05 翌朝
「黒狸、朝だぞ。起きろよ」
朝目が覚めると、自分を覗きこんでいたのは恋人でも母親でもなく、昨日泊めた男だった。
「キーリ……」
寝ぼけて自分の声が普段より低くなっている。
「睡眠不足。もうちょっと寝かせて」
「何時に寝たのか知らないけど、今十時だぞ」
キリシュの言葉にがばっと黒狸は飛び起きた。壁にかかっている時計を確認すると、たしかに十時三分前を指している。
「遅刻だ……」
「仕事あるやつって大変だな」
「ああくそ、飲み過ぎた」
黒狸はだらだらと起きだして、洗面所に歯を磨きに行く。
歯を磨きながら昨日のことを思い出した。
タクシーの中で目を覚ましたキリシュは、酔っ払って黒狸のベッドにもぐりこんだあとはすやすやと眠ってしまった。
黒狸は床で寝たふりをしながら、異能が効いているかずっとキリシュの動向をうかがっていた。
しかし黒狸が水を飲むために起き上がったときもキリシュは幸せそうな寝顔を作って寝ていたし、元軍人とは思えないほどの無防備さだった。
こりゃあ完璧に術中にはまったな。
そう確認したあと、黒狸は仮眠をとるべく朝になりかけた時間に眠ったのだ。
「黒狸、仕事行かないのか?」
「朝飯作ってから出かける。もうこの時間じゃ残業増やしたほうが早い」
「まだ家にいる? シャワー借りたいんだけど」
「どうぞ」
背中で服を脱ぎだす衣擦れ音が聞こえる。
同性が脱いでいると思っても気になる音に一瞬だけ動きが止まったが、黒狸が口をゆすぐタイミングでキリシュが裸のまま黒狸とすれ違った。
閉まるバスルームの扉と、シャワーの音。
いちいち無防備な男だ。
黒狸はダイニングキッチンに戻ると、オムレツを焼いてトマトを切った。
トースターに突っ込んだパンが焼きあがった頃、「タオルちょうだい」という声が聞こえる。
洗いたてのタオルを持って行ってやると、キリシュは猫が頭をかくみたいにごしごしとタオルで濡れた頭をふいている。
風呂から上がりたての皮膚からはほんのりと石けんに混じった肌特有の香りがした。
「ちょっと待て」
再び着ていた服を着ようとしたところを止めて、黒狸は聞いた。
「服、それしかないのか?」
「? そうだけど」
「だったら今から洗って乾燥するまで着替え渡しておくからそれでも着てろよ。いくらなんでも、汚いだろ」
「この前洗ったのに」
この前。という単語になんだかもやっとしたものを感じる。男らしいと言えばそれまでだが。
黒狸はクリーニングに出したあとのシャツと部屋着のズボンを渡した。
キリシュはそれに足をとおしたり袖をとおしたりして
「ちょっと丈が小さいね」と言った。同じくらいの身長だと思ったが、キリシュのほうがやや大きいらしい。
「いつから宿なしなわけ?」
「銭湯追い出されてから」
「シエルロアの老舗銭湯って言ったらユンファのところぐらいしか知らねーけど」
「うん、ユンファさんところの銭湯追い出された」
ギルドにいる前はマフィアの傘下にある銭湯で下働きか。節操なくあちこち移動しているところを見ると、本当に軍に戻る気はなさそうだ。
「服乾燥するまで居ていいの? 仕事は」
「今日は都合により休日にしました」
「できるのか? そんなこと」
「自宅で仕事するんです」
仕事場に持っていくノートパソコンをデスクに広げながら、黒狸はパンを咥えた。キリシュは隣にあった皿をベッドに運び、一人でむしゃむしゃと食べている。
「黒狸、悪いな。服まで洗ってもらって」
「気にすんなよ、友達だろ」
その言葉に嬉しそうにぴくっと反応するキリシュを見るのはちょっとおもしろかった。
どうせだから、このまま友達になってしまおうか。
そうすれば万が一術が解けたときも都合がいいじゃあないか。まやかしの友達でなくなってしまえば殺される理由はより遠のく。
「なあ、キーリ。お前さえよければだけど、困ったときはいつでも頼ってくれていいからな?」
後ろで咀嚼する音が一瞬止まる。何か考え込んだような間があいて「いいの?」と聞いてきた。
「助け合いの精神です。キーリも昔助けてくれただろ?」
「……そうだな」
あるはずもない記憶を呼び起こし、キリシュがそう言ってへへっと照れるように笑う声が聞こえた。
(こいつ、寂しかったんだろうな)
意地悪な思考が同情なのか優越感なのかわからない感情を呼び起こす。
キリシュは後ろで音痴な鼻歌を歌っていた。あまり歌は得意じゃあないようだと思いながら、それをBGMに自宅で仕事をしてその一日は終わった。
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