さすがに心配したレオンに軍の医務室にかかるように言われた。
  淫夢の内容まではさすがに説明できずに、健康診断を受けたあと、疲れているだけとの診断結果をもらった。
  晴れて、健康だと診断された。
  異常なしだと診断された。
  これは疲れているだけだから、運動していれば忘れるよと言われた。
  ふざけるなと言う気力さえ残っていなかった。
  とぼとぼと部屋まで戻る。
  何も考えられないまま、無意識に引き出しを開けると拳銃を取り出した。
  こめかみに当てて引き金をひこうとした瞬間、後ろに引っ張られるような感覚。
  兪華はそこで自分が黒兪華に体を明け渡したことを知ったが、もう苦しみから逃れられるならばそれでもいいと感じた。

「思わず乗っ取っちゃったけれどどうしよう」
  黒兪華はそう呟くと、そのままふらふら歩き出した。
  兪華は気絶しているようなので、そのまま日常を送る。
「お前、最近つらそうだったけれど元気になったのか?」
  医務室へ行くようにと言ったレオンはまだ心配してくれているようだった。
「何のこと?」
  黒兪華は兪華のフリをしてしれっとそう言った。
「元気になったんならそれでいいけどさ」
  レオンは何か納得しない様子だったが、湖緑はずっとこっちを睨んでいる。
  あの日以来、湖緑に体を強いられることもなくなったようだ。
  黒兪華は好都合と同時に、困ったとも感じた。
  湖緑と兪華がこのまま離れていくのは自分の望むところではない。夢の中でからかいすぎたのがこんなに兪華を追い詰めるとは思ってもいなかった。
  案外軟弱なメンタルなのだな。軍人のくせに。そんなことを思いながら、状況は打破したかった。
  このままでもいけないだろうと思っていてもどうすることもできない状況が続き、兪華のフリをしたまま日常を送った。町中を警備で歩きまわっているとき、たまたま懐かしい人間を発見した。
  かつての兪華の先輩にあたる、キリシュ=入間だ。
  あいつに慰めてもらおうと黒兪華は考えた。
  林檎に夢中だったキリシュがこっちに気づく距離まで近づいた。
「兪華……」
  キリシュの目の前で、黒兪華は持ち前の演技で死にそうな表情を作った。
「先輩、僕自殺しようとした。慰めて」
  黒兪華はそうとだけ言って意識を兪華に返した。

 何があったのかよくはわからないが、目の前にキリシュがいた。
  そして心配そうに見ている。
「兪華、何があったのか知らないけどさ、生きてるといいこともあるぞ」
  伸ばされた手にびくりとした。
  キリシュに頭をそっと撫でてもらった。
  思わず涙があふれた。
「先輩……都合のいい時だけ相手してごめんなさい」
「もういいよ。兪華、それよりどうした?」
  お人好しな先輩は、こんな都合のいい後輩のことをそれでも心配してくれた。
「平気です。もう平気です」
「おかしな奴だな。自殺未遂したって言ってたぞ?」
「いいんです。僕もう少しがんばれます」
  キリシュは本当だろうな? と何度も確かめたが、兪華は何度もお礼を言ってキリシュと別れた。
  何もかもなげやりになるのは最後でもいい。やるべきことをやってから考えよう。

「正直やりすぎたことは自覚しているんだよ」
  黒兪華はもうひどいことはしてこなかった。夢の中で悪さをしてくることもなかった。
  黒兪華は手口をかえてきたようだ。
  小等部の頃に飼っていた犬をだしてくれたり、父親と母親に褒められていた頃の兪華を見せてくれたりした。
「君は覚えてないみたいだけれどもね、お父さんは兪華が生まれたことを喜んでたんだよ」
「ふうん」
「信じていないかもしれないけれど、お父さんは話し合わなかっただけで兪華のことをいつも考えていた。お母さんは兪華がどんな悪さをしても叱らなかった。どうしてだとおもう?」
「さあ」
「愛してるからだよ」
  よく言う。昔はチャンネルをお父さんとお母さんに向けて消してしまえと言った口で。
  兪華はおかしくて喉で笑った。
「でも、兪華も辛かったんだよね」
  黒兪華はそうぽつりと呟いた。
「僕は君がどんなに努力したのか、よく知っているよ。誰も君のこと辛かったねとか言って撫でてくれたことないから苦しかったんだよね?」
  その問いにはどう答えるべきかわからなかった。
「兪華、湖緑に甘えてみなよ。きっとあいつ驚くよ?」
  いたずらげにそう言った黒兪華に「いいアイデアだね」と笑えるくらいには元気になっていた。

 

 最近はずっと湖緑が兪華の部屋を訪れていたので、彼の部屋を訪ねるのは久しぶりのように感じられた。
  湖緑は兪華を見るとちょっと驚いたような顔をして、部屋の中に入れてくれた。
「何か用ですか?」
「味噌汁食べたくて」
「私はあなたのおふくろじゃあないんですけれどもね。言われて嫌な思いはしませんが」
  部屋の中には昔とかわらぬ味噌汁のにおいが漂っていた。
  目の前に湖緑の作ったものが並べられる。
  あれこれ好き嫌いを言っていた昔が懐かしくて、兪華は残さずきっちりと出されたものを食べた。
「無理して食べなくてもいいですよ」
「美味しいから」
「兪華さんがそう言ってくれるの、久しぶりですね」
  味噌汁はいつもと同じ昆布とカツオの出汁が使われていた。
  食後の白湯をすすり、兪華と湖緑は一息つく。
「それで、何の用だったんですか?」
「ずっと言ってなかったことを伝えようかと思って」
  湖緑は少し身構えたように見えた。
  実際身構えたのだと思う。決定的な別れが来るとしたらこのタイミングだと思ったに違いない。
「何されたっていいよ。好きなようにしてくれていい。もう失いたくないから。湖緑くんのこと好きだから」
  先にそうと伝えて、続きは恥ずかしいから口早に言った。
「ずっと好きだって言ってなかった。愛してる」
  湖緑の表情が安堵にかわっていく。
  ゆっくりと息を吐き出し、湖緑は笑みを浮かべた。
「やっと言ってくれましたね。色々ひどいこともしましたが、ごめんなさい。愛してます。兪華さん」
「失いたくない」
「私もです」
  椅子を立ち上がり、湖緑のほうへと回った。湖緑も立ち上がった。
  先に湖緑を抱きしめた。あっちもハグを返してくれた。
  一度、長めのキスをした。
「まだキスして」
  自分から求めて、もう一度キスをした。
「もっと」
  唇が名残惜しくて、もう一度強請った。
  キスをして、舌を絡めて、手の指を絡めてそれだけで至福だと感じたのは久しぶりのことだった。
「ちょっといちゃいちゃしすぎた」
  最後は恥ずかしくなって離れようとしたが、湖緑は珍しくツンとしなかった。
「いいじゃないですか。最近痛くしすぎましたし」
「痛かったよ実際」
「こっちだって必死だったんです」
  なるほど。どっちも必死だったのは今ならばわかる。
「ねえ湖緑くん、二人でセックス以外のことしたの最後いつだっけ?」
「忘れました。というか、え、ずっと?」
  ずっと、セックスしかしていなかったという事実に今頃気づいたようだ。最近湖緑のご飯すら食べていなかった。
「うん。休日映画でも見に行こうよ」
「そうですねえ」
  何故もっと早くこうしていなかったのだろう。ずっと早くにこうすればよかったはずなのに。
「映画いっしょに見に行けると思ってませんでした」
「ふうん」
「もう嫌われてもいい。好きって伝えられないよりはマシって思ってましたから」
「僕は嫌われたくない。痛いほうがまだマシって思ってた」
  答え合わせをした瞬間、二人で耳まで赤くなるのがわかった。
「うわあ。どうしてこうなった」
  兪華が思わずつぶやく。
「どうしてでしょう。正反対すぎる」
  誤解も解けて、思わず笑いがこぼれた。