あの男の家にあまりによく似た造りだった。
情報屋で、アル中で、稼いだ金は全部風俗と酒代に消えていた最初に拾われた豚男の家にすごく似ている。
家が傾いているみたいで、窓がいつでもカタカタ鳴っていた。ストーブしかない部屋は灯油を買ってくれないとき寒かった。
カレンダーに印をつけるかわりに天井のシミの数を数えていた。百個シミを見つけたときに転機が来ると自分でジンクスを作った。
あんな感じだ。シミと節が多い木造の天井。
「起きた?」
声をかけてきたのは引きこもりの豚男ではなかった。
金髪に緑の目、筋張って細身の若い男。
目が猫のようにつり目だった。目の中心は小さく、濃い緑だった。色素の薄いライトグリーンの瞳で、その周りがグレーだった。
「エルムさん、体調どう?」
最悪。という言葉を飲み込んで、腹に鈍い痛みがずっとあることに気づく。
最後に記憶があったのはクリスマスイブだ。
上司の黒狸が仕事を放棄して恋人とクリスマスを楽しむと言って休んだ日だ。
こんな日に仕事をしているのはエルムぐらいだった。スラムに一人で出かけたのは、ほんの帳尻のあわないものを確認に行くためだけだった。
「この集金報告書、おかしくない?」
集金係の男はエルムの質問をのらりくらりと躱したが、最後はエルムの粘りに負けて隠していた金を渡してくれた。
そこでほっとしたのが間違いだった。
あの時腹に熱いものが広がったのは、間違いなく刺されたか撃たれたかしたのだろう。
エルムはもう一度、助けてくれた男の顔を確認した。先程自分の偽名を呼んだところを見ると知り合いだったのかもしれない。
「ジェレミア=ビアンキーニ」
紅龍会狐班の末端、スラムの集金係の一人だったはずだ。
顔を合わせる機会は案外多かった。だけど話すことは少なかった。
黒狸がいつも「レム」と呼んでいた。
「レムは信じられる」
と言っている言葉に仕事のできる末端なのだろうと素直に納得した。自分と同じく、黒狸のミスの餌食になってるのかもしれないと想像したくらいだ。
「レム、金は?」
「エルムさんしか現場にはいなかった」
「持って行かれたか。始末書ものだな」
「それより傷のほう平気なのかよ? いちおう異能で接着しておいたけれど」
レムの異能――なんだったか。
エルムはレムをちらりと見た。エルムの異能であるバタフライ・エフェクトを展開する。
この男の異能は手から出した粘液を自由自在に操るというもの、そう感覚に降ってくる。蜘蛛のようだとエルムは感じた。
「安静にしといてくれよ。グラッツェ・アラクネじゃ傷は治せない」
「グラッツェ・アラクネ? 異能にそう名前つけたんだ」
「アラクネちゃんありがとうみたいな意味。蜘蛛の恩返しから」
「それくらいわかる」
「あんたも昆虫だったっけ。たしかバタフライ・エフェクト」
「蜘蛛は昆虫じゃないって知ってる? 六本足の節足動物のことを昆虫って言うって」
つまり蜘蛛はただの虫であって昆虫じゃあない。足が八本もあるというのは、どちらかといえばムカデや便所虫に近いのだ。
「パソコンはここにあるし、仕事するならそのまま寝てやれば?」
レムはエルムのパソコンを拾っていてくれたらしい。コンセントに挿して使おうとしたら画面が起動しなかった。
溜息がこぼれる。同じ鞄に突っ込んでいたはずの携帯を探すが、それも見つからない。
「落ちてたものは全部拾ったはずだけど?」
レムが必死で携帯を探すエルムにそう言った。
「この糞忙しい時に……」
エルム悪態に近い苛つきで舌打ちした。
「何時間寝てた?」
「三日」
「三日!?」
「うん。三日」
「その間病院に運んでくれなかったの? ずっと看ていたの?」
「病院で治したら高いよ、エルムさん」
「後遺症が残るよりマシ」
部屋は十分暖かいはずなのに、肌寒いと感じる。外はまだ深々と雪が降り積もっているみたいだ。
「どのみち外に出るには雪かきが必要だな」
「シエルロアの冬に雪が降るなんてあまりないことね」
「毎年一回か二回は降るけれどそうだね」
窓の外を眺めたあと、レムは唐突に
「ところで、エルムさん」
と呼びかけてきた。
レムは一呼吸置いて、こう聞いてきた。
「あんた紅龍会の所有物だったんだね」
エルムはゆるゆると溜息をついた。落ち着こう、左腕に彫られた紅龍会の所有痕を見られただけだ。
エルムは今から三年前、紅龍会に買い取られた。
情報屋を営んでいた豚男が借金のカタに紅龍会にエルムを売り渡したのだ。
エルムを買い取った狐班の男はこう言った。
「とてもヘビーな職場だけれど、きちんと働く奴にはお金も支払われる。仕事を辞めることは許さないけれども、のし上がれるかどうかは君次第だよ」
ローゼルだったあの頃、お金に困ったことはイヤでも身に染みていた。
これからはお金を頼りに生きよう。そう決めて名前を改名するときにエルムレスとつけた。
ローゼルとは違う花の名前。
孤独を保つという花言葉のエルムレス。
「紅龍会の所有物なのはわかったけどさ、腰の羽を毟られた蝶みたいな刺青、あれは何?」
レムの追撃に、今度こそ自分の体が硬直するのがわかった。
「悪い?」
「趣味悪いなって思っただけ」
別に自分で彫りたかったわけではない。
バタフライ・エフェクトという異能名を聞いて、標本好きだったあの豚男がお尻のところに彫ったのだ。
「お前はもう逃げられない」
そう満足気に笑った男は、借金のカタにあっさりエルムを手放した。
つまり、男の執着なんてその程度のものなのだろう。
「標本フェチにつかまったことがあるだけ」
「うわー」
「それだけ?」
他に質問はあるのか。だったらまとめて片付けてしまいたいと思ってそう聞いてみる。
「だからエルムレスなの?」
「は?」
「孤独を愛するだっけ? 偽名でしょ」
違う。孤独を保つという意味だと言おうと口を開き、過去の自分の幼稚な偽名を恥ずかしく思い口を閉じる。
「本名は?」
「どうだっていいでしょ」
「いつか教えていいと思ったら教えて」
「そんな日こないから」
エルムはレムのほうを睨みつけるとこう言った。
「同情してるの?」
「何に?」
「詮索する理由」
「……。不思議なんだけど、気になるから」
「エルムレスは花の名前。花言葉は孤独を保つ。特に意味を込めてつけた訳じゃない。これで満足?」
「いや、気になるのは名前じゃなくてこう、あんた自身が」
もう一度エルムの体がこわばる。
ここはレムの部屋だ。そして携帯もなければパソコンも繋がっていない。
思わず動かすと痛い体で、レムから距離を取るように引き下がった。
「私はどう答えればいいの?」
「そうだな。こうしようか。俺があんたの本名を当てられたら、あんたは俺とデートする」
エルムは答えなかった。
刺激しないで、なおかつ回避できる方法を考えているうちにレムがこう言った。
「恋人いるんでしょ? 一回だけでいいから」
「それ分かっててYESって答えが来ると思ってるんだ」
ラッセルを理由に断ろう。
「きれいに、一回で、落とせなかったら、諦めるよ」
だけど厄介そうだった。一度デートして今回はご縁がなかったと言ったところで、こういう男が引くとは思えない。
「私が忙しいって知ってるよね?」
「知らない。それ本当に忙しいの?」
「いい加減な上司のお陰で毎日仕事に追われてる」
「祥老師は怪我してるときまで仕事しろって言わないはずだけど?」
「黒狸さん老師って年齢じゃあないと思うのだけれど。ねえ、私やっぱり帰る。仕事しなきゃいけないし、それに……」
「それに?」
あんたは危ない男のような気がすると言いかけた言葉を呑み込み、エルムはそのかわりにレムを睨んだ。
「帰る」
「どっちにしろ、今外に出るの大変だし、怪我してるのに雪の中歩くなんて重労働したら傷口開くぞ」
立ち上がろうとしたところ、手首を掴まれたので手を振り払った。
「離して」
あっさり手は離れたが、次の瞬間体がベッドに引き戻された。
何事かと思っているうちに、両腕がベッド脇にひっぱられる。
まるで蝶が蜘蛛に捕まったみたいな格好にさせられた。
異能を使った張本人のレムは、指から出るわたあめみたいな蜘蛛糸を指の中に回収していた。
「安静にしてろ」
糸を千切ろうと腕を動かすも、あまり効果はない。
「おい、傷口開くだろ」
「触るな!」
思わず大声で叫んで威嚇した。
レムはエルムに蹴られそうになったのを避けると、大人しく引き下がる。
「異能を解除しろ。さもないと……」
「さもないとなんだよ?」
ワントーン低い声でレムがそう聞いてくる。
レムの額に青筋が浮いているのがわかった。
「威勢がいいのはけっこう。だけどあんた、今俺が異能で鼻と口に詰め物するだけで死ねるってわかってる?」
レムはすぐさま、「そんなことはしないけれど」と付け加えた。
「安静にしていてくれ」
エルムが空腹と尿意に耐えられなくなり始めた頃、レムは拘束を解いてくれた。
トイレを済まして、食事を狭いテーブルでいっしょにとった。
食事をとっている間、いざとなったらと思いフォークを一つポケットに隠そうとしたが、その寸前でレムに回収されてシンクの中に投げ込まれた。
「エルムさん、俺のこと怖い?」
なるべく穏やかを装う声が、たまらなく怖くて身が緊張しっぱなしだった。
レムはテーブルまで戻ってくると、コーヒーメーカーから二人分の珈琲を注いだ。
目の前に差し出されて、クリープのケースを置かれるが、エルムはブラックのまま、一口だけ飲んだ。
「君に構ってる暇ないから」
精一杯の強がりだった。
こんな奴に屈してはいけない。
「じゃあ、怖くない?」
「全然」
ふと、レムの手が持ち上がる。
思わず叩かれるんじゃあないかと思って身を竦ませた。
「よかった」
実際は髪の毛を梳かれただけだが、それも怖くて緊張は解けずにいた。
「あんたが何をしたいのかわかんない」
犯すだけが目的ならばこんな回りくどいことをしなくてもいいはずだ。
「キスしたいかな。していい?」
「……イヤ」
「じゃあ襲っていい?」
「ふざけないで」
体から汗が吹き出すのを感じた。
レムはエルムの返答にあっさりと次の言葉を探している。
「抱きしめる……も怒られるかな。手つなぐは?」
エルムは固まった体の力を振り絞って、左手をレムへと差し出した。
「……これでいい?」
レムがガシッとその手を握ってくる。男の握力だ。
ラッセルと手を握ったときとは違う感触、ラッセルと手を握ったときとは違う感情が湧いて手が脂汗で冷えたような気さえした。
「うん。あと呼び捨てしていい? エルムって」
「好きにして」
「エルムの手やわらかいね」
そんなやわらかい手ではないと思うのだが、レムはエルムの手の感触を味わい、エルムの顔をまじまじと覗きこんでくる。思わず死線をそらした。
「手なんか握って何が楽しいの」
「触りたいし、知りたいし、欲しいって思うの普通のことでしょ」
肩が緊張して、背中がぜえと荒く呼吸した。
「……怖い」
思わず本音がこぼれた。
「レムが怖い」
手を握られてるだけでここまで怖かったのなんて久しぶりだ。
古い頃の記憶が呼び覚まされる。下心たっぷりに手を撫で回す男たちの視線や、撫で回された場所の感触を思い出して鳥肌が立った。
「私が怖いって知ってるのに、諦めないの?」
「大嫌い、顔も見たくない、気持ち悪い、不潔、不純、カスぐらい嫌われない限りは――」
「大嫌い、顔もみたくない、気持ち悪い、不潔、不純、カス!」
レムの言葉が終わるよりも先に思わず口から復唱してしまった。
背中が怯えて丸くなっている。肩が怖さですくんでいる。握られた手がやや強く力をこめられるのがわかるが、怒っているかどうか、レムの顔を見るのさえ怖かった。
「そう思われても仕方ないか」
レムは手を離して、そのままソファのほうへと向かった。
寝所は分けてくれるみたいだが、だからといって朝まで気分がかわらないとは限らない
。というよりも……
(私、監禁される)
きっとパソコンが動かなかったのも携帯がなかったのもこいつの仕業に違いない。
そっと玄関を振り返る。びっちりと蜘蛛の巣のような糸がドアノブのところに絡みついている。逃がすつもりなんてないようだ。
「エルム、寝なよ」
レムがソファからそう声をかけてくる。エルムがベッドへ行こうとしないと、諦めたように
「じゃあずっと、そうしてろよ」
と言ってレムは寝てしまった。相手が完璧に寝てしまったのを確認して、殺そうかとも考えた。
枕を押し当てさえすれば窒息死させられる。そう思ってエルムはゆっくりと近づく。
寸前のところでぱち、とレムの目が開いた。
「エルム?」
気づかれた。何をやろうとしていたかわかったら自分の身が危ない。
「寝ろ、エルム。俺にそういう真似しようとしたって無駄だ。俺は害を加えるつもりもないけど、危害によっちゃ身を守るために何すっかわかんねーぞ」
エルムが信用できないという表情で睨み返すと、レムはもう一度「ベッドへ戻れ」と言った。
エルムは刺激するのもどうかと思い、ベッドに戻った。どうして気づかれたのか横になりながら考える。
蜘蛛の糸だ。たぶんものすごく細い糸を指に絡めているか何かしたのだろう。
殺すことには失敗した。
明日何かまた対策を考えよう。
|