翌日、目が覚めたときはレムが誰かと話している声がした。
「老師、じゃあ年明けまで彼女をとりにこないってこと?」
  老師、ということは黒狸のことか。
「わかった。それまで預かっとくけれども俺警戒されてるみたいだから早く来てくれよ。うん、大丈夫だって。信用してください、あんたの部下に乱暴するならあんたに連絡なんてしないよ。大事に預かっておくさ、じゃあな」
  電話を切ったあと、レムは「くそったれ」と呟いた。
「おい、祥老師あんたのこと後回しだってさ。年明けまで手がまわらないって」
「仕事が忙しいんでしょう」
「可愛い部下が蜘蛛男の自宅にいるっていうのにそれはねーよな。俺信用するのも大概にしろって思う」
  黒狸が信用していようと、私は信用していない。そう言いたいのを呑み込んだ。
  今の電話だって、本当に黒狸にかけたとは限らないじゃあないか。
「年明けして三日だとさ。それまで俺といっしょ」
「あと一週間?」
「それぐらいだな。年越し蕎麦はたぬきでいいよな?」
「どっちでも」
  エルムは諦めたように呟いた。
「風呂沸かしてある。女もんの下着なんてないから俺の新しいトランクスでいい? ブラいらねーだろ、まな板だし」
「風呂は借りるけれど、下着はこのままでいい」
「そうか。着替えは?」
「いらない。あなたの服は着ない」
  正直風呂に入るのもどうかと思うのだが、寝汗をびっしりとかいていたので不快感がつきまとうのだ。
「覗かないよ。今からどん兵衛買ってくる」
「わかった」
  レムが玄関を閉める音が聞こえた。このまま内鍵を開けて外に逃げようかとも考えた。が、雪に足をとられる手負いの状態で、レムがどこでインスタント食品を買ってくるかもわからないのに出るのは遭遇したときが危ないと感じる。
  むしろ今この瞬間は安全と考えて風呂に入っておくべきだ。
  エルムは服を脱ぎ捨てて、狭いバスタブに身を沈めた。
  腹にはでかい刺し傷があった。それを埋めるように白くなった糸。
(命拾いしただけラッキーだったのかも)
  あの日雪で失血していなかったこと、そして早めに見つけられたことが幸いした。
  別の人だったら放置したかもしれない。見つけたのが別の男だったら二次災害に遭っていた可能性もある。
  ごちゃごちゃ考えれば考えるほど頭が混乱していく。一度思考をストップさせて、バスタブへと深く深く潜った。

 

 結論から言うならば、あの電話は本当のようだった。
  年明け数日して、上司の黒狸は迎えにやってきたし、それまでレムはエルムに何もしなかった。
  食事を作り、傷口を塞ぐ糸を新しくして、テレビの年越し番組を見ながらスナック菓子を食い、いつもどおり暮らしていた。
  エルムはその間ずっと緊張しているというほどでもなかったが、油断は解かなかった。
  そして約束の日に、約束どおり黒狸が迎えにきた。
「ごめん。エルム……俺は無神経だった」
  珍しく上司の顔は疲れきっていて、エルムには黒狸のほうが今すぐ死んでしまうのではないかと感じられた。
「忙しかったんでしょう。放置されるのは慣れてますから」
  だけどいつものようにフォローしてやる余裕はエルムにもなかった。
  車を運転しているトマスが病院の駐車場へと車を入れる。
  モルヒネの治療以外を受けるのは久しぶりかもしれない。

 

 一月。上司はずっと様子がおかしかった。
  黒狸は何かに怯えているような気さえした。エルムがほんの小さな表情さえ見逃さずに「俺、悪かったかな?」
  と聞いてきた。そこまで神経過敏になられるとこちらのほうが気を遣ってしまう。
「お気になさらず」
  と言いながら、この上司に今仕事をさせるのは危ないと感じた。
  年明け前からミスの数は数ヶ月にわたり増えてきたが、何か彼は大変なものを抱えているのだろう。
「そういや、助けてくれたレムにお礼言ってなかった。あいつアイス好きなんだけど、買って届けてやってくれないか?」
「私がですか?」
  思わず眉根を寄せてしまった。
  勝手に監禁されると思ってしまったのは悪いが、そう感じてもおかしくない状況だったというのに。
「何かあいつにされたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、命の恩人じゃあないか。アイスくらい届けたほうがいいよ。大した額じゃあないし、エルムが届けたほうがいい」
  筋はとおっている。感情が筋をとおしたがっていないだけだ。
  エルムは諦めて、エグゼクティブチェアを立ち上がった。

 何のアイスがよいかわからず、とりあえず詰め合わせを買ってレムのところへ持っていった。
  渡されたマイフェイバリットというメーカーのアイスを受け取り、レムの目が輝く。
「老師が、俺に?」
「うん。お礼まだしてなかったし」
「ここのチョコチップアイス高いんだよなあ! エルム、何食ってく?」
「私はこのまま帰ろうかと……」
「食ってけよ。どのみちこんなにたくさん食べられねーし」
  エルムは握られた手を見下ろす。どうしてこうも素早く捕らえてくるのかがわからないが、お礼を言いに来て手を払うのも問題がある。
「バニラ」
「塩バニラならある」
「塩は嫌いなの」
「レモンシャーベットは?」
「そっちのほうがまだいいかな」
  レムはエルムをテーブルまで引っ張っていき、スプーンを二本出した。
  エルムというより、アイスのほうに興味がいっている目だった。
(アイス好きって本当なんだ)
  なんだか意外すぎる。ジャンクなお菓子しか食べそうにないイメージなのに。
  美味しそうにチョコレートフレバーのアイスを頬張っているレムを見ながら、エルムもレモンシャーベットを食べた。
「そういや、傷口のほうは平気?」
「動けるし平気。いつまでも休んでられないし」
  顔は合わせることなくそう言った。アイスに夢中だとばかりにシャーベットに視線を落とす。
「名前のヒント、わかった」
  一瞬何のことかわからず、しばらくして本名を当てたらデートをしてくれと初日申し込まれたのを思い出した。
「なに?」
「花」
「何でそう思った?」
「エルムレスが花だから」
「単純すぎない?」
「そう?」
「まぁ、花にも色々あるけど」
  ローゼルはたしかに花の名前だ。一般的にはハイビスカスとも言われている。夏産まれのエルムに両親がつけてくれた名前だ。
「花だね。やっぱり」
  確信をもってレムはそう呟いた。
「花だけど、分からないでしょ」
「そうだね。花だけど、花までだな。今のところ」
「もうヒントはあげないから」
「十分だよ」
  何が十分なものか。当てられるわけがない。花がどれだけあるのかわからないが、星の数ほど花は存在しているのだから。
「動くから縛ったのが悪かったのかな」
  ぽつりとレムがそう呟く。エルムが警戒を解かないことの原因はもしかしなくてもそれに決まっている。何をいまさら。
「下手したら死ぬかと思った」
  めちゃくちゃ怖かったことが伝わらないのだろうか。
「なんで? 俺がエルムを殺すの?」
「あり得ない訳じゃあない」
  そういう展開だって十分あり得た。
「ああだと抵抗できないし」
  レムはスプーンを口に咥えてきょとんとした表情をし「そうかー」と呟く。
「俺は、あんたが死ぬんじゃないかって怖かった」
「死なないよ。致命傷じゃないし」
「それは塞いだからで、傷は塞いだってなくなるわけじゃあない」
「なくならないから、気にかけるだけ無駄だ」
「エルムが自分を大切にしないのって理由があるのか?」
  無神経な質問に腸が煮えくり返るような気持ちで、スプーンをテーブルに置いた。
「ないよ、そんなもの」
「自覚はある?」
「……言われて、少し」
  黒狸にももっと自分を大切にしろと言われる。ラッセルにも言われたことがある。だけど言われたからといって、どうやれば自分を大切にできるかなどわからない。
「耐えるしかないだろ、どういう状況だって」
  喉から絞り出す声が震えるのがわかった。
「ずっとそうだった」
  ずっとずっと、そうだった。
  だからこれからもずっとそうだ。
  だからエルムレスは強くならなければいけない。だからエルムレスは自分を守れるようにならなければいけない。
「つらかったね。まだそうしてるつもり?」
  レムの質問には、誰かが守ってくれたことなど一度もないと答えてやりたいくらいだった。
「私が折れたらそれまでだから」
「エルムは自分で思ってるよりずっと弱いよ」
  何かカチンときて、すぐさま
「君に何が分かるの」
  と切り返した。
  わかってほしいとも思わないし、わかった風なフリをしてほしくない。
「何が分かるの、と言う人に何がわかってるの」
「弱いとか強いとか関係ない。弱いなら強くなるしかない」
「強いって折れないこと? 負けないことか?」
「そうだよ」
  言い切る。そんなの違うって言われたってお前がのうのうと生きてこれたからだ。
  ローゼルと同じ運命をたどれば、レムだってエルムレスになるだろう。
  レムは唇でスプーンを弄んでいたのを元に戻して、呟いた。
「俺いろいろごちゃごちゃ考えすぎたな。もっと伝えたいことがあったはずなのに」
  なんだというのだ。明確に言え。明確に。
  そう思っていると切り返しは意外とシンプルだった。
「一言で表現したら、好きってことか」
  普段面倒くさい上司の相手をさせられていると、このシンプルさは潔ささえ感じる。
「なんとかしたいも、なんともできないも、もどかしいものは全部好きからスタートしてるな」
「なんで……」
  なんで私なんか。なんかってなんだろう。
  私なんか……。
  いろいろとぐるぐる思考が錯綜する。
「なんでだろう。いいな、って感じた」
「女扱いされるのは好きじゃない」
  女扱いされてよかった試しなどない。
  女は弱い。女は利用される。女に労働的価値が認められたことなどない。女は性欲のはけ口だ。
「エルムは男じゃない」
  当たり前だ。どう願ったところで男と同じにはなれなかった。
「どんなに男になろうとしても、せいぜい女じゃなくなるだけ」
「女じゃなくていい」
「俺も別にあんたが男じゃなきゃいいや」
  男はちょっとねえ……とばかりにレムは笑った。なんとなく頭の中を身近な男たちが過ぎていく。
「好かれても応えられない」
  嘘。応えたくない。
「恋人がいるからって理由なら理由にならない」
「仕事ばっかりで構えないし。愛想尽かすよ、きっと」
「エルムはふしぎだね。嫌われる理由は並べられるんだ」
「事実を言ってるだけだから」
  なんでわかってくれないんだろう。事実は事実なんだってことを。理想をどれだけ並べたところで、飽きられるのは一瞬だということが何故わからないのだ。
「UFOがきてシエルロアを攻撃するSFがあったんだけどさ、UFOが攻撃してくる確率より怖いってことのほうが大事だと思うんだ。もしくは映画を楽しんだっていう事実」
  UFOなんて知るかと言おうとしたら続きがあった。
「両想いになる確率、破局する確率よりずっと大事だと感じる」
  レムがまっすぐ見つめてくるので、視線を少し落とした。レムのアイスは溶けかけていた。今はエルムのことだけを見ていた。
「今は答えを出せない」
  エルムは食べかけのシャーベットを置いて立ち上がった。逃げるようにレムの家を飛び出す。
  間の悪いことに雨が降っていた。後ろから傘を持ったレムがゆっくり姿を現して
「送るよ」
  と言った。車まで送ってもらえたらあとは帰るだけだ。
  エルムは自分の心に、落ち着けともう一度命令をかけた。
  エルムレスは孤独を保つ――。
  孤独を保つ。男たちに尻尾を振って最後どうされたか思いだせ。
  そう心中呟き、男に心を許さないともう一度誓う。