことはできたのかもしれない。どうして言ってしまったのかと聞かれたら、良心の呵責からだろうとウォールは思った。自分の中だけに抱えていくには辛い経験が多すぎたのだ。
  ウォールは荷物の中から、例の貝殻を並べる少女の絵を取り出した。
  今まで売れた絵のほとんどは前衛的な作品としてそういうのが好きな人達に売れたが、禍々しい極彩色の地獄のような世界はウォールの世界観そのものだった。
  加筆に加筆を重ねてもうこれ以上色を重ねる箇所なんてなかったが、この少女の絵を描いている時だけは穏やかな気分になれた。先程告白した時とは比べ物になれないくらい穏やかになれるのだ。
  テールに逃がしたあの少女の宝物が貝殻だったか、そんなことはどうでもよかった。
  美しいものを美しいと思える心が欲しかった。
  大人になると色々なものが付随して重要なものから価値を見出していくようになる。これは人間の驕りだ。斯くあるべきはこの純真なる姿なのだ。
  と、こんなものに逃避してしまったが、現実へと引き戻される。リジーは殺人を目撃している。ここが安全でないことはわかっていた。早いところ迎えにいかねばならない。
  部屋を出て階段を下りるが、リジーの姿はどこにもなかった。
  頭を冷やしに外に出たとしたらマズいことになる。
  扉を開けると冷たい外気が入ってきて頬が僅かにひりっとした。足元を見ると鉛色の何かが落ちている。しゃがんで拾うとそれは小さな音をたてた。
「ガムランボール……?」
  銀製ではなかった。ただの真鍮の安物だ。伝統工芸で、金属のボールが音を奏でる楽器のようなものだ。
  金属片の煌くようなあえやかな音色に思わず目が細まる。しかしそれよりも気になったのはその手触りだった。この感触は昔、自分がテールへ逃がしたあの子供へと与えた贈り物だった。
  間違えるはずはない。ともすれば気が狂いそうになる自分の神経を現実へと引き戻してくれる親からの唯一の形見だ。何か辛いことがあったらこの音色を聞いて心を落ち着かせるようにと、過酷な旅へと出かける少女へ手向けとして渡したのだ。
「リジーが……」
  強くガムランボールを握り締めるとウォールは歩き出した。

 カラン……
  扉につけたカウベルの音にマスターが顔をあげる。
「おや、こんな時間にお客さんとは珍しい」
  店主は顔にっこりと微笑んだ。おしぼりとメニュをカウンタに出すのをウォールは横に払った。
「注文はもう決まっている」
「はい。承りましょう」
「エリザベスをひとつ買いたい」
「は?」
「ここにエリザベスと名乗る女が来ているはずだ。そいつの命を金で買うと言っているんだ」
「あの、なんのことだかわたくしには、さっぱり……」
  ダン!
  中指と薬指の隙間ぎりぎりにパレットナイフを突き立てられて店主の顔色が変わる。 ウォールは静かに続けた。
「……次は指をとばす」
  マスターは緊張した面持ちでウォールを見つめた。
「そのおじさんは本当の珈琲屋のマスター。あんたの探してる喫茶店はあっちよ?」
  馴れ馴れしい、聞き覚えのある声にウォールは顔を上げた。
  カウンタの隅のほうで新聞から顔を上げるビョークの姿があった。

◆◇◆◇
「ビョークはまだ見つからないのか? この女でいいのか確かめなきゃ始末できねぇじゃねーか!」
「大体でいいんだよ。そいつさぁ、目と鼻と口と耳がついてんだろ?」
「目と鼻と口と耳がついている奴全員殺してたら軍に足がつくほうが早いだろうが馬鹿もんが!」
  クリュウは苛々としていた。
  赤いドレスの女という特徴は合っていたが、軍が影武者を用意していることは十分ありえることだった。女は随分と肝が据わっているようで、先程から怯える様子も動転する様子も見せていない。これは軍人である可能性が高い。
「ビョークがあと半刻戻ってこなかったらこの女を始末する」
「違った場合どうするんすか?」
「もう一度赤いドレスの女を捜す。その繰り返しだ」
  そう何日も赤いドレスを着ているとは思えなかったが、いかんせん情報が少ないのでそうするしかなかった。早いところビョークが戻ってこないかと考えていたところ、扉が開く。
  女の顔色が変わった。
「ウォール!」
「あれー、リジーさん捕まっちゃったの? あはは、犬ども穴だらけじゃん。元気している? 相変わらずいい体しているね」
「その口を今すぐ噤まないと殴るぞ」
「あはは、おじさんも相変わらず怖いねぇ」
  ウォールに睨まれてビョークは笑った。
「ビョーク! あれだけしばらくうろつくなと言っただろうが」
  クリュウに怒鳴られるのを「まぁまぁ」と宥めながらビョークは言った。
「このウォールっつぅおじさんがさ、リジーの命をヴァルセラ金3202粒で買いたいそうだ」
「金3202粒!?」
「どっからそんな大金持ってきたんだよ?」
「吹かしだろう、どうせ」
  新人たちが口々にそう言う。ビョークは肩を竦めて、ウォールを振りかえった。
  ウォールは皮袋を手前へと放り投げる。
  かなり重い音がして金粒がこぼれた。手をぱんぱんとはたいて、ウォールは言った。
「数え間違えがあっては困るからな。確かめてもらおうか」
「……いや、数を誤魔化しているとは思っていない。そのままの金額を信じよう」
  あちこちから手を伸ばされて掠め取られていく金粒に目もくれずにクリュウは続けた。
「しかし、レディ・エリザベスを釈放するわけにはいかない。わかっていると思うがそこの阿呆の顔を見ている。そいつが普段偽名を使っていても顔までは誤魔化せないからな。同じ理由でウォールと言ったか? あんたも帰すわけにはいかない。探す手間が省けてありがたいよ」
「ウォール、あんた馬鹿じゃないの!?」
  リジーの咎める声はスルーした。
「何かここに奇跡を起こすような条件はないのか?」
「奇跡が起きる条件を揃えるとするならば偶然をまず起こしてみることだな」
「偶然か……」
  ウォールは周囲に目を回らせる。ここの人間全員を始末することは……一人だったらできるかもしれないが、リジーがいる今、危ない橋だった。
  もとより危ない橋ではあるのだが、まず後ろに構えているビョークの顔をナイフで仕留め、そして左にいる男の銃を奪って、一番偉そうなさっきから話している男を撃つ。あとは統率が乱れるだろうから手近な人間からやっていけばいい。
  そう考えた時だった。ポケットに入れていたはずのパレットナイフがなかった。
「これ護身用? 銃刀法違反っていうんじゃあないの?」
  後ろのビョークがパレットナイフを指で弄りながら聞いてくる。
「最近の画家は絵の道具で戦うのか。勇ましい限りだな。それで、奇跡を起こす気はあるか?」
  クリュウの質問に、ウォールは歯を食いしばる。
「あるさ……」
  ウォールはやおらいきなり近くの男から銃を剥いだ。周りの者が反射的にウォールへと銃口を向ける。
  ウォールはそれを自分のこめかみへと向けた。
「銃に弾が入ってなかったら、私たちの勝ち。これでどうだ?」
「……エンジュ、弾の詰め忘れはしてないだろうな?」
「全弾装着しています。クリュウ」
「よろしい。ウォール殿、その賭け……受けて立ちましょう」
「ちょっと、全弾入っているって言っといて、こんな馬鹿な賭けってある?」
  リジーが抗議するが、クリュウは肩を竦めてみせる。
「レディ・エリザベス、だからこそ奇跡なんですよ」
  クリュウはしれっと言ってのけた。
「さぁ、奇跡を起こしてもらいましょう」
「ウォール、馬鹿なことやらないで。あなた一人だったら逃げれるでしょう。今すぐここから逃げて!」
「……ここから逃げて、どこへ行くというのだ?」
  ウォールの視線はあまりにも真っ直ぐだった。真っ直ぐリジーに疑問を向けてくる。
「たくさんの命を犠牲にしてきて成った命だ。これでお前のもとからも逃げて、私は何に立ち向かえというのだ?」
「……宿命へよ」
  リジーは苦し紛れに言った。宿命論なんてものはウォールもリジーも信じていなかった。 ウォールは笑った。
「宿命へ、か……。回りくどいことは抜きにして今ここで立ち向かってやるさ」
  リジーのやわらかい手に真鍮の金属球を押し付けた。リボルバーを回して安全装置を外す瞬間の音で弾が装填されているのは職業柄わかった。
「私がひとつ弾を消費する、すると1/6の確率でお前ははずれる。いつもの楽勝プランだ」
  リジーは思わずその腕に飛びついて止めさせようとしたが、火を噴くほうが先だった。くずおれるウォールの体からとめどない血が流れる。

◆◇◆◇
  体から力が抜けるような思いだった。
  どうしてか涙はでてこなかった。
  ビョークがしゃがみこむとウォールの手から銃を拾い上げ、リジーに渡す。
「あんたの番だけど?」
  昨日の晩の血よりもたしかに温かなそれにまみれた銃を手にとると、リジーは後ろのピンを抜いた。華やかな金の髪が項を滑り落ちる。ウォールの金髪ほどではなかったが、滝のようなその髪はたしかに月の人間のものだった。
  そのままクリュウの頭をぶち抜いてやろうかとも考えたが、それはウォールの死を無駄にすることだ。
  生き残ってやる。
  強く念じるとリボルバーを回し、真鍮のガムランボールを強く握って銃をこめかみにあてた――
  カチッ……
  間抜けな音とともに、緊張の一瞬はあっさりと幕を閉じた。
  これはクリュウも周囲の人間も意表を突かれたらしく、しばしの間、時が膠着したようだった。クリュウの拍手が部屋に響く。
「余興は終わりだ。レディ・エリザベスを処分しろ」
「へーい、りょうかーい」
  男たちがクリュウの命令にこちらを向く。
  最初から勝ちのない勝負だということくらいはわかっていた。ただ、奇跡はあることを証明したかった。愚かな賭けにウォールを勝たせてやりたかった。
  正面から銃口を真っ直ぐに向けられるのをリジーは真っ直ぐな瞳で睨み返した。私は勝った。これは負けた奴の腹いせである。
  刹那――
  空を切って銀色の何かが髪の毛を掠めていった。
  それは正面の男の耳元も掠めてそのまま真っ直ぐと飛んでいくと音も立てずにクリュウの額へとめり込んだ。
  何が起こったかもわからずそのまま目を開いて絶命しているクリュウ。刺さっているのはウォールが普段から使っていたあのパレットナイフだ。
「クリーンヒット。いやぁけっこう殺傷能力あるのねぇ」
  振り返るまでもなくその声はビョークのものだった。ひょうきんな声はまだ続く。
「やぁ偶然よ? 偶然。偶然投げたら刺さっちゃったの。これは事故、ウォールおじちゃんが死んだのが事故ならばこれも事故だろうお前ら!」
  あまりの呆気なさに周りの部下たちは呆然としている。そのとき、ボーン、ボーンと鐘が鳴った。
「あ……俺、本日ただいまを以ってして三十歳です。とりあえず新しいボスを誰にするかはさて置き、俺を祝福しやがれ。はいはいはいはい、ハッピバースデェイトゥーミィー」
  十二回の鐘の音と、歌と、音頭と……血の臭いが充満した部屋にシュールなひと時が訪れた。

自分の命をこれ以上危険にさらしてまで真実を証言する気にはならなかった。
  口裏を合わせて、クリュウをビョークという名で社会的に葬ったあとはあっという間だった。
  オークションでウォールの描いた最後の絵を落札させた時はさすがに惜しい気がしたが、ウォールという人間の別の一面を知ってもらうためにも最後の一枚は有名なところに落札してもらいたかった。
  結局、アルカロイドの美術館が画家の最後の一枚ということで最高価格を提示して落札された。
  荷物は殆どなくなったかわりに大金が入った。しかしいっしょに使う人も、散財するなととやかく煩い人ももういなかった。

「あのガムランボールってやつ、本当は私のじゃあないのよね」
「へー…」
  表向きは本当に小洒落たカフェでカプチーノを啜るビョークを見つけたときに、なんとなくリジーは喋ってしまった。
「昔、病気にかかっていた女の子を助けたのよ。結局助からなかったんだけどさ、遺品なんてほとんどなかったんだけどなんとなく捨てられなくてこれだけは……って。ありそうな話でしょう?」
「まぁな」
「まったく馬鹿な話よね。私とその子を間違えて助けるなんてさ」
「まあそのガキがリジーでなかったとしてもあのおじさん助けに来たんじゃねぇの? いやよくわかんねぇけどさ、ガキの寿命の分命貰ったと思ってりゃあいいんじゃね?」
「あんたさっきからすごく投げやり」
  リジーはビョークを睨みつけた。
「低血圧なのに朝からリジーの言い訳に付き合わされているからだよ」
「言い訳ですって!?」
「だってさぁ、矛盾点を穿り返すわけじゃあねーけど、その月から逃げてきた少女っての、女の子ってわかる年齢だったんだろう? あのおじさんの年齢考えてみろよ。その女の子を助けたリジーの歳だって五歳そこそこだろうがよ。普通に計算すりゃ分かるっての」
「あっ……」
  眠そうな目でコーヒーカップをちびちびやっているビョークを忌々しそうに見つめながらリジーは言った。
「発狂系」
「逆噴射女」
  即答で反撃が返ってきた。
  どうやらこの男は朝は普通に頭の切れる男で、夜は本当にキレるようだ。一日に何杯もカフェインを摂取して脳内が興奮状態になるのではないだろうか。
「まぁ真実はどうであれ、これはここだけの話ってことで。そんでーこれからどうすんの? 大金抱えてアルカロイドにお屋敷でも建てるの? それとも立派なウォール美術展でも開くってか?」
「月へ行こうと思っている」
「そう、月……月ぃ!?」
  リジーの発言にビョークがおかわりしたカプチーノを噴きかけた。リジーは頷く。
「月よ。ウォールのふるさとに帰るの」
「帰るって……リジーはテール出身じゃなかったのか?」
「そんなこと言ったっけ?」
「いや、聞いてねぇけどさ」
「私はこれでも月の人間なのよ。でもよく覚えてないのよね、月ってさ。幼い頃にテールに来ちゃってそれっきりだし。ガムランボールといっしょに月にお墓つくってこようと思う」
「ふぅん。言っとくけど月の土地の値段ってテールなんかと比較になんないよ? 行って、墓建てて、帰ってくる金なかったりして」
「あはは、ありえるわね。まあその時はまたてきとうにカジノで稼げばいいし」
  リジーのお気楽な発言にビョークはことさらでかいため息をついた。それがなぜか、ウォールのため息のつきかたに似ていると思った。
「今度賭け事で負けたって俺は助けに行けないんで、そこんとこよろしく」
「あんた率先して私に銃渡してたじゃない! どこが助けてくれたわけよ?」
「まぁ、過度にアンフェアなもんを見ると味方したくなっちゃう、これぞ人情というか気の迷いというやつでして。お陰で兄貴がやっていた雑用が俺に回ってくるわけだ。珈琲飲んでいる暇も今は惜しい。いやしかし珈琲だけは、朝の珈琲だけはなぁ……というわけで俺は戻る」
  カップを持ったまま窓硝子を下ろそうとして、ビョークは言った。
「まぁ事後処理は任せておけ。お前は月に行って、帰ってきたら俺と結婚するように。そんじゃ」
「事後処理も何もあんたが起こした事件でしょうが。そしてもうここには戻ってこないから、頼まれたって戻ってこないからね!」
  リジーは店の奥に消えて行くビョークにあかんべをした。

◆◇◆◇
  喚き散らす煩い小娘にビョークも興味はなかった。
  そんなものだ。たまたま顔と体型と出会いがよかったのでなんとなく気になったりはしたが、平穏な中でのやりとりというのはなんとも退屈なものである。
  おそらく世のカップルの半分くらいはこの勘違いというやつで付き合って、惰性で今も付き合っている。
  恋する男はボケないらしいが浮気する男はボケるとかいうのをどこかの本で読んだ。
  常に恋し続ける男でありたいと思っているものの、一生を通して何度も恋に落ちるような女性など見つかるはずもないとビョークは考える。
  飲み終わったカップをカウンタに置くと内側に回り込んで二階へと上がった。
  扉を開けると小さなアトリエで一人の男が絵の前に鎮座している。扉の開く前から足音で分かっていたらしくにっこりと微笑んでくる。
「やぁ、あんたか。部屋まで貸してもらって悪いね」
「いや。傷はまだ痛むか?」
「痛まないと言ったら嘘になるがね」
  頭に包帯を巻いている男はもう、ウォールという名の男ではなかった。
  彼は月で施した人体改造――サイボーグ化によって、頭蓋骨にはりつけてあった金属で弾が滑った。そしてリジーの邪魔によって一命を取り留めたのだ。
  しかし今度こそ生まれた時からの記憶をごっそりと失ってしまった。
「私は記憶を失う前、画家だったのかもしれないね。筆を握ってキャンバスを見ていると落ち着くんだ。ところでこの彼女、どう思うかね?」
  ビョークはカンバスを覗き込んで、にんまりと笑った。
「こりゃあ、たまげたいい女だね」
  絵の中の女性はリジーでも貝殻を並べる少女でもない、不思議な目をした女だった。
  キツイわけでも優しいわけでもなく、笑っているわけでも憂いを帯びているわけでもなく、ただ自分の奥に潜む何かを透視しているかのような深くて強い視線だ。
  そう、歴代の人間が何度も惚れるような女性なんて、絵に描かれた彼女たちくらいのものだろう。現実は移ろい行くものだ。
  煉獄の日々と思っていたあの男の日常さえ、今はこんなに穏やかではないか。
  テーブルに置かれた、伝統的な手工芸によって作られたガムランボールだけが、今も昔も変わることなくあえやかな音色を紡いでいた。