第二章 「風にそよぐ葦」

 

 面接は偽の履歴書を使ったらあっさりと通った。僕は今、営業の仕事をしている。なかなか成績はいいほうだ。
  数字で出る実績が好きなわけではないけれども、人と話すのが嫌いなほうではないし、詐欺のひととおりのテクニックも習った僕にとって人を騙して契約を取るのに罪の意識などあるわけがない。
  僕は順調に二十歳の冬を満喫していた。

「いいか雲雀。絶対に成人式をサボるなよ」
  英一はそう言った。英一は市議会に顔の効く知り合いがいるらしく、特別に成人式の招待状を僕の分まで取ってきてくれたのだ。
  成人式なんて、どうせ成人になったことなど理解していない子供じみた二十歳でごった返しているんだ。行く意味なんてあるのか? そう思いながら僕は成人式に参加した。
  案の定、成人式ではうるさい連中もいた。隣の振袖の女の子の化粧のにおいがきつかった。
「みなさんはこれで晴れて大人となったわけです。日本の将来を背負って立つ大人としての自覚を持って、社会人として立派に成長してください」
  市長がそれらしいことを言って退場したあとは帰るだけだった。行く意味なんてあったのか? そう思わずにはいられない。

「ただいま」
「おかえり。赤飯炊けてるぞー」
  英一はめでたい日だからと赤飯を炊いたらしい。大袈裟な。
「成人式、どうだった?」
  麩の味噌汁を啜りながら英一が聞いてきた。
「人がすごく多かった。あとうるさかったかな」
「大人としての自覚は芽生えたか?」
「あんなガキだらけの成人式で芽生えると思う?」
  僕が卵焼きを箸で取ろうとしたら、英一が僕を見つめているのに気づいて箸を止めた。
「お前がどう思っていようとな、今日からお前は大人なんだよ。日本を背負って立つ社会人のひとりだ。子供たちに明るい未来を作るも暗い負債を残すも、俺やお前の手にかかっているんだぜ?」
  僕は卵焼きを食べる手を止めたまま沈黙した。市長の言葉なんて右から左だったけれども、英一に言われるとやたら説得力がある。
「英一って二十歳のときにそんな自覚あった?」
「んにゃ、なかったね。まだ大学生だったし、やりたいことやりたい放題だったし」
「じゃあなんでそんなこと言うの?」
「成人式から帰ってきて俺が煙草を吸いながら、酒を飲んで、バラエティ番組を見ていたんだよな。普段はお袋の尻の下に敷かれている親父がやってきて、テレビを消すと俺に『話がある』と言って俺を居間へ連れて行った」
  そう言いながら、英一はくっちゃくっちゃと漬物を噛みながら続きを話す。
「『お前はどんな大人になりたいか』って親父が言い出すんだ。正直、俺はテレビが見たかったからそんな質問について真剣に考えるのは面倒だった。だけど親父が納得しそうな答えを考えつくほどその頃は賢くなかったよ、酒も回っていたしな。だけど親父が『どんな父親になりたいか』って聞いたときはけっこうピンとくるビジョンがあったんだ。俺が好き放題で育ってきたから、子供にもやりたいことをやらせてあげるお父さんになろうって。だけど駄目なことにはびしっと格好よくどうしていけないか伝えられる奴になろう。子供が納得しなかったら腹を割って次の日どんなにきつくてもその答えが出るまで付き合ってあげるんだ。そういう父親になりたいって言った」
  二枚目の漬物に箸を伸ばしながら英一は僕を見つめて聞いてきた。
「大人の自覚なんて今はなくてもいいよ。どんな父親になりたい?」
  僕は、頭が空っぽになった。
  自分がどんな父親になりたいかなんて考えたこともなかった。女性とセックスをして場合によっちゃ父親になるケースもあると思っていたけれども、父親というものについて深く考えたことがなかったんだ。
  どんな父親になりたいか。そもそも父親がどんなものなのか知らない僕は、どんな父親になりたいかと聞かれても、父親というものがわからない。
「……子供を捨てない父親」
  そう言うのが精一杯だった。
「愛していない女の子供でも、子供だけは絶対に大切にする。種植え付けたところで責任放棄なんて絶対にしない」
「そうか」
  英一は短くそう呟いた。僕は目をそらしながら、英一に謝った。
「ごめん。僕はどんな大人になりたいかより、どんな父親になりたいかのほうが、ずっとわからない」
  僕が目に見えて動揺しているのがわかったらしく、英一は「難しすぎたかもな」と呟いてまた食事を再開させた。
  その日、眠れないまま僕は僕のなりたい大人と父親像について考えた。答えどころか、頭が真っ白になるだけだった。大人というと、エンジェルの先輩たちを思い出す。僕たちに犯罪のテクニックや仲間意識を教えてくれた人たちだ。
  ああいう大人になりたいのか? 売られたくなかったら、売る側に回ることを教えてくれた人たち。騙されたくなかったら、騙す側に回れと教えてくれた人たち。世の中には糞と飯しかないって教えてくれた人たち。
  僕の中の何かがそれは嫌だと言っていた。心じゃあないと思う、あの人たちが嫌いだったわけじゃあないんだ。ただ僕の中の何か――あえて適切な言葉を見つけるなら、“魂”が僕の向かいたい先はそっちじゃあないと言っていることがわかった。
  英一が言っていたような子供にのびのびとさせてあげる父親になりたいのか。子供のためにどれだけでも時間を使ってあげる親になりたいのか。それもなんとなく違うような気がした。
  英里香の父親がもし僕だったら……とも考えてみた。きっと英里香がお嫁に行くときに泣いちゃうくらい、きっと英里香を大切にしただろう。
  だけど、英里香も自分の子供も、どういう風に大切にするのか、具体的な考えは全然浮かんでこなかった。どれだけ考えても、まったく浮かんでこなかった。

「おはよう。徹夜か?」
  翌日、僕の目には隈があったらしい。英一は歯を磨きながら僕に洗面台を譲る。
  僕は顔を洗う前に歯を磨いている英一に言った。
「寝ないでずっと、なりたい大人と親について考えていた」
「大袈裟だな。ただの成人式でそこまで考えたのか。血液型知らないけど、お前はきっとA型だろうな」
「からかわないでよ。でも答えは出なかったんだよね。ただ……」
「ただ?」
「今のままじゃあ駄目だって思った。僕は今のまま歳をとっても、僕のなりたい大人とは違う大人になるって」
「ふうん。それで?」
「そういう理想の大人と違う大人になっても別に構わない。現実と理想は違うから、いつでも理想どおりに生きられるとは思わないし」
「そうだよな。俺もいまだに独身で奥さんどころか彼女もいないし」
「僕は英里香のことを考えた。そのあとに自分の生まれていない子供のことも考えてみた。僕がどういう親になるか想像できなかったから、子供にとって僕がどういう親かを考えてみた。……理想のない親だった。生きることで精一杯で、そんなことを考える暇さえなく、気づいたらこんな年齢になっていた。そんな大人だった」
「それも別に悪いとは言わないけれどもな」
  英一は口をしゃこしゃこと歯ブラシで磨きながら話を聞いている。
「英一が『お前はどんな親になりたい?』って聞いたとき、僕の答えが出なかったように、僕の子供に僕が同じ質問をしたとき、子供がどう答えるか想像してみた」
「うんうん」
「そのとき『少なくともあなたのような大人にはなりません』と言われない大人になろうと思った」
  僕の結論を聞いて英一は沈黙した。泡だらけの口を半開きにし、何か言おうとしたみたいだったけれども、何も言うべき言葉が見つからないようだった。
「じゃ、顔洗って仕事に行ってくるね」
  僕は英一から正面を外して、洗面台で顔を洗うと髭を剃って出かける仕度を始めた。

 生きることで精一杯だった。大人を恨むことで精一杯で、自分がいつか大人になることなんて想像だにしていなかった。僕が将来どんな僕になりたいかなんて考える暇さえなかった。
  今はどうだろう。ちょっとだけ考える暇はあるかな。仕事もあるし、家もある。相談しようと思えば英一だっている。
  僕は社会に大切にされていないことに憤っていたけれども、僕自身は僕を大切にしていたのかな。
  自分を許せず、他人を許せず、自分の傷も他人の心も見ないフリをしてここまでやってきた。見るのも触れるのも辛すぎて、こんなのはへっちゃらだと強がっていた。
  その頃から、まずは僕が僕のことを大事にしてあげなきゃいけないって思うようになった。
  大切にする方法はわからなかったけど、僕はそうしてみようとまずは思ったんだ。